「駿河侵攻」信玄の大胆すぎる外交転換でカオスと化した外交関係。武田 vs 北条の全面戦争へ!
- 2023/03/22
武田・今川・北条の三国同盟が破綻することになったのは、元をたどれば桶狭間の戦い(1560)で今川義元が討死したことでしょう。今川家が弱体化すると、やがて信玄は今川の本領「駿河国」を攻め取る計画を立てます。
こうして信玄の「駿河侵攻(するがしんこう。1568~70)」が開始されますが、最初あっさりと今川の本拠地「駿府」を占領するも、その後すんなりと駿河制圧とはなりませんでした。武田にとって真の敵は北条氏であり、実に2年にも及ぶ戦いになったのです。
この戦いには多くの周辺大名が関わり、その期間中に外交関係が目まぐるしく変化する点も一つの見どころだと思います。本記事では文献や史料をもとに駿河侵攻の全貌を明らかにしていこうと思います。
こうして信玄の「駿河侵攻(するがしんこう。1568~70)」が開始されますが、最初あっさりと今川の本拠地「駿府」を占領するも、その後すんなりと駿河制圧とはなりませんでした。武田にとって真の敵は北条氏であり、実に2年にも及ぶ戦いになったのです。
この戦いには多くの周辺大名が関わり、その期間中に外交関係が目まぐるしく変化する点も一つの見どころだと思います。本記事では文献や史料をもとに駿河侵攻の全貌を明らかにしていこうと思います。
【目次】
駿河侵攻の背景とは
冒頭でも触れましたが、武田信玄が今川領を攻めようと決意したのは、元々は今川家の弱体化にありました。老獪な信玄はそんな今川家の状況をふまえて外交戦略を転換。今川と同盟関係にあるにもかかわらず、永禄9年(1565)に今川の天敵であった織田信長と同盟を締結します。信玄嫡男の義信は、今川氏真の妹を正室に迎えていたのでこれに当然反発しました。そして信玄暗殺を企てたのですが、結局は未遂に終わり、最終的に甲府の東光寺に幽閉され、永禄10年(1567)に亡くなってしまいます。
こうして氏真の妹も駿府に返還されることになり、武田と今川の同盟関係は完全に破綻。氏真はすぐに信玄との合戦を想定し、同年の末頃より越後の上杉謙信に接近して交渉をはじめていたようです。
永禄11年(1568)2月、信玄がついに動きだします。穴山梅雪や山県昌景らを徳川家康のもとに派遣し、今川領を東西から攻め取る約束をしたといいます。
『浜松御在城記』によれば、大井川を境として駿河国を武田、遠江国を徳川が切り取るという約束で、これを取り持ったのが織田信長だとか。なお、信長はこの後に足利義昭を奉じて上洛作戦を展開するため、信玄の目を逸らす策略だったという見方もあるようです。
上杉謙信を牽制
駿河侵攻を行う前に、信玄にはもう一つ仕事が残っていました。それは駿河に出陣したときに越後の上杉謙信が攻め込んでこないように抑えておくことです。同年3月、謙信が越中出陣で越後を留守にしている中、家臣の本庄繁長が謀反(本庄繁長の乱)。4月には会津の蘆名盛氏が繁長を支援しようという計画もありました。実のところ、この一連の越後攻めの計画は、信玄が裏で糸をひいていたようです。彼らが挙兵した際には支援する約束をしていたとか。
信玄は6月から10月ごろまで北信濃に出陣し、越後国への侵入も試みる等して、謙信を牽制しています。その甲斐もあったのか、本庄繁長の乱は翌年まで長引いたため、謙信の足止めに成功しています。
今川攻めの事前準備
こうした足止めの間に、信玄は着々と駿河国への侵攻の準備を固めていました。甲斐に戻った信玄は11月3日に平野村(南都留郡山中湖村平野)の13人の地下人に対して諸役免許を与えることで、甲駿両国を結ぶ軍道の整備を命じています(「平野長田家文書」)。
また、同時に今川家臣らに調略をしかけ、多くの内通者を得ることにも成功。『松平記』によると、この調略の背景には信玄の父である武田信虎の功績があったといいます。信虎はかつて今川領に出かけた時に、息子信玄に追放されて武田当主の座を奪われています。なので、この話が事実だとしたら、信玄に対する憎しみはなかったのかもしれません。
駿河侵攻を開始。まもなく駿府制圧
そして12月6日、ついに信玄は甲府を出陣し、駿河侵攻を開始。12月12日には駿河国へ侵入し、由井口の内房(富士郡芝川町内房)に布陣。駿府制圧するも、北条と敵対関係に
