「九鬼嘉隆」志摩の海賊大名! 流浪の身から一国の主へ

九鬼嘉隆のイラスト
九鬼嘉隆のイラスト
九鬼水軍の頭領・九鬼嘉隆(くき よしたか)は小さな水軍から身を起こし、織田、豊臣の水軍の大将に上り詰めました。荒々しいイメージとは裏腹に、茶の湯にも通じていたと言われています。

嘉隆はなぜ「海賊大名」と呼ばれ、どうやって志摩一国の主になれたのか。その生涯を見ていきましょう。

海賊大名の前半生

志摩国の地頭一族

天文11(1542)年、九鬼嘉隆は九鬼水軍の当主・九鬼定隆の三男として志摩国英虞郡波切城で生まれました。

母は英虞郡甲賀の人間と伝わります。九鬼氏は藤原北家の流れを汲み、紀州九鬼浦を発祥とされています。

当時の志摩国には、13人の地頭たちが割拠していました。定隆は地頭の一人として、英虞郡の波切城と答志郡の田城城の二つの城を持っていたのです。

水軍は海賊とも称されます。海賊、と聞くと海で略奪を働く輩、と思われるかも知れません。戦国時代の「水軍」は、それとは少し違います。

日本の水軍は、海上に関所を構えて水先案内人の派遣や警護を行いました。戦時においては軍船を巧みに操り、戦国大名の軍の一翼を担うこともあったと伝わります。いわば水軍は「海の武士団」でした。

流転から逃亡

天文20(1551)年、嘉隆が十歳の時に定隆が亡くなり、九鬼氏の家督は長兄・浄隆が継ぎました。

永禄3(1560)年になると、嘉隆らの運命はさらに暗転します。田城城に九鬼家以外の地頭12家が押し寄せて来ました。しかも伊勢の国司・北畠具教の後援を受けています。嘉隆が援軍に向かいますが、この戦の中で当主浄隆は病死(一説には討死とも)してしまいました。嘉隆は当時8歳だった甥の澄隆を九鬼氏の当主として、田城城を守り抜きました。


しかし、相次ぐ九鬼氏の当主交代に周辺の勢力が黙って見ているわけはありません。永禄8(1565)年には英虞郡の水軍が急襲して来ました。しかも今度は九鬼水軍が2つに分割された状態での不意打ちです。九鬼側はなす術なく敗退し、嘉隆は浄隆を守りながら朝熊山に逃亡しました。そして志摩国から三河国へ向かうことにします。

織田水軍の将

織田水軍と旧領回復

流浪の身となった嘉隆たちですが、今後を決する出会いがありました。織田家臣・滝川一益の誘いを受けてその列に加わります。

嘉隆の活躍の場はすぐに訪れました。織田軍が伊勢攻略に乗り出すと、永禄11(1569)年の大淀城攻めで水軍の大将を任されたのです。

同13(1571)年の北畠家の居城・大河内城攻めでは伊勢の海上封鎖を成功させ、敵の援軍を防いでいます。嘉隆は並行して志摩国の攻略も行いました。各地頭や志摩国の水軍と交戦を始め次々と屈服させていきました。

九鬼嘉隆と志摩国マップ。色塗部分は志摩国

戦術においては、船上からの鉄砲による一斉射撃を取り入れています。これにより、かつての九鬼氏の居城・田城城の奪回を果たしました。嘉隆たち九鬼水軍は、信長の援助の下で志摩国を平定したのです。

鉄砲戦術は、主に長篠の戦いで注目されますが、海上戦術にも実用化されていたことがわかります。ここに至って、嘉隆は信長から志摩国の統治と九鬼氏の家督相続が認められました。

毛利水軍との戦い

故郷を平定しても、嘉隆の戦いは終わりません。天正2(1574)年には、伊勢国長島の一向一揆鎮圧にも出動し、海上から鉄砲射撃を行っています。

織田家は、その後一向一揆の総本山である石山本願寺に攻勢を強めていきました。やがて破竹の勢いの嘉隆と織田軍の前に、強大な敵が立ちはだかります。石山本願寺側に、毛利水軍(村上水軍も参加)が付いたのです。

同4(1576)年に、摂津国木津川沖で嘉隆ら織田水軍と毛利水軍が海戦に及びました。ここで織田水軍の多くは、毛利水軍の焙烙玉に船を焼かれて大敗を喫してしまったのです。

しかしこれで終わる嘉隆ではありません。信長の命令を受け、燃えない船を建造するべく動き始めます。嘉隆は元来の関船の上部を鉄板で加工した「鉄甲船」を完成させました。

雪辱を晴らすかの如く、嘉隆ら織田水軍は同6(1578)年に、再び木津川沖で毛利水軍と海戦が行われます。鉄甲船は焙烙玉や火を寄せ付けず、結果は織田水軍の大勝利に終わりました。

