「どうする家康」徳川の歴史書『徳川実紀』が描く徳川家康と武田信玄の攻防

 大河ドラマ「どうする家康」第16話は「信玄を怒らせるな」です。甲斐国の武田信玄の攻勢に徳川家康が苦慮するも、最終的には家康は信玄と戦うことを決意するとの様が描かれていました。

 信玄の第1次駿河侵攻(1568年)の際、武田の別働隊である秋山虎繁らの軍勢が遠江国にまで侵攻してきたことに家康は不快感を示し、信玄に抗議しています。信玄は家康の抗議を受け入れ、秋山の軍勢を駿府に退却させています。しかし『徳川実紀』(江戸幕府が編纂した徳川家の歴史書)には、元亀2年(1571)、信玄が再び、家康に攻勢をかけてきたことが記されています。

 家康は武田に備えるということで、信玄の宿敵・越後の上杉謙信と同盟(1570年10月)を結んだのですが、そのことを聞いた信玄が「徳川氏を除こう」として動き始めたというのです。徳川と武田の間にはかつて「天龍川を境として、国分をしよう」(『徳川実紀』)との取り決めがあったのですが、今回、信玄は「天龍川を境にした国分をしようと約していたのに、その誓いを破り(家康は)大井川まで出張してきた。さては同盟を変じ、敵対しようということか」(前掲書)と使者を送り、家康を難詰。

 家康はそれに対し「私は約束を守って、大井川の辺りまで手を出したことはない。入道(信玄)こそ、以前、秋山や山縣の軍勢をもって、私を攻撃してきたではないか。今また、誓いを破り、私を咎めようとしている」と主張して、大層怒ったとのこと。そして、これが契機となって、武田と長く断交することになったと『実紀』は記すのです。『実紀』は信玄のことを「あくまで腹黒」「詐謀姦智の振る舞いのみ多い」とボロクソに書く一方で「軍法においては、越後の上杉謙信と並び、右に出る者はいない」と称賛しています。「腹黒」「詐謀姦智の振る舞いのみ多い」も戦国の世にあっては、褒め言葉と感じるのは、私だけではないでしょう。

 ちなみに、元亀2年(1571)3月から5月にかけて、信玄は遠江や三河に侵攻し、例えば東三河の城(足助城や野田城)を陥落させたと言われてきましたが、近年では、同年の信玄による両国への侵攻はなかったという見解が有力です。しかし、駿河国を着々と制圧していく信玄に家康は不気味なものは感じていたでしょう。

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  この記事を書いた人
濱田浩一郎 さん
はまだ・こういちろう。歴史学者、作家、評論家。1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。 著書『播 ...

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