「魚津城の戦い(1582年)」十二将の壮絶な最期!織田軍に包囲された魚津城将兵の散り際
- 2021/08/06
映画などで、沈みゆく戦艦の艦長が船と運命を共にするシーンを見かけることがありますが、戦国時代に攻城戦で敗れた城将も同じことを行いました。もちろん助命された例もありますが、基本的には敗軍の将は腹を切ることになっていたと理解され、その前に城内で自害することを選択した武人が多く存在しました。
中でも、壮絶かつ誇り高い城将たちの散り際で歴史に名を刻んだ戦の一つに魚津城の戦いがあります。天正10年(1582)、柴田勝家麾下の織田軍と上杉景勝配下の魚津城との激しいせめぎ合いです。今回はそんな、魚津城の戦いにフォーカスしてみることにしましょう。
中でも、壮絶かつ誇り高い城将たちの散り際で歴史に名を刻んだ戦の一つに魚津城の戦いがあります。天正10年(1582)、柴田勝家麾下の織田軍と上杉景勝配下の魚津城との激しいせめぎ合いです。今回はそんな、魚津城の戦いにフォーカスしてみることにしましょう。
上杉謙信は時代とともに様々に名を変えていますが、本コラムでは混乱を避けるため「謙信」で統一します。
合戦の背景
謙信の死と織田の越中進攻
天正6年(1578)、上杉謙信が春日山城で急逝し、その後の後継者争いである「御館の乱」が勃発します。謙信という求心力を失った越後の内乱に乗じ、織田氏は北陸への進攻を実施。天正9年(1581)には「佐々成政」を越中へと入国させ、越中西部を制圧します。東へと追いやられた上杉勢は、越中での権益を死守するための防衛線として松倉城・そして魚津城を手放すわけにはいきませんでした。その要となる地点をめぐる攻防戦が、「魚津城の戦い」です。
柴田勝家による魚津城包囲
天正10年(1582)3月、柴田勝家・前田利家・佐々成政らからなる織田の北陸方面軍が、魚津城への攻撃を開始しました。しかし上杉方が富山城を急襲したため、織田軍は一旦魚津城攻めを中止し、富山城奪還作戦を展開。その後、4万ともいわれる大軍で魚津城を再び包囲し、上杉勢は3800(諸説あり)とされる兵力の籠城戦でこれに応じることになりました。
魚津城のスペックについて
さて、魚津城の戦いの経緯をみるにあたり、その舞台となった魚津城のスペックを概観しておきましょう。魚津城は現在の富山県魚津市本町に所在した平城で、「小津城」の別名でも知られています。富山湾に近接した北陸街道沿いに立地し、越中国東部である新川郡の海陸交通の要衝として栄えました。
正確な築城年代は不明ですが、新川郡守護代「椎名氏」の居城であり、南北朝時代にはすでに同地に城館のようなものが存在したと考えられています。
椎名氏は室町期以降には角川上流の山城である「松倉城」を主な拠点としていましたが、交通の便の良い平城である魚津城を日常的に重用していたとされています。
江戸時代なかばの『三州志』によると、城の規模は本丸が南北約96メートル・東西約109メートル、二の丸は本丸の四方を囲むように配され、長さは各辺約173メートルで幅が約28メートルだったとされています。
これは椎名氏時代の規模とは異なる部分があるとも考えられますが、当時の富山城のスペックを類推するヒントとなりそうです。街道と海に直結した大規模な平城という点において、戦略上敵の手にわたしてはいけない重要な拠点であったことが理解できます。
合戦の経過・結果
魚津城の孤立と間に合わなかった景勝の援軍
織田軍の包囲を受けた魚津城の城将は「中条景泰」でした。阿賀野川以北の越後有力国人衆「揚北衆(あがきたしゅう)」の一員である景泰は、幼少の頃より謙信に仕え、下群の国衆筆頭として謙信側近の一翼を担った武将でした。御館の乱では上杉景勝に与し、その後も上杉の忠臣として前線で活躍してきました。魚津城の窮状を挽回するため、いち早く上杉本隊への救援要請を送りますが、そのとき景勝は武田氏の残存兵力や越後領内での紛争対応で動きをとることができませんでした。
魚津城はその時点で昼夜40日にわたる織田軍の猛攻を受けていたとされ、4月4日付の越後宛て書状では日夜銃撃にさらされ、堀の際まで敵が肉薄していることを伝えています。