これを知った今川氏真は重臣の庵原安房守を大将として薩た峠(庵原郡由比町と清水市興津町との境)を防衛線とし、自らも清見寺まで出陣して迎撃しようとしましたが、ここでかねてからの内通していた家臣らの離反者が相次いだため、駿府への退却を余儀なくされます。なお、この同日には北条氏政が信玄の軍事行動を許さず、今川救援のために小田原を出発して三島に到着しています。これにより、武田と北条の同盟も破綻となりました。
翌13日は、武田軍が駿府へ乱入して大混乱となり、氏真は狼狽して重臣・朝比奈泰朝の居城・遠江掛川城へ逃れています。このとき城中の婦女子らは逃げまどい、氏真の正室・北条氏も興にも乗れず、裸足・徒歩で脱出する有様だったといいます。また、同日には家康が井伊谷口から遠江国への侵入を開始しており、同国内の今川方の諸城を次々と陥落させていくことになります。
駿府を占領した信玄でしたが、その後は思うように事は運びませんでした。それは北条を敵に回し、家康にもそっぽを向かれたからです。
19日、氏政は打倒武田に向けて上杉氏に使者を派遣し、同盟を打診しています。ただ、この交渉は両者の思惑の違いなどによって同盟締結までに約半年ほどかかることになります。また、氏政は氏真が籠もった掛川城対して海路より救援に向かわせ、陸路からは別に駿河国へ軍勢を向かわせました。
こうした北条の動きに対し、23日に信玄も家康に書状を送っており、その中で信玄は駿河国の鎮定のために3日以内に遠江へ出馬するといい、家康に掛川城への攻撃を催促しています(「恵林寺文書」)。
家康との関係にもヒビが。信玄のとぼけた言い訳とは
信玄は駿河侵攻に踏み切ったことを北条氏に弁明したようです。永禄12年(1569)正月7日付けの『上杉家文書』によると、信玄は北条氏のもとに使者を派遣し、「氏真が謙信と通じて武田を滅ぼそうと企てているから、信越国境が深雪で閉ざされた時期を狙って駿河へ攻めた」 とのことです。一方で信玄は家康にも8日付の書状で弁明しています。というのも、信玄は家康に掛川城攻めを催促した後、信州高遠城にいた家臣の秋山虎繁(信友)の軍勢を天竜川筋を南下させ、遠江国に侵入させたことで、家康方の諸将らと交戦する事態を引き起こし、家康から抗議を受けたのです。
信玄は書状の中で、自分は全く知らなかったといい、秋山信友をすぐに自分の陣営に呼び戻すなどと言っていますが、これは一般に確信犯とみられています。
駿府を封鎖され、窮地の信玄が外交策を講じる
信玄は駿府を占領したとはいえ、今川旧臣の土豪らが一揆を起こして北条方と連携をとるようになり、また、海上から迫る北条軍等もあって苦戦したといいます。戦いが長期戦の様相を呈してきたところで、信玄はこの局面を打開するために得意の外交策にうってでることに。信長に使者を遣わして、謙信との和睦斡旋を将軍足利義昭に依頼させます。これを受けて信長と義昭は、2月に信玄との和睦(甲越和与)を命じる御内書を謙信に対して発給したのです。
3月、いまだ掛川城を陥落していなかった家康は力攻めから講和策に転じます。氏真のもとに使者を送り、「駿府から武田軍を追い払った暁には、氏真殿に駿府をお返しする」という申し入れをしたといいます。
信玄は3月23日付で穴山衆の市川十郎右衛門尉に信長との再交渉を命じています。以下は内容の一部。
- 信・越国境の雪が消え、謙信が信州へ出撃することも必定となった以上、自分は薩た山を攻め、北条氏と興亡の一戦を遂げる覚悟だが、甲・越和融の将軍の下知が出るよう信長が媒介してくれるなら、急ぎその使者を信州長沼へ派遣するよう、信長に催促してほしい。
- 家康が遠州を取るのに異議はないが、家康と氏真で和議の動きがあるのは不審だ。信長に真意を聞いてほしい。
- 自分は今のところ信長以外に味方がない、もしも信長の協力を失えば滅亡するよりほかはない。
上記を見る限り、信玄はかなり追い詰められていることがうかがえますね。ただ、これらの外交策が実り、4月7日付で将軍の内書と信長の直江宛書状とが越後に送られています。
また、一方で信玄は同日付で家康に対して以下の内容の書状を送り、家康が今川氏真と講和しないように手を打ってもいました。
- 今川氏真の籠もる掛川城の攻略の催促。
- 甲越和与(武田と上杉の同盟)がまもなく成立すること。
- 既に佐竹・宇都宮氏ら関東諸将の過半を味方に付け、小田原(北条)攻めの準備が進んでいること。
しかし、これは上手くいかなかったようです。信玄は謙信・家康・氏真らの動向をにらみつつも、北条軍と戦って苦戦していましたが、24日には駿府を放棄し、撤兵して甲府へ帰国しています。
あくまでもこの時点では、駿河侵攻は失敗に終わったのです。
二回目の駿河侵攻。キーマンは謙信?
