「小西行長」商人から武士へ転身。異例の出世を遂げるも最期は…

石田三成と並んで豊臣政権で重要な役割を担った文官。それが小西行長(こにし ゆきなが)という人物でしょう。秀吉の天下統一事業や政権運営に彼の果たした役割は非常に大きく、この時期を語るうえで彼の存在を無視することはできません。

しかし、その活躍とは裏腹にどうにも「不人気」な武将という印象はぬぐいがたく、関ケ原において処刑されたこともその風評を加速させているような気がします。そこで、この記事ではあまり語られることのない行長の生涯をご紹介していきます。

宇喜多氏に仕えるまで

行長はその生い立ちにとにかく謎が多い人物で、一説には和泉国堺の薬商人・小西立佐の次男として誕生したとされます。生まれはおおよそ永禄元年ごろであったと考えることができますが、これらの出自はフロイスの記述に頼り切りな部分もあり、疑問が呈されることもあります。

例えば、当時の堺に「薬商の小西」という存在がいたことそのものについては信ぴょう性がある一方で、それが彼の父である小西立佐であるということを確定させる史料が見つかっているわけではないようです。そのため、同じ小西姓で両者を混同させただけだ、という説も存在します。

宇喜多直家の木像(光珍寺所蔵だが戦災で焼失)
行長の才能を見出し、武士として家臣に抜擢したという宇喜多直家。

彼が宇喜多氏に仕えるまでの生涯は大きく分けて二通りの記述が存在しています。

  • 元々行長が羽柴秀吉と友人の関係にあり、その縁で宇喜多家の使者に採用されたというもの
  • 幼い頃から京都を拠点に活動し、キリスト教の洗礼を受ける傍ら、有力商人の父の縁で武士たちと接点をもったというもの

前者は生まれ年から推測するに、友人関係を築くには年の差が大きく、さらに後で紹介する宣教師たちの証言と矛盾してしまうことから創作の可能性が高いでしょう。

後者は確定こそできないものの後の生涯や周辺人物との関係性に矛盾する部分が少なく、一般的には有力なものとされます。

ただし、行長がいったい「いつ・どこで・なぜ」宇喜多氏に仕えることになったかということについては、まったく一次史料が残されていないため想像で分析するほかありません。個人的には、やはりフロイスらがいうところの有力な商人である父の伝手で商売をした結果の付き合いのような気がしますが…。

宇喜多家での腕を買われたか、秀吉にスカウトされる

行長の宇喜多家臣時代についても、具体的な事績が分かっているわけではありません。ただし、当時の書状などから宇喜多家に仕えていたということ自体は間違いなさそうなので、後の経歴を考えれば恐らく優秀な家臣だったのでしょう。

宇喜多家で活躍していたであろう行長が歴史の表舞台に姿を現すのは、宇喜多氏が織田信長の下へと降った天正年間以降のことです。秀吉が信長の命令で中国攻めを敢行すると、宇喜多直家は信長への服従を選択したのです。

そして、ちょうどこの時期から立佐・行長父子は秀吉に重用され始めます。おそらくは中国方面に進出する秀吉と、その遠征関連において親交を深めたのだろう、という推測が成り立ちます。

もっとも直家は行長に命じて上洛を敢行させているほか、父はこれ以前より信長への接近を果たしており、このあたりの出来事とも無関係ではなさそうです。実際、行長は天正9(1581)年ごろからすでに秀吉の命令を諸将に伝えるという重要な役割を担っており、仕官以前からその能力が一定の評価を得ていたことがわかります。

海上交通で活躍し、メキメキと出世

秀吉に仕えた行長は、まず海上交通の面で頭角を現します。

当時中国地方を攻略したかった秀吉にとって、瀬戸内海を掌握することは急務でした。ここで海上交通の管理を任せるために行長を抜擢したと考えるのが自然で、彼は海上の物資輸送を中心に活躍を見せました。

その結果として、行長は「海の司令官」と称される海上交通のスペシャリストに成長し、早くも秀吉家臣団において一定の地位を築くことに成功します。さらに、輸送だけでなく水軍の将として海上戦闘においても功績を挙げ、天正13(1585)年紀州攻めや四国攻めにおける水軍指揮は秀吉を満足させるに十分なものでした。

特に四国攻めは秀吉にとって初めての海を隔てた作戦であり、ここで大量の物資や兵力の輸送を成し遂げさせた行長の功績はより高く評価されることになったのでしょう。結果として行長は既に手にしていた小豆島の管理権だけでなく、いくつかの島や港における利益など、おおよそ1万石程度の収入を得ることになりました。

さらに、行長と同様に父の立佐も堺奉行に任命されるなど出世を重ねており、小西一族の名声を築き上げたのは行長だけでなく親子二代による功績の賜物であるという見方をすることもできます。

海上知識とキリシタンであることから生じるキリスト教知識がミックスされた行長という存在は、天正15(1587)年の九州平定実行時には欠かせないものとなっていました。

九州にキリシタン大名が多いことは有名ですが、行長はイエズス会と秀吉の仲介者として活躍、最終的にイエズス会から「九州のキリシタン大名を救援する」という名目のもと、協力を約束されています。

