「今川義忠」応仁の乱で東軍に属し、遠江国奪還を目指すも…

 織田信長が飛躍するきっかけになったのが駿河国守護である今川義元を討った「桶狭間の戦い」です。圧倒的な勢力を築きながらも敗れた今川氏ですが、はたしてどのようにして強国を作り上げたのでしょうか。

 今回は義元の祖父にあたる6代目当主「今川義忠」の活躍についてお伝えしていきます。

問題なく今川範忠より家督を継ぐ

6歳で千の兵を率いて上洛?

 義忠は、今川氏として初めて駿河国守護となった今川範国から数えて6代目の当主です。永享8年(1436)に5代目の今川範忠の嫡男として誕生しました。

 父の範忠は室町幕府将軍の足利義政に、「副将軍になってほしい」とまで言わしめるほどの戦功をあげた人物です。そこには息子である義忠も貢献しています。

※参考:駿河今川氏の系譜
  • 初代範国
  • 2代範氏
  • 3代泰範
  • 4代範政
  • 5代範忠
  • 6代義忠
  • 7代氏親
  • 8代氏輝
  • 9代義元
  • 10代氏真

 義忠の名前が登場してくるのは、嘉吉元年(1441)に起きた嘉吉の乱です。これは当時の6代将軍足利義教が、播磨国・備前国・美作国の守護である赤松満祐に暗殺された騒動です。

足利義教の肖像画(愛知県一宮市妙興寺 蔵)
恐怖政治を志向した暴君で知られる6代将軍足利義教

 満祐は山名持豊らによって討伐されていますが、このとき義忠は範忠の名代として千の兵を率いて進軍し、尾張国あたりまで進んでいます。義忠自身は満祐が討たれたことを知り、ここから駿河国に引き返しています。ただし、このときの義忠は元服前のわずか6歳で当然兵を統率する力もありませんので、あくまでも名代です。

将軍義政に認められ、家督を継承

 その後、7代将軍足利義勝もすぐに亡くなったため、8代将軍となったのが義政です。義忠は義政の「義」の偏諱を授かり、元服して義忠を名乗ったのですが、そこには享徳3~文明14年(1454~83)の享徳の乱での義忠の活躍があったからです。

 享徳の乱は、鎌倉府の足利成氏が関東管領である上杉憲忠を暗殺し、幕府に逆らった騒動ですが、このとき義忠は鎌倉府を攻めて成氏を追放しています。成氏は下総国古河へ逃れ、古河公方として幕府に対立します。

足利成氏(浮世絵、四代目 歌川豊国 作)
幕府から鎌倉公方に任命された足利成氏。父の持氏も鎌倉公方でかつて幕府と対立。最終的に自害している。

 『今川家古文書写』によれば、寛正2年(1461)3月には範忠から家督を譲り受け、義政に認められています。範忠はその2ヶ月後に病没しますが、自身が家督を継いだ際に内訌で苦しんだ過去があるだけに、生前譲与を行い、問題なく家督相続をしたかったのでしょう。実際に義忠の家督相続でもめた記録はありません。

 家督を継いだ義忠は、義政の命令で新しい鎌倉公方である足利政知を援助しますが、関東での成氏の人気は高く、政知は鎌倉まで進むことができず、伊豆まで踏み込むのがやっとで、この地で堀越公方として、古河公方と対峙していきます。

遠江国を巡る斯波氏との争い

国人一揆が鎮圧されて今川氏の影響力が低下

 かつての今川氏は駿河国の守護だけではなく、遠江国守護も兼任していましたが、4代範政のときに遠江守護の座を斯波氏に奪われてしまいます。

 今川氏としてもなんとか遠江国の支配を取り戻そうと苦慮しましたが、長禄3年(1459)に今川氏一門で遠江今川氏当主の今川範将(堀越範将)が国人一揆を組織し、斯波氏に対して反乱を起こすも敗北。範将の死によって今川氏の遠江国支配は大きく後退してしまいます。

 遠江国は、越前国・尾張国守護の斯波氏が守護を務めていますが、在住しているわけではなく、さらに守護代である甲斐氏も越前国の守護代と兼任しているために在住していません。そのため国人領主が力を持つ特徴的な国となっていました。

 今川氏はこの国人領主を上手く味方に引き込みながら、斯波氏に対抗していくのです。

応仁の乱では東軍に味方し斯波氏と対立する

 しかし正式な守護に任じられている斯波氏に対して不利な状況が続きます。そんな最中の応仁元年(1467)、全土を巻き込む騒動が起こります。

 言わずと知れた「応仁の乱」です。管領の斯波氏、畠山氏の継嗣問題に端を発し、将軍義政の後継者の継嗣問題、細川勝元と山名宗全の主権争いが絡み、京都だけでなく、全土が東軍と西軍に分かれて争い始めました。

