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  • 武田信玄
 2019/06/25

「飯富虎昌」武田の精鋭部隊で有名な "赤備え"。元祖は虎昌!

飯富虎昌の錦絵(歌川国芳 作)
飯富虎昌の錦絵(歌川国芳 作)

山県昌景の兄として知られ、武田家の宿老として武田信虎・信玄の2代に仕えた飯富虎昌。実は2代に仕えたのみならず、2代にわたる武田家中の世代交代クーデターにも関与しています。

結局、彼は最期、クーデターを企てた首謀者として死罪となりますが、驚くことに謀反発覚の原因は 弟の昌景が信玄に密告したことにあったようです。
(文=戦ヒス編集部)

ハッキリしない出自

虎昌が誕生したのは永正11年(1514年)といわれていますが、ハッキリしていません。武田氏の譜代家老衆の家柄である飯富氏は、『甲斐国志』によると、甲斐国巨摩郡飯富を本拠としたといいます。

当時の甲斐国は武田信虎が国内統一の戦いを行なっており、永正12年(1515年)10月には巨摩郡の国人・大井信達の本拠を攻めたが、このときに「飯富道悦」「飯富源四郎」なる人物が討死しているようです。(『一蓮寺過去帳』『勝山記』など)

「飯富源四郎」という名は、山県昌景が若き頃に名乗っていたものと同じです。このことから史料に登場するこの2人の人物(飯富道悦と飯富源四郎)は兄弟であり、どうやら源四郎が虎昌・昌景兄弟の父親だと推測されているようです。

しかし、『甲陽軍鑑』では、虎昌・昌景兄弟は元来、美濃国の守護である土岐氏の家来で、虎昌は小姓を務めていたといいます。そしてやがて2人は浪人して武田信虎に仕えたというのです。

いずれにしても真偽はわかりませんが、甲斐出身ではなくて、実は飯富氏となんの関係もなかったという可能性もあるワケです。

信虎とは反りが合わず?

確かな史料で虎昌が最初にでてくるのは、享禄4年(1531年)正月に信虎に背いたときのことです。

事の発端は、信虎が扇谷・山内の両上杉氏との関係強化を図り、山内上杉氏の上杉憲房の後室を側室に迎えようとしたことにありました。この頃の信虎は、甲斐統一をすでに果たし、信濃国諏訪郡など国外への侵略を進めていたとみられ、関東の北条氏と敵対する扇谷上杉氏や山内上杉氏とは誼を通じていたようです。

武田信虎の肖像画
信玄の父・武田信虎

このことを良く思わなかった虎昌・栗原兵庫・今井信元らが離反して甲府北部の山地にたて籠もり、信濃の諏訪頼満に支援を要請。この反乱は武田家臣だけでなく、諏訪や甲斐国人らも加わって大規模なものとなりました。

しかし、結果的に信虎に鎮圧され、虎昌も降伏を余儀なくされます。ただし、処罰を受けることはなかったようで、信虎家臣として復帰したとみられています。

クーデターに加担

その後の信虎は甲斐国をほぼ統一。さらに天文6年(1537年)に駿河の今川義元と、天文9年(1540年)に信濃諏訪郡の諏訪氏と婚姻同盟を締結しながら、順調に信濃国へも進出しています。

そんな最中、天文10年(1541年)に、信虎の嫡男である武田晴信(=信玄)と一部の重臣によるクーデターが勃発し、信虎は国外追放という憂き目に。

この頃の武田家の中枢を担った四宿老は、板垣信方甘利虎泰・小山田備中守、それに虎昌を加えた4名でした。 一説にこのクーデターの首謀者は板垣信方であり、虎昌と甘利虎泰が説得されて企てに参加し、家臣団の結束に尽力したといいます。

家中での立場が上昇し、次第に増長?

以後、虎昌は四宿老の1人として板垣信方や甘利虎泰らと共に若い信玄を支えていきます。

新当主となった信玄は、信濃国の経略を引き続き行ない、天文11年(1542)に諏訪郡、天文14年(1545年)には上伊那郡を、天文16年(1547年)には佐久郡をほぼ制圧します。

この時期、虎昌は信玄の嫡男でまだ幼少だった義信の傅役(後見人)を務めていたとみられています。また、『甲陽軍鑑』によれば、甘利・板垣・小山田備中の3人の宿老がいなくなると、虎昌はやがて増長して逆心を企てるようになったといいます。

