「今川氏親」守護大名から戦国大名へ!戦国今川氏の礎を築く
- 2019/10/09
駿河国の守護として君臨し、隣国まで勢力を拡大していった今川氏ですが、6代目当主である今川義忠の戦死によって大きく動揺します。これを鎮めたのが戦国大名として有名な「北条早雲」です。
この早雲と、7代目当主となる「今川氏親」はどのような間柄だったのでしょうか? 今回は、早雲の影響を受けながら戦国大名へと変貌を遂げた今川氏親についてお伝えしていきます。
この早雲と、7代目当主となる「今川氏親」はどのような間柄だったのでしょうか? 今回は、早雲の影響を受けながら戦国大名へと変貌を遂げた今川氏親についてお伝えしていきます。
父の横死で後継者争いが勃発
氏親は駿河今川氏6代目にあたる今川義忠の嫡男として誕生しました。生誕年は没年から逆算した文明3年(1471)のほか、文明5年(1473)の説もあって定かではありません。※参考:駿河今川氏の系譜
- 初代範国
- 2代範氏
- 3代泰範
- 4代範政
- 5代範忠
- 6代義忠
- 7代氏親
- 8代氏輝
- 9代義元
- 10代氏真
氏親が誕生した当時は応仁の乱の最中であり、父の義忠も遠江国守護の奪還に向けてまさに戦の連続でした。
そんな中、義忠は遠江国制圧のために見付に攻め込み、敵方の斯波氏に寝返った横地氏と勝間田氏を討ちますが、駿河国に帰還することなく横地城や勝間田城を攻めようとして進軍している最中、奇襲を受けて命を落としてしまいます。文明8年(1476)2月のことでした。
流れ矢で総大将を失うことは、今川勢にとって最も避けたい事態だったはず…。義忠が油断したのか、それとも敵の奇襲攻撃が巧妙だったのか詳細は不明ですが、これで今川氏による遠江国支配が大きく後退したのは言うまでもありません。
実際に義忠の死後まもなく、今川家中では「文明の内訌」と呼ばれる家督争いが起きて足並みが乱れ、遠江国侵攻どころではなくなってしまいます。義忠が41歳の若さで急死したことと、嫡男である龍王丸(氏親の幼名)がわずか6歳(または4歳)だったことが家臣を二分することになってしまったのです。
龍王丸と家督争いをしたのは、小鹿新五郎範満で、義忠の従兄弟にあたります。今川氏一門で、駿河国小鹿を拠点としていたので小鹿の姓を名乗っています。範満の父親は4代今川範政の子である今川範頼です。そして母親は堀越公方の重臣である上杉政憲の娘であることから、堀越公方の足利政知や関東扇谷上杉定正らの支持を得て、範満の家督相続はかなり有利な状況でした。
暗殺されることを怖れたのか、龍王丸と母親である北川殿は家臣の屋敷に隠れ住んでいます。
北条 早雲の仲裁で一旦は決着
家督争いは武力衝突寸前でした。堀越公方の正知は、政憲に300の兵を率いさせて駿河国の狐ヶ崎に布陣させていますし、定正も太田道灌に300の兵を率いさせて八幡山に布陣させています。駿府の龍王丸を支持する勢力への圧力を加えたのです。しかしここで仲裁に入ったのが伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)でした。早雲は龍王丸の母親である北川殿の弟(兄という説もあります)です。その危機を救うべく、範満や政憲、道灌の説得に向かいます。
早雲の示した折衷案は、「龍王丸が成人するまでは、範満が当主代行を務める」というものでした。内輪もめで今川勢の力を削ぐことの愚かさも説いたようです。この提案には誰もが納得したようで、武力衝突を回避することに成功し、同年10月には道灌は本国に帰還しています。
これにより駿府の今川館には範満が当主代行として入り、長谷川政宣の拠点である小川城に隠れ住んでいた龍王丸は、次期当主として丸子の泉ヶ谷の館に移りました。ここは今川氏の重臣である斎藤加賀守安元の拠点です。こうして龍王丸は命を狙われることもなく、成人を迎えることができたのです。
早雲の活躍がなければ、龍王丸は早々と殺されていたかもしれません。早雲は龍王丸にとって叔父であり、命を救ってくれた大切な存在でした。
小鹿範満を討伐し、正式に今川当主へ
早雲はこの文明の内訌を収めた後、上洛して幕府の申次衆として名を連ねています。文明11年(1479)に室町幕府将軍である足利義政から、龍王丸を駿河国守護に任じる御内書が発給されていますが、これはおそらく早雲の働きがけが功を奏した結果でしょう。これで龍王丸は正式に成人した際に家督を継げることが証明されたのです。
当時の成人の時期は15歳にあたります。文明17年(1485)、龍王丸は成人となりますが、範満は家督を返そうとはしませんでした。早雲が家督争いの仲裁に入り、龍王丸が成人するまで代行を務めると駿府の浅間神社の神水でくみかわし約束したことを反故したのです。
これは将軍の命令にも逆らったことも示しています。龍王丸は抗議したでしょうが、翌年もその翌年になっても家督が返されることはありませんでした。
ここで龍王丸が頼った相手がやはり早雲でした。依頼を受けた早雲は駿府に下向してきます。早雲は幕府にあって将軍に仕えることよりも、甥の龍王丸を助けることを選んだということです。文明19年(1487)4月から9月ごろと考えられています。
早雲は打倒範満のために石脇城を築城しますが、城の完成前に範満を倒せる好機があり、範満を討つことに成功。こうして龍王丸はようやく今川氏の家督を継ぐことができました。
