大坂の陣の際、豊臣方は織田信雄を総大将に迎え入れようとしていた!

 読者の皆さんは織田信雄(おだ のぶかつ)という人物をご存知でしょうか?信雄は織田信長の次男で知られています。信長の死後、父の天下統一事業を秀吉に奪われ、あげくには小田原征伐(1590)の後に改易されるなど、暗愚のイメージを持たれている方が多いと思います。

 しかし信雄は11人いる信長の息子のなかで一番の長命を保ち、戦国時代を生き抜いています。天下泰平の到来を見届け、3代将軍・徳川家光の時代まで生きました。

 また、あまり知られていませんが、大坂の陣(1614~15)の際には信雄を豊臣方の総大将として擁立する動きがありました。ただ、この擁立計画は信雄が家康方に付いたために幻に終わっています。

 今回は信雄の生涯を簡単に追いつつ、なぜ大坂の陣の際に豊臣方の総大将として信雄を擁立する動きが発生したのか、深掘りしてみたいと思います。(なお信雄は生涯において数回改名していますが、本記事では原則「信雄」と表記を統一します)

信雄の生い立ち

 信雄は永禄元年(1558)の生まれで、母は兄信忠と同じ生駒氏と言われています。この当時の信長は桶狭間合戦の2年前ですから、まだ尾張の一大名に過ぎなかったころです。

 信雄は12歳のときに伊勢北畠氏の養子に出され、その後の天正3年(1575)6月に北畠氏の家督を継承しました。織田家中においては、兄の信忠に次ぐ地位にあったと考えられており、北畠氏当主という立場と、兄信忠に次ぐ織田一門としての立場という、2つの政治的立場にありました。

 信長と信雄にまつわる逸話として伊賀攻め(天正伊賀の乱)があります。天正7年(1579)9月、信雄は単独で軍を率いて伊賀に侵攻しますが、信雄は大敗。しかも信長に無断での出陣でした。このため信長は激怒し、信雄の軽率な行いを責め、改めない場合は「親子の縁をきる」と叱責したと言われています。

 それから2年後、信雄は再び伊賀に侵攻しますが、このときは信長のもとで軍の編成が行われました。信雄を総大将として、前回未参加であった丹羽長秀や滝川一益などの重臣たちを出陣させ、大軍をもって伊賀攻略を果たしています。

 信長からすれば信雄に名誉挽回の機会を与えたといったところでしょうか。

秀吉と主従関係が逆転

 天正10年(1582)6月2日、明智光秀の謀反(本能寺の変)により、信長・信忠父子は予期せぬかたちで生涯を閉じました。織田政権はトップの信長とその後継者である信忠の2人を同時に失うことになり、政権の中枢が不在となる事態になります。

 その後の重臣会議(清須会議)において、織田氏の家督は信忠の嫡男でわずか3歳の三法師が継承しましたが、3歳の幼子にはとても政務は務まりません。そこで信長の重臣であった柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興等が当面の政務を執り行うことになりました。

 しかし天正11年(1583)、織田家中の覇権争いとなった賤ヶ岳合戦で、柴田勝家を滅ぼした秀吉は、主君である織田家を差し置いて天下人の地位を目指す姿勢を示すようになっていきます。この秀吉の姿勢に反発したのが信雄でした。

 天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、信雄は徳川家康と協同で秀吉と敵対。長久手の戦いなど、局地的に勝利することはありましたが、信雄の領国である南伊勢は攻略され、秀吉軍が信雄の居城(長島城)に迫る勢いをみせると、戦局が不利とみた信雄は、11月12日に秀吉と講和(実質的には信雄の降伏)してしまいます。

 信雄はこの際に領国の伊賀と南伊勢を秀吉に割譲し、人質を秀吉に差し出しています。ここにおいて秀吉と信雄の主従関係が逆転となったのです。

 さらに同月28日、朝廷は秀吉を従三位権大納言に任じ、秀吉は官位面でも信雄より高位となりました(信雄は正五位下左近衛中将)。その後、秀吉は従一位関白・太政大臣まで昇進を重ねます。信雄も正二位内大臣まで昇進を重ね、豊臣政権下において秀吉に次ぐ高位の大名でした。

豊臣政権内における信雄の役割と改易

 信雄に求められた役割は、小牧・長久手の戦いの際に信雄に味方した諸勢力を豊臣政権に従属させることでした。その主な対象が越中の佐々成政、そして徳川家康です。

 もともと佐々成政は信長の家臣で柴田勝家の与力として、主に北陸戦線で活動することが多い武将でした。天正13年(1585)8月、秀吉は越中に兵を進め、このとき信雄も秀吉方として出陣しました。秀吉軍は勝利を重ね、8月下旬に敗北を悟った成政は信雄を通じて秀吉に降伏しています。