九州攻めを成功に導いた行長の地位はさらに向上し、九州大名の監督権と博多町割り奉行という重要な役割を担うようになるのです。

バテレン追放に朝鮮出兵での失策が重なる

これまでは極めて順調な出世を遂げてきた行長ですが、少しずつ風向きが変わり始めます。

天正15(1587)年、これまでキリスト教勢力に対して協力的であった秀吉は、その態度を一変させました。支配地域に対するキリシタン規制や臣下への棄教強要など目に見えた形で態度を硬化させた秀吉は、バテレン追放令を出したことで対外的にもハッキリと反キリシタンの姿勢を打ち出しました。

秀吉のバテレン追放令(原文は松浦史料博物館蔵の松浦家文書)
秀吉のバテレン追放令(原文は松浦史料博物館蔵の松浦家文書)

ここで頭を抱えることになったのがキリシタンの行長。彼が敬虔なキリシタンであることは周知の事実でしたが、秀吉は行長を失脚させることはしません。一方の行長としても表向きは彼の方針に従うほかなく、キリシタン規制に同調する動きを見せます。

ところが、行長は宣教師たちの説得を聞き入れ、オルガンティーノや高山右近らキリシタンを小豆島にかくまう工作に出ました。これは秀吉家臣でありながらキリシタンとしての生き方も捨てないという行長なりの結論であると考えられており、彼はキリスト教の保護とキリシタンの監視という相反する役割を担いました。

一方で、天正16(1588)年には肥後国一揆の影響で肥後半国を与えられるなど、秀吉からの信頼は依然として厚いものがあったようです。さらに秀吉は朝鮮半島や大陸への進出を目論んでいたため、海上に精通した行長の存在は重要度を増していったのでしょう。

行長は肥後統治と朝鮮出兵への準備という多忙な日々を送り、一揆の鎮圧やキリシタン保護・宇土城の建設などに従事していました。

宇土城跡にある小西行長の像
宇土城跡にある小西行長の像

天下人となった秀吉は天正20(1592)年に唐入りの意思を明確に表明したため、行長は遠征に際して一番隊の隊長に任命されました。しかし、行長は宗氏を通じた朝鮮との交渉を担当しており、秀吉が服属したと思い込んでいる朝鮮側が彼の意向を拒否するのではないかと考えていたのです。

そのため、彼は戦争回避と責任逃れという両方の側面からあえて交渉を長引かせましたが、朝鮮側に折れる見込みがなかったため「服属の意を示していた朝鮮が、手のひらを返した」という論理を築き上げると、やがて朝鮮へと出兵してきました。

文禄の役での小西行長と加藤清正の進路
文禄の役での小西行長と加藤清正の進路(出所:wikipedia

朝鮮では順調な戦運びを見せましたが、あくまで講和を軸に落としどころを見つけたい行長と、あくまで武力で明へと攻め込みたい加藤清正の間に確執が生じてしまいます。結局行長は清正と対立してまで朝鮮側から有利な講和条件を引き出そうとしましたが、交渉では苦戦を強いられることになりました。

「明の侵略は不可能」であることを悟った行長は、明側の交渉担当者である沈惟敬や石田三成らと結託し、侵略に対して極めて前向きな秀吉の意向を偽ることで早期の講和を目論見ます。しかし、秀吉の求めていた講和条件と全く異なることがやがて露見し、当然ながら激しい怒りを買うことになってしまいました。

それでも行長の功績が評価されていたためか、秀吉は激高しつつも行長を失脚させてはいません。講和が破談となった慶長元(1596)年にはふたたび朝鮮の地へと赴き、この際は秀吉の死をもって帰国しています。

切腹を命じられるも、自害を拒否し処刑された

秀吉の死後、行長は徳川家康と石田三成のどちらに従属するかを迫られました。行長と三成には極めて共通点が多かったことから個人的な間柄も良好で、家康も彼らの関係性を引きはがしにかかる工作に出たものの、その連帯を覆すことはできなかったと言われています。

こうして慶長4(1600)年に家康が会津征伐を掲げて出陣した際には、三成に従い西軍の一員として関ケ原の地へと向かいました。行長自身は良くも悪くも目立った働きがなかったものの、西軍全体が敗走してしまったことで敗者となり、近江国の伊吹山山中で捕らえられます。

家康からも西軍の中枢と目されていた行長は、同じく西軍を指揮した石田三成や安国寺恵瓊らとともに市中引き回しの末、切腹を命じられました。ただ、キリシタンであった行長は教義を理由に自害を拒否したため、最終的に斬首という形で処刑されています。

おわりに

行長は処刑という憂き目にあうも、彼の親族らは罪を許されています。しかしその後、誰もが急速に没落していき、最終的に小西家の命運は尽きてしまうのです。急激な出世の代償は、急激な没落といえるのかもしれません。


【参考文献】
  • 『国士大辞典』
  • 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(学研パブリッシング、2009年)
  • 島津亮二『小西行長―「抹殺」されたキリシタン大名の実像―』(八木書店、2010年)

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  この記事を書いた人
とーじん さん
上智大学で歴史を学ぶ現役学生ライター。 ライティング活動の傍ら、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」 および古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広く関心をもつ。 卒業後は専業のフリーライターとして活動予定であり、 歴史以外にも映画やアニメなど ...

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