「どうする家康」徳川家康が小田原北条氏の滅亡を確信した納得のワケ
- 2023/09/26

大河ドラマ「どうする家康」第36話は「於愛日記」。徳川家康が、小田原の北条氏を上洛させようと尽力する様が描かれました。
天正14年(1586)10月27日、徳川家康は大坂城にて、豊臣秀吉に謁見。秀吉に臣従を誓います。以後、家康は豊臣重臣として、活動していくのです。家康を臣従させた後の秀吉は、天下統一に向けての軍事行動を更に推進していきます。天正15年(1587)3月には、秀吉自らが出馬し、九州征伐を行い、九州を席巻していた薩摩の島津義久を降伏(同年5月)に追い込みます。
天正14年、家康は居城を浜松から駿府に移しています。本能寺の変(1582年6月)後、家康の領国は、それまでの三河、遠江、駿河から、甲斐・南信濃にまで拡大していました。5ヶ国にまで広がった領国を上手く統治するには、浜松ではなく、駿府の方が良いと家康は判断したのでしょう(駿府での普請自体は、既に天正13年=1585年から始まっていました)。
さて、天正14年3月、家康は、三島・沼津にて、小田原の北条氏政と会見しています(氏政の子・氏直には、家康次女・督姫が嫁いでいました)。『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)によると、氏政父子が伊豆三島まで来ることを聞いた家康が、使者を派遣して、北条父子と対面したいと告げたとのこと。すると、氏政からは「黄瀬川(静岡県東部の川。源頼朝とその異母弟・義経が対面を果たした場所として有名)を越えて、こちらに来て欲しい」との要求が。
徳川重臣・酒井忠次は
忠次:「氏政の要求の通り、黄瀬川を越えて対面すれば、世の人は、徳川殿は北条の麾下となったと噂し、当家の名折れとなりましょう。黄瀬川を越えることなりませぬ」
と家康を諌めたと言います。ところが、家康は
家康:「そのような事にこだわるのは、詮ないこと。氏政が真心でもって私に接するからには、私はその下に立つことは厭わない」
と、北条の要求通りに会うことを約したのでした。三島において対面した家康は、氏政父子を上座に座らせ、自らは下座にあったとのこと。徳川からは、酒井忠次・井伊直政・榊原康政が陪席していました。
家康:「これまでの宿怨を晴らし、打ち解けることこそ肝要」
と家康は言い、酒席で、舞を舞ったそうです。酒井忠次は、「どうする家康」でもお馴染みの「海老すくい」を舞いました。「例の得手舞」(『徳川実紀』となりますので、これは忠次の十八番だったのでしょう。そういった様を見て、北条の家臣らは「徳川殿は、当家の家臣じゃ」などと放言したそうです。
会見を終え、帰国した家康は「北条の世も末じゃ。やがて、滅ぶであろう」と本多正信に語ったといいます。北条重臣の振る舞いを見て、家康はそう感じたようです。
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