今川滅亡
信玄が駿河侵攻に失敗した一方で、5月17日には今川氏真の籠もる掛川城がついに開城。徳川家康と北条氏政は今川領を分割領有する恩恵を受けることになりました。これで家康は掛川城を手に入れ、遠江国をほぼ制圧。北条氏も氏真を庇護下に置いて、氏政の子・国王丸(のちの北条氏直)を氏真の養子とすることで今川領を事実上受け継ぐことになりました。ここに戦国大名としての今川氏は滅び、その後氏真が駿府に戻れることもありませんでした。
信玄、反撃にでる
駿府を放棄した信玄でしたが、すぐに反撃にでています。信玄は5月に入ってすぐに軍勢を派遣して相模国へ侵攻させており、北条氏の牽制に動いています。以下、掛川城の開城以後の主な出来事を一覧でまとめてみました。
- 5月17日:遠江国の掛川城が開城。
- 23日:信玄が信長に書状を送り、徳川と北条が手を結ばないように働きかけを依頼。
- 6月5日:武田別働隊が武蔵国御岳城を攻め、やがて陥落させる。
- 9日:かねてから交渉が進められていた北条氏と上杉氏との同盟(越相同盟)がようやく成立
- 16日:信玄率いる武田軍が相模国へ侵入し、北条綱成らの守備する深沢城(御殿場市)を攻撃
- 17日:信玄率いる武田軍が転じて伊豆三島を攻撃。
- 25日頃:信玄率いる武田軍が転じて富士郡の大宮城を攻撃。
- 7月:武田別働隊が武蔵国秩父郡に侵攻、やがて鉢形方面へ。
- 初旬頃:信玄率いる武田軍が大宮城を陥落させる。その後、信玄は一旦甲府へ戻る。
- 下旬:武田氏と上杉氏との同盟(甲越和与)が成立。
上記をみると、武蔵国や相模国にも侵攻しているので、よくよく考えてみたら駿河の範囲を超えているようですね。二回目の駿河侵攻という表現は、駿河富士郡の大宮城の陥落のみが該当するのでしょうか…。駿河侵攻の過程で武田と北条が全面対決の様相を呈してきたので、信玄は武蔵・相模・伊豆といった北条領へも攻め込んでいます。
なお、上記の出来事で特筆すべきは謙信の動きです。謙信はこの短期間のうちに北条と武田の両方と同盟関係を結んでいます。北条は謙信に対して信濃出陣を要請しましたが、謙信は出陣していません。
『上越市史』によると、謙信は信濃へ出兵しようとしたが、信玄より和与を持ちかけられたので、ひとまず出兵を延期したといいます。
まさに信玄が信長を通して謙信に働きかけた外交策がここにきて功を奏したといえるでしょう。
三回目の駿河侵攻。駿府を再占領!