戦後、嘉隆は志摩国に加えて、摂津に7千石を加増されています。摂津への領地加増は、いわば嘉隆が信長から瀬戸内の制海権を与えられたとも解釈できます。それほど大々的な勝利だったと言えるでしょう。

戦国日本水軍の司令官

織田家家臣から豊臣水軍の長へ

天正10(1582)年に信長が明智光秀に本能寺で討たれると、織田家臣団は分裂します。

混沌とする中で、嘉隆は織田信雄(信長の次男)に仕えていました。信雄は凡庸な人物でしたが、所領が尾張と伊勢であり、志摩国と隣接していました。嘉隆は戦略上、信雄に仕えたものと考えられます。

天正12(1584)年に、羽柴(豊臣)秀吉と信雄・徳川家康が小牧長久手の戦いで戦火を交えた時のことです。嘉隆は滝川一益を通じて、秀吉陣営に寝返ったのでした。

嘉隆はそこから縦横無尽に動きます。松ヶ島城の海上封鎖や三河国沿岸の襲撃、蟹江城合戦への参陣と功績を積み上げていきました。

同13(1585)年には、従五位下大隈守に任官しており、国政規模での秀吉からの厚遇ぶりがうかがえます。さらに同年に答志郡の鳥羽の地に本拠地・鳥羽城の建築に着手しており、九鬼家は全盛期を迎えていました。

志摩鳥羽城の三の丸跡
志摩鳥羽城の三の丸跡

天正15(1587)年の九州平定、同18(1590)年の小田原征伐に豊臣水軍の頭領として参加しています。

朝鮮出兵と隠居

天正20(1592)年、豊臣政権は朝鮮出兵に乗り出しました。文禄の役で嘉隆は、脇坂安治、加藤嘉明と並んで水軍の司令官として出陣します。ここに至って、嘉隆は正式に日本国の水軍の代表的立場となったと言えます。

文禄の役における九鬼嘉隆の海軍艦隊
文禄の役における九鬼嘉隆の海軍艦隊

日本側は閑山島海戦の敗戦などにより、日本側は海戦への出撃から、陸海共同での沿岸防備に転換しました。結果として、嘉隆ら日本の水軍は朝鮮水軍を撃退することに成功しました。

嘉隆は慶長2(1597)年に隠居して、嫡男・守隆に家督を譲りました。

関ヶ原と最期

慶長3(1598)年、秀吉が死去しました。これにより、徳川家康陣営の東軍と石田三成陣営の西軍が対立を深めていきます。

『豊臣家五奉行連署状』では、石田三成らが嘉隆と守隆に剃髪して法体となることを禁止しています。ここから嘉隆と守隆が、出家して争いの渦中から一線を引くことを企図していたことが窺い知れます。

結局、嘉隆は西軍、守隆は東軍に所属します。どちらが勝っても、九鬼家を存続させるためだと言われています。信濃の真田家でも同様に、親兄弟が東西に分かれていますから、当時は普遍的な戦略でした。

隠居した嘉隆でしたが、往年の如く快進撃が始まります。慶長5(1600)年、東軍や守隆が会津討伐に赴いた隙に、守備が手薄の鳥羽城を奪い取りました。さらには伊勢湾の海上封鎖を行い、それによって安濃津城の戦いに貢献します。これは籠城側が家康の援軍西上の要請を阻止したものでした。

嘉隆の快進撃は、入念に計画されたものと考えられます。同様に九州では、隠居した黒田如水(官兵衛)が挙兵して、版図を急拡大させています。いずれも大戦の勃発と、その準備を進めていた事が窺い知れます。

しかし結末は意外なものでした。関ヶ原の本戦は1日で終わり、西軍は壊滅してしまったのです。嘉隆は抵抗することなく、鳥羽城を放棄して答志島へ逃亡しました。この時、かつて故郷を追われた日のことが嘉隆の頭に過ぎったでしょうか。しかしあの時とは、嘉隆の決断は違いました。九鬼家の行末を案じた家臣に切腹を促され、嘉隆はそれを受け入れます。

嘉隆は、和具の洞仙庵で自害して果てました。享年は59歳だったと伝わります。

九鬼嘉隆の肖像画(常安寺 蔵)
九鬼嘉隆の肖像画(常安寺 蔵)

おわりに

九鬼嘉隆は、史書によっては、功名心と野心に旺盛で九鬼家を乗っ取り、志摩国を征服した、という書かれ方もしています。海賊大名、という異名にもそれは現れています。

しかし事実は、それとはかけ離れているようです。嘉隆は、幼少の甥を最後まで守り、九鬼家を再興させました。織田、豊臣に従うことで、結果として天下統一に多大な貢献を果たしています。最後は九鬼家を守べく、自ら命を絶ちました。

嘉隆がいたからこそ、伊勢湾から大坂湾までの海上交通は機能し、朝鮮出兵での犠牲が少なく抑えられたと言えます。海賊大名、というより、水軍大名と称するべきなのかも知れません。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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