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  • 今川義元
 2019/10/20

【家系図】今川義元は足利氏の末裔?今川氏のルーツとその歴史

今川氏発祥の地(愛知県西尾市)
今川氏発祥の地(愛知県西尾市)
「海道一の弓取り」の異名を取った今川義元は、将軍の座を狙って上洛したとも伝わっていますが、尾張国を支配していた織田信長の奇襲によって討たれました。奇跡の大逆転劇です。

今川氏はここから一気に衰退していくことになりますが、そもそも今川氏はなぜこのような大きな勢力となれたのでしょうか?今回は今川氏の誕生とその発展についてお伝えしていきます。
(文=ろひもと理穂)

今川氏を名乗るまでの経緯

源氏→足利氏→吉良氏→今川氏

今川氏誕生までの経緯は『今川記』に記されています。源流は清和源氏で、源義家の末裔です。

転換期は義家の子孫である足利義氏の代でした。義氏の長子は足利長氏でしたが、義氏が執権である北条義時の娘と結婚し、足利泰氏が生まれたことで、家督は母親の家格の高い弟の泰氏が継承し、長氏は庶流となり、三河国の吉良荘を領有し吉良氏を名乗ります。

足利宗家の3代目・足利義氏の肖像画(鑁阿寺 蔵)
足利宗家の3代目・足利義氏の肖像画(鑁阿寺 蔵)

ちなみにこの泰氏の子の足利頼氏が足利氏の家督を継ぎ、その三代後に室町幕府の初代将軍となる足利尊氏が登場するのです。泰氏の他の子らは斯波氏や一色氏、渋川氏、石堂氏といった別家をたてました。

今川氏の略系図

吉良氏を名乗った長氏の長子は吉良満氏、次子は吉良国氏です。吉良氏の家督は満氏が継承したため、国氏は今川荘の3村を領有し、今川氏を名乗りました。大きな勢力とはとてもいえない状態ではありますが、こうして今川氏は誕生したのです。

御所(足利氏)が絶えれば吉良氏が継ぎ、吉良氏が絶えれば今川氏が将軍職を継ぐという言い伝えもこうした背景があったから生まれたのでしょう。

初代はなぜ今川範国なのか?

しかし、今川氏の初代当主は国氏ではなく、孫にあたる今川範国となっています。なぜでしょうか?

※参考:駿河今川氏の系譜
  • 今川国氏
  • 基氏
  • 範国(初代)
  • 範氏(2代)
  • 泰範(3代)
  • 範政(4代)
  • 範忠(5代)
  • 義忠(6代)
  • 氏親(7代)
  • 氏輝(8代)
  • 義元(9代)
  • 氏真(10代)

国氏の後は今川基氏が家督を継いでいます。基氏の弟らも関口氏、入野氏、木田氏という別家をたてました。後に義元の命令で徳川家康が関口氏の娘を娶った際に、家康は今川氏の一門衆として扱われています。

基氏は今川荘を受け継ぎましたが、今川氏の名声を高めるのはその子らでした。建武2(1335)年に北条時行が信濃国で挙兵し、建武新政府に反旗を翻します。足利直義は鎌倉を追われ、京都から駆け付けた尊氏の軍勢と三河国で合流し、この地で時行の軍勢と激突しました。小夜中山の戦いです。

基氏の長子、今川式部大輔頼国は尊氏の陣営に属して敵将である名越邦時を討ち取るなど活躍し、「今川に勇将あり」と名を轟かせますが、相模川の戦いで戦死。基氏の次子、今川刑部少輔義満も同じくこの戦いで討ち死にしており、詳細の記録は残っていませんが三男も戦死したと考えられています。

今川氏の必死の働きによって尊氏は鎌倉の奪還に成功しました。ただし基氏の子らが多数討ち死にしたため、家督は五男の今川五郎範国が継ぎます。しかし後醍醐天皇は尊氏の追討を決め、新田義貞に命じました。直義は三河国で義貞に対峙するも敗退。その後に尊氏が迎撃し、入京しましたが、奥州の北畠氏が追撃したために九州まで落ち延びます。態勢を整えた尊氏は光厳上皇を奉じて入京。