信玄は三回目の駿河侵攻を行う前に、今度は上野国方面から北条領への侵略を開始。同年10月には北条の本拠・小田原城にまで至ってこれ包囲。しかし堅固な小田原城を落とすことができずに撤退。その帰路では信玄の有名な退却戦・三増峠の戦いで北条方に大打撃を与えています。その後、小田原攻めから帰国した信玄はすぐに3回目の駿河侵攻を計画します。
『陽雲寺所蔵文書』によると、信玄は11月9日、諏訪社等に起請文を捧げ、駿河・伊豆両国の併呑と越後の潰乱とを祈ったといいます。そして信玄は駿河へ侵入して富士に着陣。これに対して北条方は28日に、またもや上野沼田城に出陣中の謙信に救援依頼をしています。
再び駿府占領へ
信玄は12月6日、北条氏信らが守備する蒲原城を攻略して山県昌景を置くと、自らは駿府へ向かいました。そして臨済寺鉄山宗純を使者として駿府城を守る今川方の阿部正綱らを説得し、同月13日に駿府を再び占領することに成功したのです。四・五回目の駿河侵攻。家康がついに…
再び駿府を奪取した信玄は永禄13年(1570)正月4日から、今度は今川家臣の大原資良らが守備する花沢城(焼津市花沢)への攻撃をはじめました。このとき信玄は投降を促したが、敵はこれを拒否して激しくしたといいます。武田軍はこの戦いで多くの損害を受けたが、猛攻を繰り返して27日には攻略し、開城を果たしました。なお、大原資良は遠江国の高天神城の小笠原長忠を頼り、落ちのびていったといい、信玄も一旦甲府へ帰国しています。
この時点で信玄の駿河支配は富士・駿東郡を除いた部分に及んでいます。この後も信玄はたびたび北条領への侵略を行なっているので、以下に時系列でまとめました。
- 1月4日:4回目の駿河侵攻を実施。花沢城(焼津市花沢)への攻撃を開始。
- 27日:花沢城を開城させる。
- 4月16日:5回目の駿河侵攻を実施。東部駿河と伊豆を攻撃。
- 5月:富士郡吉原や駿東郡沼津にて北条軍と交戦。
- 8月:駿河駿東郡の興国寺城や伊豆国の韮山城にて連日、北条軍と交戦。
謙信と家康が同盟
北条氏政は、上記の武田軍との戦いで上杉謙信に援軍を要請していたが、これに謙信は氏政が同陣するなら出兵すると要請し、氏政は謙信が信濃へ攻め入ったなら駆けつけて同陣すると答えるなどしていたようです。越相同盟はすでに成立していたが、結局は条件等がかみ合わず、またしても謙信は出兵しなかったのでした。同年8月には甲越和与が破棄となり、謙信と信玄の同盟は手切れとなったようです。そこでさっそく信玄は9月に諏訪大社に参拝し、謙信の撃滅を祈願すると、関東へ出陣して上杉や北条の所領を荒らしています。これには謙信もようやく出兵を決意したようであり、10月20日に謙信が関東へ出陣したため、信玄は兵を引き上げています。
一方で家康は信玄との戦いを想定し、かねてから謙信との同盟を水面下で進めていました。そして10月8日に双方が起請文を提出し、上杉・徳川同盟が成立となりました。『上杉家文書』によれば、以下の2ヵ条を誓約したといいます。
- 徳川は武田信玄と絶縁する。
- 信長と謙信を結ばせ、信長と信玄との縁談を破棄させる
つまり、織田・徳川連合は武田氏と断交し、新たに上杉氏と手を組むということです。
信長を敵視しはじめる信玄
ところで、この年の織田信長はどういう状況にあったのでしょうか?彼は既に将軍足利義昭を誕生させて織田政権を樹立しており、殿中御掟という掟を義昭に承認させ、将軍権力をも制限させるほど強大な力をつけていました。
これをきっかけに信長と将軍義昭との関係に軋轢が芽生えはじめます。以下に要点をまとめました。
- 1月:信長、将軍義昭に殿中御掟追加5か条を承認させる。
- 6月5日:信玄、近江に出陣した信長に見舞いの書状を送る。
- 15日:信玄、朝倉義景に書状を送り、同族の若狭武田氏の孫犬丸を庇護してくれたことを感謝する。
- 12月15日:本願寺顕如から信玄の元に、信長の脅威を訴えて協力を要望する書状が届く(『顕如上人御書札案留』)。
上記をみると、6月の時点で信玄と信長の関係は良好なことが伺えますが、一方で信玄は信長の仇敵である朝倉義景や本願寺顕如とも書状のやりとりをしています。ちなみに本願寺顕如の妻は信玄夫人の妹に当たっていることから、信玄と顕如は以前から懇意にしていたようです。
信玄は信長と同盟関係を維持しているものの、信長の将軍に対する振る舞いを不快に感じ、密かに敵意を抱くようになったとみられています。そして表面上は信長と友好関係を保ちながら、水面下で将軍義昭や反信長勢力らと通じ、やがて信長包囲網を形成していくのです。
ついに駿河制圧へ
上杉と徳川を敵に回した信玄ですが、駿河制圧に向けて侵攻を続けていました。11月には上野国再出兵のうわさを流し、上杉方を緊張させると、12月上句には最後となる駿河侵攻を開始し、北条網成の駿東郡深沢城や興国寺城を攻めました。
年明けの元亀2年(1571)正月3日、信玄は深沢城に矢文を送って北条綱成らに降伏を勧告。16日には降伏・開城しています。これにより、ようやく信玄は念願の駿河制圧を成し遂げたのです。
【主な参考文献】
- 磯貝正義『定本武田信玄』(新人物往来社、1977年)
- 笹本正治『武田信玄 伝説的英雄像からの脱却』(中公新書、1997年)
- 平山優『武田信玄』(吉川弘文館、2006年)
- 丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団:信玄・勝頼を支えた家臣たち』(教育評論社、2016年)
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