景勝は代わりに能登国諸将や松倉城主の「上条政繁」らを派遣、自身は5月4日に軍勢を率いて春日山城を進発し、同19日に魚津城東側の天神山城に着陣しました。しかし5月6日の時点で織田軍は魚津城の二の丸をすでに攻略しており、上杉軍からは手が出せない状態にまで追い詰められていたといいます。
同9日には魚津城の弾薬が尽きたとされますが、景勝不在の隙をつくように織田軍の「森長可」が越後に侵攻したとの報が景勝のもとにもたらされます。
景勝は魚津城救援を諦め、撤兵して越後本国の防備に向かうという苦渋の決断を迫られることになりました。5月26日、それは松倉城兵もともに越後に向かうという、完全な魚津城切り捨てという選択でした。
魚津城十二将の壮絶な最期
すぐ目の前まで主君自らが救援に来ていたにも関わらず、撤兵せざるを得なかった厳しい戦局を、魚津城の将兵たちはよく理解していたと考えられています。それは、4月23日付で魚津城から「直江兼続」に宛てて出された「魚津在城衆十二名連署状」という書状の内容からうかがい知ることができます。これには城将の中条景泰以下、主だった武将たちが花押付きの連名で魚津城防衛任務への覚悟が記されていました。書状の締めくくりの部分を要約すると、
「この上は全員討死と覚悟しています。事の次第を景勝さまによろしくご披露ください」
このように、魚津城守備の将兵たちは、いずれも早い段階で城を枕に玉砕する覚悟を固めていたことがわかります。
猛将として知られた柴田勝家や、前田利家・佐々成政らそうそうたる織田武将に囲まれたという状況。平城である魚津城の、防御面でのデメリット。各方面に作戦行動を展開せねばならない、上杉軍全体の苦しさ。
これらの戦況を冷静に鑑み、魚津城将たちは限界までの足止めを自分たちの任務と心得たことが想像されます。連署状に記された、十二名の武人の名を列記しましょう。
- 中条景泰
- 竹俣慶綱
- 吉江信景
- 寺嶋長資
- 蓼沼泰重
- 藤丸勝俊
- 亀田長乗
- 若林家吉
- 石口広宗
- 安部政吉
- 吉江宗信
- 山本寺景長
この他にも運命をともにした将兵がいたはずですが、彼らの自刃の仕方は実に凄烈だったことが記録されています。
当時は「首実検」といって討ち取った武将の首を戦後に検め、どの人物であるかを照合・確認するということが行われました。しかし乱戦や激戦の中で損傷したり、大きな傷を負ったりして正確な身元照会が難しい状況が度々起こりました。
魚津城将たちはそういった事態を避けるため、あらかじめ自身の耳に穴を開けて名札を通し、誰の首かを分かるようにしたうえで自刃したと伝わっています。
当時の武人たちにとっても、この所作は見事と映ったのでしょう。こうして6月3日、魚津城は落城したのでした。
戦後
織田軍が撤兵した後、魚津城には上杉の配下が守備に入りました。しかし越中の権益はその後、織田氏・豊臣氏の掌中にわたり、佐々成政が富山城に入城することとなるのでした。実はこの魚津城落城のタイミングは、歴史の皮肉ともいえる時期での事件でした。それというのも、前日の6月2日に本能寺の変が勃発し、織田信長が死亡していたのです。
この報に接した織田軍は作戦行動を中止して撤兵、わずか数日違いのすれ違いが魚津城の明暗を分けることになったかもしれないと囁かれています。
おわりに
武人の散り際というものは、現代人の感覚からすると理解が困難なほどに凄絶な場合が多々あります。しかし責任を全うし、その名を後世に伝えて残された者の幸せを願う気持ちは、いささかも変わるところはありません。魚津城の戦いは歴史のロマンのなかにも、黙祷の気持ちを自然に起こさせる故事となっています。【主な参考文献】
- 『日本歴史地名体系』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
- 『国史大辞典』(ジャパンナレッジ版) 吉川弘文館
- 『歴史群像シリーズ 50 戦国合戦大全 上巻 下剋上の奔流と群雄の戦い』 1997 学習研究社
- 魚津市HP 魚津城の戦い
- 魚津市HP 魚津城の戦い(パンフレット)
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