ここから南北朝時代を迎えますが、範国は今川氏の活躍を認められて遠江国の守護に任じられました。今川氏は初めて守護となったのです。そのため範国が初代当主とされています。

駿河国と遠江国の守護を兼任

建武4(1337)年には後醍醐天皇の要請を受けた北畠氏が鎌倉を攻略し、上洛を目指しました。駿河国の石塔氏や遠江国の今川氏の軍勢も敗れて美濃国まで後退しています。尊氏は美濃国の青野原の戦いで北畠氏の勢いをそらせることに成功しました。このとき、後詰めとして活躍したのが範国です。

結果として抵抗できなかった石塔氏は駿河国守護を解任され、活躍した範国が駿河国の守護に補任されています。今川氏が初めて駿河国を支配した瞬間です。範国は駿河国と遠江国の守護を兼任しました。ここから今川氏は駿府(府中)を本拠にしたと考えられています。

今川貞世と2代範氏・3代泰範

範国は長子の今川範氏ではなく、弟の今川貞世(了俊)に家督を継がせたかったようです。しかし貞世は兄をたてて当主の座を引き受けませんでした。

『英雄百人一首』にみえる今川貞世(橋本貞秀 画)
『英雄百人一首』にみえる今川貞世(橋本貞秀 画)

観応の擾乱で活躍し「一人当千」と評価された2代目の範氏でしたが、文和2(1353)年に亡くなっています。ここでも貞世が今川氏の家督を継ぐよう家中の要請を受けたようですが、彼はあくまでも固辞しました。

そんな中、範氏の嫡男である今川氏家も亡くなってしまいますが、それでも貞世はあくまでも範国の血筋に家督を継がせようとし、範氏の子で建長寺に入っていた今川泰範を還俗させ、当主にしています。

この頃の貞世は、幕府の引付衆長官などを務め、その後は九州探題として活躍しますが、その権勢を警戒した将軍・足利義満により、応永2年(1395年)には解任、その後は駿河半国守護を命じられて一時的に泰範と分割統治をしています。

3代泰範は大きな勢力を誇った山名氏討伐で活躍し、応永7(1400)年義満から論功行賞で駿河国・遠江国の両守護の補任を受けています。

4代範政と5代範忠

鎌倉府との戦い

応永16(1409)年に泰範が没すると、今川範政が4代目当主となり、関東の争乱鎮圧で活躍します。

応永23(1416)年には関東管領の上杉禅浄が鎌倉府を攻め、鎌倉公方の足利持氏を追い出します。将軍足利義持はすぐに範政に追討の命を下し、範政は越後国の上杉氏や信濃国の小笠原氏と共に禅浄を倒しました。このとき範政は出羽国や安房国の一部の領土を恩賞として与えられましたが、持氏がこれを妨害。こうして今川氏は、今度は鎌倉府と対立していきます。

しかしここで思わぬ事態が起こります。後継者継嗣問題です。範政が嫡男の範忠ではなく、末子の千代秋丸を世継ぎに希望したため、永享4(1432)年に範忠は急遽仏門に入ることに。翌年には範政が没し、さらにここに次子の今川弥三郎も家督相続を希望したため、大混乱に陥ります。

千代秋丸は扇谷上杉氏の娘であり、山名氏との結びつきがありました。弥三郎も細川氏の支持を受けており、まさに応仁の乱前の代理戦争の様相です。

ただ、ここは将軍・足利義教が母方有縁ではなく、しっかりと駿河国を統治できる範忠を守護に決めたことで決着しました。鎌倉府と室町幕府の対立が激しくなっており、室町幕府にとって防衛拠点である駿河国を信頼できる者に任させる必要があったのです。

