「どうする家康」本能寺の変…その時、信長が発した意外な言葉と真相
- 2023/07/24
大河ドラマ「どうする家康」第28話は「本能寺の変」。織田信長が、重臣の明智光秀の謀反により倒れる時が、ついにやって来たのです。天正10年(1582)6月2日、光秀は信長が宿泊する京都・本能寺を急襲し、討ち取ります。本能寺の変の描写は『信長公記』(信長の家臣・太田牛一が記した信長一代記)が有名ですが、実は『三河物語』(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作)にも記されているのです。
『三河物語』によると、光秀は信長が取り立て、丹波国を与えられていたにもかかわらず、突如、謀反。明智の軍勢は、本能寺に押し寄せ、信長はついに切腹するのですが、襲撃を知った信長は、これはある人物の裏切りではないかと周りの者に言ったといいます。
あくまで、同書によると「城の介(織田信忠)の裏切りか」と信長は問いかけたそうです。信忠は信長の子で、その後継者となった人物です。信忠は、この時、京都の妙覚寺に滞在していました。光秀は丹波亀山城にいると信長は考えていたでしょうから、至近距離にいる信忠が自分を裏切ったと当初感じたのではないでしょうか。戦国時代、骨肉の争いはよくありましたので、信長は咄嗟に(我が子・信忠の裏切りか)と判断したのでは。
もちろん、この『三河物語』の記述は、伝聞もしくは噂を書き留めたものですので、本当か否かは不明ですが、私は前述の理由から、妙に生々しいものを感じるのです。信忠の裏切りかと問う信長。それに対し、森蘭丸が「明智の裏切りです」と答える。すると、信長は「明智の変心か」と言う。その後、信長は、明智兵に槍で攻撃され、負傷すると、本能寺の奥へと入っていき、火を放ち、焼死したというのが『三河物語』が描く本能寺の変です。信長が「信忠の裏切りか」と言うところが、『信長公記』とは異なる記載となっています。
『信長公記』は、信長もその小姓も、下々の者の喧嘩が発生し、騒動となっているかと誤解したと書かれています。が、それは喧嘩ではなく、軍勢の襲来でした。「これは謀反か。如何なる者の企てぞ」というのが、同書に記された信長の本能寺の変における第一声です。ここが『三河物語』と違うところです。信長の問いに森蘭丸は「明智の手の者と見えます」と回答。
信長は「是非に及ばず」と言うと、明智の軍兵と戦うのでした。弓を取り、敵兵を射る。弓が使えなくなると、槍にて戦う。が、敵兵の槍の攻撃を受け、負傷すると、女性たちに避難を呼びかけた上で、寺の奥に入り、火を放ち自刃するのです。『信長公記』の方が、本能寺の変における信長の戦いが詳細であり、よりカッコよく描かれています。ちなみに『徳川実紀』(江戸時代に編纂された徳川家の歴史書)には「昨夜、本能寺にて織田殿の御事ありし」などと極めて簡潔に信長の死は記されています。
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