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「寿桂尼」今川義元の母は”女戦国大名”の異名をもつヤリ手だった!

今とは違い、女性が政治に干渉することなど、まず無かったと言っていい戦国時代。本来は彼女もそうなるはずだったことでしょう。しかし時勢は彼女に対して裏方で生きることを許してはくれず、その活躍は初の「女戦国大名」として歴史にその名を刻まれました。

今回は当主が空白となった今川家を先頭に立って導き、目の黒いうちは甲斐の虎・武田信玄にすら手を出させなかった女戦国大名・寿桂尼の生涯をご紹介します。
(文=趙襄子)

公家の姫君に生まれ

寿桂尼がいつ頃誕生したのかは良く分かっていないのですが、延徳2年(1490年)頃に京都の公家・中御門宣胤の娘として誕生したといいます。寿桂尼の生まれた中御門家は藤原北家勧修寺流の流れを汲む中流公家であり、代々天皇の側近として側に仕え、「権大納言」を最高の官職としていたそうです。

仮にも公家の姫君である寿桂尼がなぜ駿河国の一領主である今川家に嫁いだかというと、今川家は将軍家である足利家の一門であり、「今川記」という古文書によれば、「室町殿(=足利家のこと)の御子孫絶えれば吉良に継がせ、吉良も絶えれば今川に継がせよ」と呼ばれるほど武家の中では名門中の名門でした。そのため幕府との結びつきは強くなり必然と京の武家や公家との交流も頻繁に行われます。

そんな中、中御門家と今川家は今川氏親の曽祖父である今川範政の代から和歌を通じて交流があった関係で、永正2-5年(1505-08年)頃に今川家の当主となっていた氏親の元に嫁いだのです。

氏親夫人として

氏親の正室となった寿桂尼でしたが、「寿桂尼」という名前は夫である氏親の死後に出家してからの名前であり、それ以前の名前は分かっていません。嫁いだ時は家中で「南殿」や「大方殿」などと呼ばれていたそうです。

この頃の今川家は氏親の伯父である北条早雲の力を借りて隣国の遠江・三河に進出して勢力を大きく拡大していました。そんな中、子宝に恵まれた二人は、永正10年(1513年)に長男であり嫡男の氏輝を、永正16年(1519年)に寿桂尼にとっては三男であり氏親にとっては五男となる方菊丸こと後の今川義元が誕生しました。また実在の確証はないのですが次男・彦五郎や姫も生まれ二人の仲は睦まじかったことでしょう。

しかし順風万般は突如終わりを告げます。氏親が中風に倒れ半身不随となり政務に支障が出るようになってしまったのです。懸命に看病したという寿桂尼ですが、夫は病気になり跡継ぎの氏輝もまだ幼いとあって、この頃から寿桂尼が今川家の国政に関わりだしたという記述が散見されるようになります。

遠江の検地を行ったり、大永6年(1526年)には今川家初となる分国法である「今川仮名目録」が制定されました。氏親の名の元に発布された法度ですが、実際は寿桂尼が側近たちと定め、夫の名義で以って発布したという話もあります。それを指し示すかのように同年に夫・氏親は中風が快癒することなく亡くなってしまいました。

女戦国大名の誕生

氏親が亡くなり、嫡男の氏輝が家督を継ぐことになりましたが、彼はまだ14歳であり、政務を行うには幼すぎました。そこで寿桂尼は自ら国政を取り仕切ります。氏親が亡くなってから3ヶ月後には寿桂尼の名前で領国経営の文書が発給されています。この当時、戦国の女性で領国支配に関する文書を出していたのは寿桂尼だけであったことから、後に「女戦国大名」と呼ばれることになりました。

寿桂尼の国政関与は氏輝が16歳になると一旦は鳴りを潜めますが、氏輝は体が弱く病に伏せがちになると、再び寿桂尼は今川家のために先頭に立って国政を代行しはじめました。氏輝の代行として彼女特有の印判が捺された発給文書は25通にのぼりましたが、またも今川家に試練が降りかかるのでした。

家督争い~義元時代

怪異は突然起こりました。天文5年(1536年)、氏輝と氏輝の弟となる次男・彦五郎が同じ日に亡くなったのです。氏輝には子どもがいなかったため義元に継承権が巡ってきました。寿桂尼と義元の教育係・太原雪斎は結託して出家していた義元を還俗させると用意周到に幕府に働きかけて家督相続のお墨付きと将軍・足利義晴から一字を貰い受けて「今川義元」と名乗らせました。

しかしそこに待ったをかけたのが亡き夫・氏親と側室との間に誕生した義元の庶兄となる玄広恵探の一派でした。寿桂尼は乱を起こさぬよう説得に向かいましたが失敗し家督争いは始まってしまいました。「花倉の乱」と呼ばれた家督争いは義元方の勝利に終わり、義元が新たに今川家当主となると寿桂尼の名前はしばらく歴史から名を消します。

プライベートな一幕ですが弘治2年(1556年)に寿桂尼は自分の屋敷に義元や、甥にあたる公家・山科言継はじめ多くの公家衆を招いて酒宴を催しました。言継は伯母である寿桂尼に会うため駿府へ通っていたそうで、そんな言継を可愛がる姿が義元と雪斎の下、安定した今川家の中で役目を終えたような女戦国大名が見せた本来の母性だったのでしょうか。しかしそんな安寧の日々を天は与え続けてくれなかったのです。

女戦国大名再び

永禄3年(1560年)、上洛途上の義元が尾張の織田信長に討たれると国衆の離反が相次ぎ今川家は急速に弱体化していきます。太原雪斎はすでに亡く、後を継いだ氏真も現実を見ずに蹴鞠に逃げる始末。寿桂尼は再び女戦国大名として立ち上がりました。しかし年を取り過ぎた寿桂尼にあまり時は残されていませんでした。

永禄11年(1568年)、寿桂尼に最後の時が訪れました。かろうじて命脈を保っていた今川家でしたが、隣国の武田信玄や裏切った徳川家康に虎視眈々と狙われているこの時、命数が尽きようとしている寿桂尼は己が死んだら龍雲寺に埋葬するように命令しました。氏親の墓所とは違う龍雲寺は今川館より東北の方角、すなわち今川館の鬼門に当たります。

「死しても今川の守護たらん」とした寿桂尼は、女としてではなく戦国大名として逝くことを選んだのです。

今川家滅亡

同年12月、寿桂尼が亡くなったことを知った信玄は同盟を破棄して駿河に侵攻を開始しました。そして真っ先に狙ったのがなんとあの龍雲寺だったのです。

信玄は生前の寿桂尼を恐れていました。寿桂尼がいる間、今川には手が出せないとぼやいていたといいます。だからこそ彼女の加護を払うために龍雲寺を狙い、そして徹底的に破壊しました。焼き払うだけではなく彼女の墓まで破壊したという信玄は、それほどまでに焦らし続けた寿桂尼が憎くもあり恐れていたのでしょう。

事実、龍雲寺を抜いた武田軍の前に家臣にも見放された氏真は成す術無く駿府を放棄すると遠江に侵攻してきた家康と和睦し、氏真の正室の実家である北条家を頼って落ちていったことで彼女の願いも虚しく戦国大名・今川家はここに滅亡したのです。





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