「どうする家康」三方ヶ原合戦への道!武田信玄は徳川家康の領国になぜ攻め込んだのか?

三方ヶ原の戦いを描いた錦絵。画像左上の人物が徳川家康。(歌川芳虎 画、出所:wikipedia)
三方ヶ原の戦いを描いた錦絵。画像左上の人物が徳川家康。(歌川芳虎 画、出所:wikipedia)

 大河ドラマ「どうする家康」第17話は「三方ヶ原合戦」。元亀3年(1572)10月3日、甲斐国の武田信玄は、徳川家康が領する遠江国に向けて出陣します。信玄が徳川領に侵攻できたのは、それ以前に、敵対していた小田原の後北条氏と和解し、同盟を結んでいたことも大きいでしょう。では、なぜ、信玄は家康を攻めたのか?

 奥三河の豪族・奥平定勝に信玄が宛てた書状(10月21日付)によると「浜松に向かい出馬し、三ヵ年の鬱憤を散らすべく候」とあります。つまり、家康に対するここ3年ばかりの、溜まりに溜まった鬱憤を晴らすために、 信玄は家康領に侵攻したというのです。信玄が言う家康への「鬱憤」とは何を指すのでしょう。

 これは研究者によって意見が分かれています。元亀元年(1570)10月、家康が、信玄の宿敵である越後の上杉謙信と同盟を結んだことを指すのだという人。「いやいや、元亀元年(1570)だったら、元亀3年(1572)から見たら2年前ではないか。3ヶ年という信玄の主張と合わなくなる。3年前の永禄12年(1569)、家康が今川氏真と和睦し、北条氏とも手を打って、氏真を落ち延びさせたことを、信玄は怒ってそう言ったのではないか」とする研究者もいます(本多隆成『定本 徳川家康』吉川弘文館、2010年)。

 私は、信玄が言う「3ヶ年」は「3年前の特定の出来事」という意味ではないと推測しています。「ここ3年間の出来事」という意味であると感じているのです。ですので、永禄12年に家康が氏真と和睦したことも「3ヶ年の鬱憤」に含まれているでしょうし、家康が上杉謙信と結んだことも「鬱憤」の中に含まれていると思います。

 想像を逞しくすれば、武田の別働隊を遠江に侵攻させた際、家康が信玄に抗議、別働隊を駿府に撤退させるに至ったこと(1569年)も、信玄は内心、苦々しく感じていた可能性もあります。3年間の積もった鬱憤を晴らすべく、信玄は家康領に侵攻、11月末には遠江国の二俣城(静岡県浜松市)を攻略します。そして、12月22日には、家康の居城・浜松城方面に向かい南下。

 そのまま城を攻めるのかと思いきや、武田軍は突如、軍勢を西進させます。三方ヶ原から三河国へ向かう姿勢を示したのです。家康は浜松城から出て、約1万の軍勢(織田信長からの援軍は3千)でもって、武田軍2万5千に戦いを挑みます。三方ヶ原(静岡県浜松市北区)の戦いの勃発です。夕方から戦いは始まり、2時間ほどで戦の決着は付いたとされます。結果は、徳川方の敗北。家康は命からがら城に逃げ帰ります。その生涯の中で、類例のないような負け戦を家康は体験したのでした。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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