応仁の乱の主要人物相関
応仁の乱の主要人物相関

 上洛した義忠は、西軍を率いる宗全から誘いを受けますが、遠江国守護の斯波義廉が同じように西軍に属していることからこれを断り、東軍に味方します。そして東軍を率いる勝元から遠江国を攪乱するよう指示を受けて、応仁2年(1468)に駿河国に戻るのです。

 東軍を支持した義政も、義忠を遠江国懸革荘の代官職に任じたので、義忠は遠江国に進出するしっかりとした足場を確保することができました。

 ちなみにこの上洛していた時期に、義忠は幕府申次衆の伊勢盛定の娘を室に迎えています。「北川殿」と呼ばれており、政所執事である伊勢貞親の姪にあたります。浪人であった伊勢新九郎盛時(北条早雲)の姉(妹とする説もあり)であることから、正室ではなく側室だったという説もありますが、血筋を考えると正室だったのではないでしょうか。

 北川殿との間に生まれた女子は、のちに正親町三条実望に嫁いでいます。また、男子である龍王丸(のちの今川氏親)は今川氏の家督を継ぐのです。このときから北条氏と今川氏は縁戚関係となり、強い絆で結ばれていきます。

遠江国への進出

見付城を攻略し、勢力を拡大

 義忠は駿河国に戻ってから虎視眈々と遠江国制圧の機会をうかがいます。

 遠江国で力のある国人領主は、東遠に一大勢力を誇っていた横地氏と勝間田氏、中遠に位置する今川氏一門の堀越氏、勢力を誇る原氏、さらに国府のある見付には狩野氏、引馬には三河国吉良氏の代官である巨海氏、大河内氏、浜名湖方面には浜名氏、井伊氏、さらには天野氏や奥山氏などです。

遠江国の国衆分布マップ。色塗部分は遠江国

 義忠は味方する国人領主を増やしながら、文明6年(1474)に狩野氏の見付城を攻めました。見付城はかつて範将の拠点であり、その死後は狩野七郎右衛門尉の訴えで御料所としての指定を受けて没収されていたのです。

 義忠は狩野氏や巨海氏を倒して見付城を攻略しますが、この頃には遠江国守護には東軍に味方する斯波義良が任じられていました。ややこしいのですが義忠は同じ東軍派の斯波氏、さらには巨海氏を倒したため、三河国の吉良氏とも敵対関係になってしまいます。

横地氏と勝間田氏の裏切りにより、戦死を遂げる

 さらには西軍の甲斐氏が東軍に寝返り、遠江国守護代に任じられたことで遠江国の統治はまさにカオス状態。東軍内での遠江国を巡る覇権争いとなっていくのです。

 斯波氏も今川氏と徹底抗戦の構えで、文明7年(1475)の小夜中山の戦いでは斯波勢が勝利を収めています。翌文明8年(1476)には今川氏に味方していた横地氏と勝間田氏が斯波氏に寝返り、見付城を復旧させて今川氏と戦う構えを見せます。

 これに対し、義忠は自ら兵を率いて戦い、横地氏当主である横地四郎兵衛、勝間田氏当主である勝間田修理亮を討ち果たしました。しかし、義忠はその後で塩買坂という場所で残党に襲われ、流れ矢を受けて戦死してしまいます。

 『今川記』には誤って塩見坂と記載されているため、潮見坂という場所が義忠討ち死にの場所とされていましたが、正しくは塩買坂であり、義忠は見付で勝利した後に駿河国に帰還せず、横地城と勝間田城を攻めようとしたのではないかと考えられています。

おわりに

41歳だった義忠の急死により、その後の今川氏は家督争いに突入していきます。このとき嫡男の龍王丸はわずか6歳だったからです。こうして遠江国の制圧は次世代に持ち越しされました。一本の流れ矢が今川氏の運命を大きく変えたのです。

 数々の武功をあげている義忠が戦死せずに、このまま当主を続けていれば遠江国だけではなく、三河国まで一気に勢力を拡大できていたかもしれません。そうなれば今川義元が家督を継ぐ頃には尾張国もその支配下にあり、信長は義元の家臣に過ぎなかった可能性も充分あります。


【参考文献】
  • 有光 友學『今川義元(人物叢書)』(吉川弘文館、2008年)
  • 小和田 哲男『駿河今川氏十代(中世武士選書25)』(戎光祥出版、2015年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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