【麒麟がくる】第39回「本願寺を叩け」レビューと解説

東滋実
 2021/01/06

「麒麟がくる」第三十九回レビュー用

光秀の家族の描写が多かった39話。少しだけ登場した家康と築山殿の夫婦の冷え冷えな関係と対照的でした。あそこの夫婦の描かれ方は「おんな城主 直虎」とは随分違いましたね。

日輪のように光り輝く安土城

冒頭、信長が京を離れてしまったことに苦言を呈し、「帝を疎かにするな」と言うため岐阜くんだりまでやってきた三条西実澄。 天正4(1576)年正月には安土城の築城が始まっていて、このころ築城の名手で知られる光秀も普請の進言をしていて、築城に関わっていることがわかります。

後半の菊丸の言を借りれば、信長は今安土城に夢中。それに本願寺との戦も一向に終わらず、京に留まってはいられないのでしょう。また、信長の気持ちとしては、帝に贈った蘭奢待を今は敵である毛利輝元にやったというのも気に入らないようで。

信長の心はもう帝から離れてしまいました。離れるだけならともかく、安土城を「日輪のように光り輝く城」と表現する信長はとうとう自分が太陽になろうとしている感じすらあります。

京に人を置けばいいんだろうとばかりに「家督を息子に譲る」宣言をした信長。同年中に嫡男・信忠が家督を譲られ、岐阜城主になっています。

本願寺との戦いで倒れる光秀

天正3(1575)年はじめから丹波攻略の準備を進め、同年中に戦を始めた光秀は、天正4(1576)年4月になると今度は本願寺攻めを命じられます。

佐久間信盛とともに天王寺砦を任された光秀は休む間もなく戦のために駆けずり回り、疲労困憊の様子。原田(塙)直政が討死し、全体の士気も下がっています。

そんな中、5月5日に信長が駆け付けます。『信長公記』によれば湯帷子を着ただけの軽装で、ドラマの描写と同じです。作中では忙しいときに冷やかしにやってきた社長、みたいな感じすらありましたが、実際は信長が駆けつけてから巻き返し、勝利しています。

この時足に銃弾が当たったというのも『信長公記』の記述どおりでした。

「気合が足りぬ」とか「坊主の鉄砲など当たらぬ」などと嘯いたそばから自分が撃たれ、藤田伝五にお米様抱っこされてしまった信長。この染谷版の信長だから許されるようなところがありますね。本願寺の軍はただの坊主じゃなく雑賀衆のような鉄砲に秀でた傭兵集団もいるので、丸腰で挑んだらだめです。

疲労か怪我によってか、陣中で倒れた光秀は、『言継卿記』によれば5月12日に病で坂本に帰城したことになっていて、一方光秀友人の吉田兼見(この時は兼右)の『兼見卿記』によれば23日に陣中で発病して帰京し、曲直瀬道三の治療を受けたことになっています。

「麒麟がくる」では後者が採用されたようです。曲直瀬道三は東庵のモデルではないかといわれていますから、あそこで煕子が東庵を頼り彼の治療を受けたのは無理のない流れです。

成長した光秀の娘たちは

光秀の邸で迎えたのは妻の煕子とたまでした。また、知らせを受けて長女の岸もかけつけています。

岸の台詞に「荒木の父」とありました。光秀長女は荒木村重の長男・村次に嫁いでいます。のちに村重が信長に叛き荒木一族が滅ぶと、岸は明智秀満(左馬助)と再婚したという説があります(最初から秀満の妻であったという説もあり)。

以前から岸は左馬助と仲のいいシーンが多いですから、ここも両親同様に仲のいい夫婦になるのだろうと思わせてくれますね。

系図によって光秀の娘の人数はいろいろですが、「麒麟がくる」に登場するのは岸とたまのふたりです。たまは系図によって三女だったり四女だったりバラバラです。

光秀の邸を訪れた信長はたまを見て、嫁ぎ先を世話してやろうと言います。ここで喜ぶフリすらしない光秀、いつもながら強いですね。たまが細川忠興と結婚するのは天正6(1578)年8月のことです。

それにしても今回個人的におもしろかったのは、信長がたまを「十兵衛によく似て器量よしじゃな」と言ったことです。美女説がある煕子に似て、ではなく。信長は十兵衛を器量よしだと思ってるんですね。ちょっと光秀のことが好きすぎるのではないか。

本願寺の叩き方

信長は「本願寺の叩き方がわかった」と言います。本願寺に物資を届けているのは毛利の水軍だから、それを叩けば本願寺への補給が断たれ、崩れる。このあたりの毛利側の描写が詳しいのは小説『村上海賊の娘』ですね。

天正4(1576)年、織田水軍は木津浦で毛利水軍の焙烙火矢に散々にやられ、毛利は本願寺への物資補給路を確保します(第一次木津川口の戦い)。この失敗を受け、信長は志摩の九鬼水軍を率いる九鬼嘉隆(信長家臣として活躍)に「燃えない船」を造らせました。

そうして完成するのが、幅7間(約13m)、長さ12、3間(約23m)もの巨大な鉄甲船です。天正6(1578)年、この鉄でおおった燃えない船で再び毛利水軍に挑み、織田水軍は勝利し、本願寺は物資を断たれることになります。

煕子の死

天正4(1576)年、光秀が病から回復したかと思うと今度は煕子が床に臥し、同年中に亡くなりました。

本能寺の変後の坂本城落城時に亡くなったとする説もありますが、2020年に大津市の聖衆来迎寺所蔵の「仏涅槃図」裏の寄進銘に煕子の戒名があることが発表され、少なくとも寄進の天正9(1581)年前に亡くなっていることが確認され、天正4年死亡説の可能性がぐんと高くなりました。

煕子が何の病気で亡くなったかはよくわかりません。光秀の病が移ったという説もありますし、今回の作中の様子を見ると、悪天候の中お百度参りをしたせいで体を壊したようにも思えます(ところで、朝ドラ「まんぷく」でも長谷川博己さん演じる萬平さんのために義母の鈴さんがお百度参りをするという話がありましたね)。

煕子が実際にお百度参りをしたかどうかはわかりませんが、光秀のために吉田兼見に病平癒の祈祷を頼んだという記録があります。また同様に、煕子が病に臥せると、今度は光秀が兼見に病平癒の祈祷を依頼するという記録も。

父に比べて宴会芸が得意でないらしい左馬助が企画した「鬼やらい(追儺)」。これは中国から伝わった厄払いの行事で、現在も節分の豆まきとして残っています。先ほど触れた吉田兼見が神主だった吉田神社の節分大祭は今でも大きな行事で、昔からの追儺式(鬼やらい)の姿を伝えています。

光秀こそ麒麟を連れてくる人だと信じた煕子が亡くなりました。最期のシーンの花びら演出は、初登場時の花びらと重なりました。

松永久秀ふたたび離反へ

さて、次回は松永久秀の最期が描かれます。今回の天王寺砦の騒動で大分信長に嫌気がさしてそうでしたし、大和守護の件はちょうどいい離反のきっかけだったのかも。

久秀は逸話どおりに爆死するのでしょうか。創作とわかっていても、あの吉田鋼太郎さんの久秀には華々しくド派手に爆死してほしいという思いもありますね。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)
  • 京都新聞 光秀の妻、亡くなった年判明?…

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...


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