これはのちの義信事件の伏線と思われます。ちなみに上記3人のうち、板垣信方と甘利虎泰は、信玄初の大敗となった天文17年(1548年)上田原の戦いで、小山田備中守は天文21年(1552年)で討死したとされています。

越後上杉との戦いで活躍

とはいえ、虎昌は川中島での戦いなど、上杉謙信との戦いでは多くの功績を残しています。

天文22年(1553年)8月の村上攻めでは、先鋒として村上義清の籠もる塩田城(長野県上田市)を陥落させ、義清を追い出すことに貢献。その後すぐに塩田城の守備を任されて入城しています。しかし、まもなく謙信が村上領の奪還のために進軍してきたため、室賀城に移って防備を固めています。(第一次川中島の戦い)

弘治3年(1557年)第三次川中島の戦いでは、指揮官として北信濃へ侵攻。同年2月に謙信方の葛山城を陥落すると、続けて高梨政頼の飯山城にせまります。しかし、4月にまたもや謙信が出陣してきたため、信玄の指示で兵を塩田城に引き下げています。
その後、信玄は決戦を避けたため、謙信が6月に飯山城に本隊を移して下高井郡に進軍。虎昌は信玄麾下の市川氏が攻められた際に援軍として中野(長野県中野市) に出陣して上杉軍を牽制しています。

そして永禄3年(1560年)から翌年にかけて行なわれた上杉軍の関東遠征では、謙信は関東諸将らを味方にして北条氏康の小田原城まで大挙して押し寄せたが、このとき信玄は北条氏から援軍要請を受けて上杉軍を牽制するなどしています。

軍鑑によると、このとき虎昌は「上杉の大軍と決戦すべき」と献策しましたが、信玄が聞く耳を持たなかったため、多いに不満げだったとか。ただ、虎昌は永禄4年(1561年)9月の第四次川中島合戦の軍議でも決戦を主張しており、このときは受け入れられています。

死闘となった第四次では、武田軍は軍勢を信玄本隊と別働隊の2手に分けられましたが、虎昌は別働隊に属して信玄本隊の窮地を救っています。

謀反を企てた最期

川中島の戦いは永禄7年(1564年)の第五次を最後に終結。このころ、武田・北条・今川三者間による三国同盟はまだ継続していました。

三国同盟を示す系図
三国同盟を示す系図

しかし、西上野へも勢力を拡大していく武田に対して、没落の一途をたどっていた今川。こうした情勢の中で信玄は外交方針を転じ、今川氏を滅ぼそうと目論むようになります。

ただ、嫡男の義信からすれば、正室に今川義元の息女を迎えているので、今川攻めは許容できるものではなかったのでしょう。やがて父子は不和になったといいます。

義信事件の首謀者

そして永禄8年(1565年)、ついに義信と虎昌が共謀して信玄暗殺(または追放)を計画。

しかし、こうした不穏な動きはすぐに目付役に察知されます。しかも虎昌の弟である飯富昌景(=のちの山県昌景)が義信から虎昌宛ての密書を入手したらしく、これを信玄に報告して処罰するように進言したといいます。

山県昌景の武者絵(歌川国芳 作)
虎昌の弟・山県昌景

これが事実なら実の兄の命より信玄への忠節を選んだのですから驚きです。結局、クーデターは未遂に終わり、同年10月に虎昌は処刑となって人生の幕を閉じたのです。

まとめ

信虎と信玄の2度のクーデターに関わった虎昌。とりわけ信玄暗殺(または追放)のクーデター計画においては、義信をそそのかした首謀者とみなされているようです。

また、虎昌のほか、曾根周防守や長坂源五郎らも同様に処刑されています。一方、義信は死罪を免れたものの、甲府の東光寺に幽閉されて廃嫡となり、2年後には亡くなっています。

「飯富の赤備え」として知られる虎昌の部隊は、甲冑や旗指物などの武具を赤に統一し、敵から恐れられたと伝わります。彼の死後、「赤備え」の精鋭部隊はそのまま実弟の山県昌景が、昌景死後は徳川方の井伊直政が引き継いでいきました。

<a href='https://sengoku-his.com/yukimura'><a href='https://sengoku-his.com/400'>真田幸村</a></a>のレプリカ甲冑

なお、大阪の陣では真田幸村が自分の部隊に「赤備え」の甲冑を採用しています。このように虎昌の勇姿は後世にまで伝えられていったのです。


【主な参考文献】
  • 磯貝正義『定本武田信玄』(新人物往来社、1977年)
  • 平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2006年)
  • 平山優『新編武田二十四将正伝』(武田神社、2009年)




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