「天下一苗字」の恩賞

承享の乱で鎌倉府と関東管領が争った際には、範忠は将軍の命により関東管領に味方し、持氏を倒します。さらにその遺児を奉じて挙兵した下総国の結城氏の反乱も鎮めました。

その功績で今川氏は「天下一苗字(この世に一家だけの姓とする)」として、範忠の嫡流のみ今川氏を名乗ることが許されることになったと伝わっています。

6代義忠は討死も、7代氏親が戦国大名化を果たす。

6代目の義忠は新たに室町幕府より派遣された堀越公方を助け、鎌倉府を追われた古河公方と対立。さらに応仁元(1467)年から始まった全土を巻き込む覇権争い「応仁・文明の乱」でも将軍方の東軍に味方し、斯波氏に守護を奪われた遠江国奪還を目指します。

義忠は遠江国に侵攻して勢力を拡大しましたが、奇襲を受けて戦死。これによりまたも今川氏は後継者争いが勃発するのです。

義忠が北条早雲の姉と結婚していたため、嫡男の氏親は叔父である早雲の協力を得て、当主代行を務めていた小鹿新五郎範満を倒して家督を奪い返します。さらに早雲が兵を率いて遠江国へ侵攻し、その勢いで三河国まで勢力を拡大しました。

永正13(1516)年ごろには氏親は遠江国引間城を攻略し、遠江国の制圧に成功しています。氏親は早雲を真似て遠江国で検地を行っていき、こうして今川氏は駿河・遠江の2か国を有し、守護大名から戦国大名へと変貌していったのです。

女戦国大名と9代目当主・義元の誕生

寿桂尼による補佐

大永6(1526)年に氏親が没すると、8代氏輝が家督を継承します。ただし、まだ14歳と若かったためにその領国支配を補佐したのは母親の寿桂尼でした。氏親の生前には分国法「今川仮名目録」の制定にも関わったと考えられており、彼女の力によって今川氏による統治をより強固なものにしています。

天文4(1535)年、今川勢は甲斐国へ侵攻しました。相手はあの武田信玄の父親である武田信虎です。このとき同時作戦を展開したのが相模国の北条氏綱で、信虎が今川勢と戦っている隙に甲斐国へ攻め込んでいます。

信虎はすかさず上杉朝興と連携し、北条氏の本拠地である小田原城を攻めさせたために北条勢はすぐに撤退したのですが、早雲の代から今川氏と北条氏が強い同盟関係を維持していたことを物語っています。

花倉の乱と武田氏との接近

しかし天文5(1536)年に氏輝が急死、さらに弟の彦五郎(氏輝と同一人物という説もあります)も同じく謎の死を遂げたために、家督は氏親の五男である梅岳承芳(のちの今川義元)が受け継ぐことになりました。

義元も寿桂尼の子です。兄に母親が違う玄広恵探がおり、この家督相続に異を唱えて花倉城で挙兵しましたが、味方するものは母方の福島氏ぐらいなものであっさりと滅ぼされています。

家督を継いだ義元は、大きく舵をきり、これまで敵対していた武田氏と結び、信虎の娘を室に迎えました。氏輝らの急死や義元の家督相続に信虎が関与しているとも考えられています。

北条氏は当然のようにこの決定に怒り、駿河国へ侵攻しますが、北条氏としても周囲を敵に囲まれた状態に陥るため、最終的には今川氏、武田氏とも同盟を結び、天文23(1554)年に「甲相駿三国同盟」が成立するのです。

善徳寺の会盟(甲相駿三国同盟)のイラスト

おそらくこれは義元やその補佐役だった雪斎の思惑通りの展開だったのでしょう。

甲相駿三国同盟によって隣国との関係を強固なものにした義元は後背を気にすることなく万全の準備を整えて、永禄3(1560)年上洛のために尾張国を攻めます。ただし、油断した結果、信長の奇襲を受け、義元は桶狭間の戦いで討ち死にするのです。

まとめ

足利氏の末裔であり、将軍家とも強い繋がりがあった今川氏。家柄や勢力から考えても、義元が室町幕府の新しい将軍となってもおかしくはありませんでした。

もし、義元が油断することなく尾張国を制圧し、上洛していたら、戦国時代はまったく違うものになっていたに違いありません。


【参考文献】
  • 有光 友學『今川義元(人物叢書)』(吉川弘文館、2008年)
  • 小和田 哲男『駿河今川氏十代(中世武士選書25)』(戎光祥出版、2015年)



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