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  • 明智光秀
 2019/03/28

細川忠興とガラシャ夫妻。その結婚生活の実像とは?

細川ガラシャと細川忠興のイラスト

細川ガラシャと細川忠興夫婦は、戦国でもよく名が知られている夫婦の一組です。戦国期はまだ女性の地位が低く、大大名の正室であっても詳しい生涯が分からないことも少なくありません。

しかしながら、細川夫婦の場合は妻ガラシャがキリシタンだったことも幸いし、当時日本を訪れていた宣教師たちによって本国に書き送られた書簡に詳細な夫婦に関する記述が残っています。

そこで、この記事では細川夫婦の出会いや結婚生活を、キリシタン史料と細川家に伝わる文書からみていきます。
(文=とーじん)

細川夫婦の結婚と社会情勢

まずは細川ガラシャについて。彼女は明智光秀の娘であり、婚姻前は明智玉子という名を名乗っていたとされています。光秀の娘ということからもお分かりいただけると思いますが、ガラシャは父とともに主人である織田信長の強い影響下にありました。

次に夫の細川忠興ですが、彼は細川藤孝(幽斎)の嫡男として誕生しています。細川家は室町将軍家とも親戚関係にある超名門でしたが、忠興が生まれた時分には織田家に仕える家臣となっていました。

この両者に共通する事項といえば、ともに一家が信長の影響下にあるということです。

明智家と細川家はともにかねてからの織田家臣ではなく、信長が天下へと邁進していく過程で家臣となった新参の武将でもありました。そのため、単に信長の家臣であるというだけにとどまらず、家臣団で置かれていた立場も非常に似通ったものであるといえるでしょう。

信長といえば、婚姻関係を戦略として積極的に活用した武将としても知られています。

信長は自身の娘や養女の婚姻を家臣との主従関係を強化するために活用していました。また、それだけではなく、家臣同士の婚姻に対しても、極めて積極的な働きかけをみせていた様子が確認できます。

これは、家臣同士に婚姻をさせることで双方の家臣を結束させ、家内の結びつきを強めるねらいがあったものと推測できます。これらの条件が背景にあったため、必然的に細川家と明智家も婚姻の対象として考えられたのです。

そして天正6年(1578年)には信長より婚姻の命が出されます。ただ、婚姻の命令から実行までが非常に早かったこともあり、単に命令されたという理由だけでなく、両家ともに望むところの婚姻であったのかもしれません。

同年中には細川家の本城・青龍寺城にて婚の礼が執り行われ、忠興とガラシャは夫婦になりました。このとき2人はともに16歳と同い年でした。

本能寺の変が勃発。結婚生活への影響は?

こうして婚姻関係となった両者は、長女の長と長男の忠隆という二人の子をもうけるなど、順調な日々を送っていました。しかしながら、天正10年(1582年)にガラシャ側の父光秀が本能寺の変で謀反を起こしたことで、彼らの生活は一変します。

光秀が本能寺で信長を討つことに成功したものの、まもなくして起こった山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れたため、明智家は一気に窮地へと追い込まれました。ガラシャは明智家の人間であり、細川家としては謀反人の娘を正室に迎えているという立場に置かれたのです。

織田の家臣という立場上、細川家として現状を維持することは得策ではなく、忠興はガラシャを味土野という京都のはずれに幽閉します。その後、ガラシャは2年ほど味土野で軟禁生活を送りますが、その間に忠興は別の正室を迎えてはいません。

ガラシャを離縁して正室を迎えても不思議ではありませんが、忠興はあえてそういった道を選択しなかったのです。こうして幽閉生活を耐え忍んだガラシャは、最終的にほとぼりが冷めたころに忠興のもとへ帰還したとされています。

とにかく異質だった細川夫婦

気になるガラシャと忠興の夫婦仲ですが、それほど良好ではなかったように思えます。その理由としては、お互いが非常に変わり者で、個性がぶつかり合ってしまったことが挙げられます。これに関して、『細川家記』ではいくつかの興味深い逸話があるので以下にご紹介しましょう。

