丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン
  • 今川義元
 2019/04/19

「寿桂尼」今川義元の母は”女戦国大名”の異名をもつヤリ手だった!

寿桂尼のイラスト

今とは違い、女性が政治に干渉することなど、まず無かったと言っていい戦国時代。今川義元の母で知られる「寿桂尼」も本来はそうなるはずだったことでしょう。しかし時勢は彼女に対して裏方で生きることを許してはくれず、その活躍は初の「女戦国大名」として歴史にその名を刻まれました。

今回は当主が空白となっていた時期の今川家を先頭に立って導いた1人の女性「寿桂尼」の生涯をご紹介します。
(文=趙襄子)

公家の姫君に生まれ、今川に嫁ぐ

寿桂尼の誕生年は定かではありませんが、延徳2年(1490年)頃、京都の公家・中御門宣胤の娘として誕生したといいます。

彼女の生まれた中御門家は藤原北家勧修寺流の流れを汲む中流公家であり、代々天皇の側近として側に仕え、「権大納言」を最高の官職としていたそうです。

寿桂尼は今川氏親の正室ですが、仮にも公家の姫君である彼女がなぜ、駿河国の一領主である今川家に嫁いだのでしょうか。それは今川家が将軍家である足利家の一門だったことにあります。

「今川記」という古文書によれば、「室町殿(=足利家のこと)の御子孫絶えれば吉良に継がせ、吉良も絶えれば今川に継がせよ」と呼ばれるほど、武家の中では名門中の名門でした。

今川家は幕府との結びつきも強く、必然と京の武家や公家との交流も頻繁に行われていました。中御門家と今川家も、今川範政の代より和歌を通じての交流があったようです。こうした背景から永正2-5年(1505-08年)頃、寿桂尼は今川家に嫁に入ったのです。

夫氏親の晩年に政務をサポート?

さて、「寿桂尼」という名ですが、これは夫氏親の死後に出家してからの名であり、それ以前の名前は分かっていません。嫁いだ時は家中で「南殿」や「大方殿」などと呼ばれていたそうです。

当時の今川家は、氏親の伯父である北条早雲の力を借り、隣国の遠江・三河に進出して勢力を大きく拡大。そんな中、 寿桂尼は氏親との間に嫡男の氏輝、三男方菊丸(のちの今川義元)をもうけています。この他にも確証はないものの、氏親の次男彦五郎と娘何人かも寿桂尼の子と考えられているようです。

今川略系図
今川略系図

永正2年(1521年)頃より、夫氏親が中風に倒れて政務に支障が出るようになったらしく、 代わりに寿桂尼が国政の一部を担うようになっていったと考えられています。

夫は病気で跡継ぎの氏輝もまだ幼いとあっては、やむを得なかったのでしょう。なお、この頃の今川家は遠江国の検地などの内政強化にあたっていたようです。

また、大永6年(1526年)には今川家初となる分国法「今川仮名目録」が制定されています。氏親の名の元に発布された法度ですが、実際のところは寿桂尼が側近たちと定め、夫の名義で発布したのではないか、と考えられています。同年、それを指し示すかのように夫・氏親も没しているのです。

女戦国大名の誕生

氏親死後、嫡男の氏輝が家督を継ぎますが、彼はまだ14歳で政務を行うには幼すぎたのでしょう。史料には氏輝が16歳になるまで今川氏の当主として動いた形跡がありません。

ではその空白の2年間の今川家はどうなっていたのでしょうか。ここでいよいよ寿桂尼に出番がまわってきます。

史料をみると、氏親亡き後の3カ月後には、寿桂尼の名前で今川家の領国経営の文書が発給されています。 しかも氏輝16歳となった大永8年(1528年)を最後に、彼女名義の発給文書はピタリとなくなっています。つまり、寿桂尼が氏輝の代わりに今川当主としての役割を果たしていたワケです。

この当時、戦国の女性で領国支配に関する文書を出していたのは寿桂尼だけでした。これが「女戦国大名」と呼ばれる所以です。近年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公・井伊直虎も、女性当主として脚光をあびましたが、実は寿桂尼のほうが先輩だったのです。