早雲にはその功績により、富士郡下方12郷と駿東郡の興国寺城が与えられました(善得寺城という説もあります)。龍王丸はこの時期に元服したという説と、それ以前に元服していたという説がありますが、これより正式な7代目当主「今川氏親」を名乗るのです。
早雲の協力を得て勢力拡大
遠江・三河への侵攻
その後も氏親は早雲に協力してもらい、父義忠の悲願であった隣国の遠江国制圧に動き出します。家督争いの仲裁や、家督相続の手助けだけでなく、領土拡大まで早雲に頼りっきりという状態です。そしてその期待に見事応える器量を早雲は持ち合わせていました。
明応3年(1494)、早雲は今川勢を率いて、遠江国の原氏を攻めて、高城を攻略。『円通松堂禅師語録』には、早雲が数千の兵で高城を攻めて、焼き払ったことが記されています。
原氏は遠江国守護の斯波氏方でしたが、これを潰すことで今川氏は中遠まで進出することができたのです。これに対し斯波氏は信濃国守護である小笠原氏に協力を要請し、文亀元年(1501)には遠江国二俣に布陣してもらい、今川勢に圧力をかけています。
しかし、早雲の合戦は遠江国浜松方面だけにとどまりません。隣国の三河国へも侵攻して岡崎城や岩津城を攻めているのです。永正3年(1506)以降は西三河の松平長親と戦っており、東三河の有力諸氏である今橋の牧野氏、一色の牧野氏、二連木の戸田氏、西郡の鵜殿氏、作手の奥平氏、段嶺氏、長門氏らが次々と今川勢に味方していきます。
永正5年(1508)には、氏親が正式に遠江国守護の補任を幕府から受けることができました。ただし、肝心の早雲がこの時期から伊豆や相模国に進出していくため、三河国の統治は不安定となり、遠江国での斯波氏の反撃も強まっていきます。やはり今川躍進の中心にいたのは早雲だったのでしょう。
斯波氏は直属の武衛衆の他に、大河内氏の引間衆、井伊氏の井伊衆らを率いて徹底抗戦しますが、氏親は永正13年(1516)、天竜川に300の船を繋げて架け橋とし、金山の採掘職人を使って引間城の水源を断ち、引間城を攻略。大河内氏を滅ぼし、ここでついに遠江国制圧が完了します。
今川仮名目録の制定
公家の娘を正室に迎える
氏親は晩婚で、永正2年(1505)もしくは同5年(1508)に、公家の中御門宣胤の娘を正室に迎えています。この人こそ駿府の尼御台として有名になる「寿桂尼」です。
もっとくわしく
嫡子である今川氏輝は永正10年(1513)に、五男の梅岳承芳(のちの今川義元)も永正16年(1519)に誕生しています。
今川氏と京都の公家の関係が深かった理由としては、氏親の姉(北向)が公家の正親町三条実望に嫁いだことや、氏親自身が公家の娘と結婚したことなどが影響しています。文化交流も頻繁で、氏親は和歌や連歌を好み、三条西実隆を師匠に仰いで、歌の添削などを受けていたことが、『実隆公記』に記されています。
しかし寿桂尼は、公家の娘でありながら、まさに戦国大名さながらの領国支配で今川氏の地盤をしっかり固めていきます。寿桂尼と名乗り、今川氏の統治に積極的に関わっていくようになるのは、氏親が大永6年(1526)に56歳で亡くなった後のことです。
領国支配の規範となる今川仮名目録の制定
氏親は自身が家督を継ぐ際にもめていますので、そういったことが次の世代交代時に起こらないよう準備を進めていました。氏親が亡くなる1年前には、13歳の嫡男の氏輝を元服させて五郎氏輝と名乗らせ、このとき氏輝は正式に従五位下上総介の官位を授かっています。つまり氏親は次期当主が紛れもなく氏輝であることをはっきりと示したのです。
さらに亡くなる2ヶ月前には領国支配の規範として「今川仮名目録」を制定しました。おそらくこの時点で寿桂尼も関わっていたことが予想されます。33条には地頭らの従属化、農民の統治について触れられています。
今川氏は義忠の代までが「守護大名」、氏親の代からは「戦国大名」と分けられていますが、その線引きは「農民の直接統治」と「守護不入の荘園領を認めない」こと、そして「幕府の指示を受けず分国法によって領国支配する」という3点の違いです。
永正15年(1518)以降は遠江国相良庄、楱原郡、宇苅郡などで5回の検地を氏親は行っています。早雲が行った検地を真似て、遠江国の直接支配を強化していったのです。
こうして今川氏は氏親の代から戦国大名として領土をどんどんと拡大していきました。今川氏の大きな転換期がこの氏親の代にあたるのです。影響を与えた人物はやはり北条早雲でした。
おわりに
どうしても早雲の活躍ぶりが目立ち、氏親の存在感がなかなか見られないのですが、彼が家督を継いで以降、破竹の勢いで今川領土を拡大していったのは確かです。安定した領国支配を行ったその手腕はもっと評価されるべきかもしれません。早雲もその器量を認めたからこそ、ここまで苦労して氏親を支えたのでしょう。そして氏親の政治は正室である寿桂尼に引き継がれていきます。
こうして今川氏は最盛期を迎えるのです。
【参考文献】
- 有光 友學『今川義元(人物叢書)』(吉川弘文館、2008年)
- 小和田 哲男『駿河今川氏十代(中世武士選書25)』(戎光祥出版、2015年)
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