ある日、一人の下僕がガラシャのもとを訪れようとしていました。忠興はこの下僕を手打ちし、その血をガラシャが着ていた小袖で拭いました。しかし、ガラシャは全く動じることなくその小袖を三、四日着ていたといいます。これを見かねた忠興がガラシャに謝罪したことで、彼女はようやく小袖を脱ぎました。

また、屋敷の屋根を修繕していた人物が誤って屋根から落ちた際、忠興はその人物の首を刎ね、ガラシャに投げつけたといいます。しかし、ガラシャは全くそれに動じませんでした。

この他にも、忠興が短気を起こして奇行に走るものの、それに動じないガラシャの姿が『細川家記』には何度も登場します。

家記とは通常主君や家の功績を書き残すためのものなので、これらの逸話はまさしく異彩を放っています。

もちろんこれらの逸話が真実であるかどうかは分かりませんが、少なくとも普通の夫婦でなかったのが伺えます。

ガラシャの最期と忠興の対応

ガラシャの最期は、まさしく悲劇的な形で幕を閉じます。

慶長5年(1600年)、関ケ原合戦に際して細川家を西軍に引き入れようとした石田三成は、強引にガラシャを人質に取ろうとしました。しかし、忠興の命令で人質となることを禁じられていたガラシャは、攻め入ってきた三成軍を前に自害したのです。

こうしてガラシャを自害させた忠興は、一見冷酷なようにも感じます。ただ、戦国期の日本でこうした命令は日常茶飯事であり、当時の社会情勢的にはごく一般的なことであったということも事実です。また、忠興はガラシャが亡くなったことに深い憤りを感じていたようで、ガラシャが攻められた際に裏切りを図った家臣に対しては烈火のごとく激怒しています。

このように、ガラシャに対して無関心であったために上記の命令が出されたわけではないというのが事実として指摘できます。

お互いに愛し合っていたのか?

ここまで、細川夫婦に関する結婚生活をみてきました。その中には異彩を放つ逸話も多く、変わり者夫婦であったことが指摘できます。

では、実際のところ彼らはお互いのことを愛していたのでしょうか。ここからは史料を基にした筆者の個人的意見になりますが、お互いの心情を推測してみたいと思います。

忠興はガラシャにメロメロ!?

まず、夫忠興は妻ガラシャをかなり深く愛していたと考えられます。これは上記の本能寺後もガラシャを見捨てなかった点や、ガラシャ自害後の対応などからそう感じたためです。

また、自身が九州へ赴いている際大坂にいたガラシャに、「秀吉になびくなよ」という旨の和歌を書き送っているという事実もあり、忠興側には深い愛情があったと考えるのが自然です。

忠興の奇行に関しては、なにもガラシャだけに行なわれていたわけではないという点に注目するべきです。忠興の短気で変わり者なところは元々の人柄であり、他の武将らにも有名でした。そのため、これがガラシャへの愛情を否定する根拠にはなり得ないと考えられます。

ガラシャはどうか?

では、妻ガラシャのほうはどうだったのか。ガラシャに関しては、史料を読む限り、忠興への愛情があまりなかったと考えるのが自然でしょう。

その根拠に、カトリックになってから司祭へと頻繁に持ち掛けていた相談の内容があります。ガラシャはカトリックとして洗礼を受けましたが、なんとか忠興と離婚したいと相談をしていました。これはカトリックで離婚が原則認められていないため、教義に反しないで離婚する方法を探していたと推測できます。

しかし、司祭の度重なる説得もあり、最終的にガラシャは折れて離婚を諦めています。この際、司祭はガラシャを説得するのが大変に難しかった、と書き残しています。

ガラシャの意思はよほど堅かったのでしょう。これほど強く離婚の意思を表明していた彼女には、忠興への愛情はなかったと考えるのが自然ではないでしょうか。


【主な参考文献】
  • 上総英郎編『細川ガラシャのすべて』新人物往来社、1994年。
  • 安延苑『細川ガラシャ』中央公論新社、2014年。
  • 田端泰子『細川ガラシャ ―散りぬべき時知りてこそ― 』ミネルヴァ書房、2010年。



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