 徳川家康との従属交渉については信雄が一任されていました。信雄は三河岡崎城に直接赴いて、家康と直接会見するなどの行動をみせ、家康を豊臣政権に従属させることに成功。その後の信雄は、秀吉から東国の安定化を任された家康の補佐する立場にあったと考えられています。

 家康は主に相模北条氏との交渉を担当し、豊臣政権への従属を促しましたが、最終的に交渉は決裂し、天正18年(1590)に秀吉は北条氏の征伐を実施しました(小田原征伐)。このとき家康は1番手として出陣し、家康に続く2番手を信雄が務めました。

 北条氏を降伏させた秀吉は北条氏の旧領国に家康を移封させ、家康の旧領国(三河・遠江などの5か国)には信雄を移封させる国替を決定しました。家康は秀吉の国替命令に従いましたが、信雄は織田領国内の反発を抑えることができず、国替を拒否してしまうのです。

 これに怒った秀吉は信雄の改易を決定します。信雄は北伊勢と父祖代々の尾張を没収され、下野那須に配流となりました。その後、家康の仲介で秀吉は信雄を赦免しますが、信雄は隠居のうえ出家して法名「常真」と名乗り、秀吉の御伽衆に列しました。

 一方で「信雄家」としての家督は嫡男の秀雄が継ぐことになり、文禄4年(1595)7月以前に越前国大野に領地を与えられました。また信雄も大野にてわずかながら隠居領を得ていたようです。

大坂の陣と信雄

 関ヶ原合戦(1600)における信雄の動向については詳しくはわかっていませんが、どうやら西軍方についていたようです。戦後、家康から信雄・秀雄父子は領地を没収されています。信雄にとっては2度目の改易です。

 その後、大坂の天満にて隠遁生活を続けていた信雄ですが、慶長19年(1614)10月、豊臣氏と徳川氏との対立が深まり、開戦が現実味を帯びてきた中、豊臣家中において信雄を総大将として大坂城に入れて籠城する案が出されました。一方、秀頼も信雄に「密談」を求めていました。ここから豊臣方は信雄を味方に入れようと画策していたことがうかがえます。

 こうした動きの背景としては、かつての天下人・織田信長の権威が残っていたと考えられています。

 信長の次男であり、かつての後継者であった兄信忠と生母が同じ信雄は、血統的にも信長に一番近く、織田本家を継承してもおかしくない立場でした(この当時、織田本家を継いだ秀信=三法師の家系はすでに断絶)。

 このほか、秀頼との親族関係も指摘できます。信雄は秀頼の母である淀殿とは従兄妹の関係です。周知のとおり、秀頼に存命の兄弟はおらず、父方(豊臣氏)の血統で親族はいませんでした。母方の血統は淀殿の父浅井長政は滅亡していましたが、淀殿の母・お市は信長の妹です。

※参考:信雄と淀殿の関係略系図
※参考:信雄と淀殿の関係略系図

 したがって、秀頼にとって織田一族は唯一の親族でした。そして、織田一族のなかで血統的に本家と呼べるのが信雄でした。以上をふまえると合戦の経験が全くない秀頼に代わり、信雄が総大将として推戴されることは充分想定できるかと思います。

おわりに

 信雄は豊臣方の動きに対して大坂を離れて徳川方に従う姿勢を示し、その後、豊臣氏と徳川氏は大坂の陣で衝突し、慶長20年(1615)5月8日に豊臣氏は滅亡しました。家康は信雄の行動を喜んで、信雄に大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などで5万石を与えています。ここに信雄は大名に返り咲いたのでした。

 寛永7年(1630)、信雄は波乱に満ちた生涯を終えますが、信雄の領地は子孫に継承されていき、江戸時代を通じて信雄流の織田家は大名として生き延びています。


【主な参考文献】
  • 柴裕之「総論 織田信長の御一門衆と政治動向」(同編『織田氏一門』、岩田書院、2016年)
  • 群馬県立歴史博物館編『第95回企画展 織田信長と上野国』(群馬県立歴史博物館、2018年)
  • 柴裕之「織田信雄の改易と出家」(『日本歴史』859号、2019年)
  • 柴裕之編『図説豊臣秀吉』(戎光祥出版、2022年)

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  この記事を書いた人
yujirekishima さん
大学・大学院で日本史を専攻。専門は日本中世史。主に政治史・公武関係について研究。 現在は本業の傍らで歴史ライターとして活動中。

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