16歳となった氏輝が国政についた後も、彼が病に臥していた時には寿桂尼が国政代行をしていたようです。寿桂尼の発給文書には彼女特有の印判(朱印)が捺されていますが、氏輝が亡くなるまでの10年間で、実に25通もの彼女の文書が発給されています。

家督争い、および義元時代

天文5年(1536年)、怪異な事件が起こります。

氏親長男である当主氏輝と、次男彦五郎が同じ日に亡くなったのです。そして氏輝には子どもがいなかったことから、出家していた承芳(=義元のこと)に継承権が巡ってきます。

このとき、寿桂尼は義元の教育係である太原雪斎とともに、承芳を家督後継者にしようともくろみます。 用意周到にも幕府へ働きかけて、家督相続のお墨付きと将軍義晴の一字「義」をもらいうけて「義元」と名乗らせるのです。

しかしそこに待ったをかけたのが亡き夫・氏親と側室との間に誕生した義元の庶兄・玄広恵探一派でした。「花倉の乱」と呼ばれる家督争いに発展しますが、結果は義元方の勝利に終わり、義元が新たな当主となっています。

その後、寿桂尼はしばらく歴史から名を消しています。

次に登場するのが弘治2年(1556年)。プライベートな一幕ですが、寿桂尼は自分の屋敷に義元や公家の山科言継をはじめ、多くの公家衆を招いて酒宴を催しています。

山科言継は寿桂尼の甥(妹の息子)にあたります。彼は京から駿府へ通う等しており、寿桂尼も彼をかわいがっていたようです。

そんな言継を可愛がる姿が義元と雪斎の下、安定した今川家の中で役目を終えたような女戦国大名が見せた本来の母性だったのでしょうか。しかしそんな安寧の日々を天は与え続けてくれませんでした。

今川滅亡への道と寿桂尼

戦国史上、もっとも有名な戦いのひとつである桶狭間の戦い永禄3年(1560年)に勃発。今川義元が信長に討たれたのは周知のとおりでしょう。以後、今川氏真の代の今川家は、桶狭間のあおりを受けて離反する遠江国衆などが続出、徐々に弱体化していきます。

大河「おんな城主 直虎」でも、義元・太原雪斎がすでに亡くなった、桶狭間後の氏真が現実を見ずに蹴鞠に逃げる様子が描写されていました。寿桂尼は永禄6-8年(1563-65年)頃、駿府の龍雲寺へ移ったとされています。氏真の代にも再び政務に関わったともいいます。しかし年を取り過ぎた彼女にあまり時は残されていませんでした。

永禄11年(1568年)、今川家は隣国の武田信玄徳川家康に虎視眈々と狙われながら、かろうじて命脈を保っていました。

そうした中、寿桂尼は己が死んだら龍雲寺に埋葬するように命令したといいます。氏親の墓所とは違う龍雲寺は今川館より東北の方角、すなわち今川館の鬼門に当たります。

「死しても今川の守護たらん」とした寿桂尼は、女としてではなく、戦国大名として逝くことを選んだのです。

まとめ

同年12月、寿桂尼の死を知った武田信玄は、見計らったように駿河今川領に侵攻を開始しました。そして真っ先に狙ったのが 龍雲寺 だったのです。

信玄は生前の寿桂尼を恐れていました。寿桂尼がいる間、今川には手が出せないとぼやいていたとの話もあります。だからこそ彼女の加護を払うために龍雲寺を狙い、そして徹底的に破壊したのでしょう。焼き払うだけではなく彼女の墓まで破壊したという信玄は、それほどまでに焦らし続けた寿桂尼が憎くもあり、恐れていたのかもしれません。

事実、龍雲寺を抜いた武田軍の前に、氏真はなすすべなく駿府を放棄して遠江へ逃亡。さらに遠江に侵攻してきた家康と和睦し、氏真の正室の実家である北条家を頼り、落ちていきました。

寿桂尼の思いもむなしく、戦国大名としての今川家はここに滅亡したのでした。


【主な参考文献】
  • 小和田哲男編『今川義元のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 有光友学『人物叢書 今川義元』(吉川弘文館、2008年)
  • 歴史読本編集部 『物語 戦国を生きた女101人』(KADOKAWA、2014年)
  • 小和田哲男『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』(洋泉社、2016年)




おすすめの記事



 PAGE TOP