「陶晴賢(隆房)」主家・大内氏をクーデターで乗っ取り、毛利元就に敗れる
- 2019/11/14
陶晴賢(すえ はるかた)は大内義隆の家臣として仕えましたが、大内家中での文治派との対立、そして公家趣味に傾倒する主君・義隆への不満からクーデターを起こし、大内氏を乗っ取ります。しかしそれも長くは続かず、最期は大内の元家臣・毛利元就との厳島の戦いにまさかの敗戦で自害…。今回はそんな晴賢の生涯にフォーカスしてみます。
陶晴賢の出自
陶氏は主君・大内氏の傍流であり、代々重臣として仕えました。陶晴賢は、陶興房の次男として大永元年(1521)に生まれています。ちなみに「晴賢」の名でよく知られていますが、こう名乗り始めたのは謀反を起こした後のこと。初名は「隆房」といい、この名で過ごした時期のほうが長いくらいでした。
容姿端麗だった少年時代、義隆の寵童に
少年時代の隆房はとても美しく、大内義隆に寵愛されたといいます。といっても実のところ、隆房が美少年だったという記録は残っていないようなのですが、隆房の兄・興昌(義清)は美少年として知られたそうです。兄が美しいならその弟もおそらく容姿端麗だったのでしょう。隆房は学問や文化的教養はなかったものの、義隆にとても可愛がられたようです。少年時代は芸事の嗜みがなかったのに文化人・義隆に愛されたのならば、それはもう好みの少年だったから、といえるのかもしれません。
ふたりの関係については軍記物語『大内義隆記』に複数のエピソードがあります。軍記物語なのですべてが事実とは思えませんが……。
一説によれば、隆房の兄の興昌は義隆の父・義興に寵愛されたものの、武将としてではなく男色関係で寵愛を受けることを嫌ったため父の興房に殺されてしまった、といわれます。
実際にそれが理由で若死にしたのか、合戦で命を落としたのかははっきりしませんが、兄の主張とは正反対をいって寵愛を得た隆房は、一方で武将としても優秀なはたらきを見せるようになります。
尼子氏との二度の戦い
若くして兄が亡くなり、次男の隆房が父亡き後の周防守護代・陶家を継ぐことになりました。家督相続は天文8年(1539)、父が病没した年で、このときの隆房は19歳でした。吉田郡山城の戦いで勝利
家督相続した翌年の天文9年(1540)、隆房は20歳の若さでしたが、出雲の尼子晴久が毛利元就の居城・吉田郡山城を攻めた際に援軍を任され、翌年に尼子軍を撃退して勝利をおさめました。第一次月山富田城攻めで敗れる
吉田郡山城の戦いのあと、尼子家中の国人領主の中から大内へつく者が続出しました。晴久が勢いを失っているこの隙に尼子を討伐しようと、天文11年(1542)、大内義隆は出雲遠征して尼子の居城・月山富田城を攻めます。ところが、難攻不落の山城といわれる月山富田城はなかなか落とすことができませんでした。「急がずに態勢を整えてから攻めるべき」と主張する毛利元就に対し、隆房や田子兵庫は「力攻めで一気に攻めるのがよい」と主張します。結果、義隆は隆房の案を採用して失敗。大内軍は命からがら敗走することになり、多数の死傷者を出しました。
この敗走時に殿(しんがり)を務めた毛利元就の家臣・渡辺通は主君の身代わりとなって命を落とし、そして義隆がかわいがっていた嫡男・晴持も船の転覆で戦死してしまいました。
文治派との対立と主君への不満
武断派の重臣である隆房はこれまで義隆に重用されていましたが、尼子に敗北したことをきっかけに状況は大きく変わっていきます。主君・義隆は、養子(姉の子にあたる)に迎えて嫡男として育てた晴持を亡くした悲しみで一気に軍事面への興味を失ってしまうのです。
文治派・相良武任との対立
もともと公家趣味を好む文化人であった義隆は、この後は文治派の相良武任(さがらたけとう)を重用するようになりました。それと反比例するように、武断派の筆頭である隆房は遠ざけられ、不遇の時を過ごすことになります。とにかく相良武任と激しく対立した隆房。天文14年(1545)に武任を失脚させることに成功しますが、義隆は出家した武任を天文17年(1548)に呼び戻して再出仕することに。
武任の存在がどうしても気に入らない隆房は暗殺を計画しますが、義隆の知るところとなって失敗に終わります。義隆に詰問され、立場を弱めることになってしまったのです。
隆房は文武に秀でた武将だったといいますが、もともと少年時代は文事の嗜みがなかったといいますし、能力は武事に傾いていて、コンプレックスもあったのでしょうか。武任とことさら対立したのは、そういう理由もあったかもしれません。
義隆は軍事への興味を失い、公家と遊び耽る
隆房は武任が気に入らず、疎外された挙句所領を減らされそうになって義隆に不満を抱いたことは事実でしょうが、謀叛を起こした理由はそれでだけではないでしょう。第一次月山富田城の戦いのあと、文治派を重用して軍事面への興味を失った義隆は、山口に滞在する公家たちと遊ぶばかり。応仁の乱で荒れた京都を離れて山口で過ごす公家たちが遊び暮らすお金は、大内の領民が負担するのです。
公家趣味に没頭する義隆に、これ以上領国を任せておけないと不安に思ったことも、謀叛を決意した理由のひとつでしょう。
義隆への謀反
そして天文20年(1551)8月28日、ついに謀反のとき。隆房は挙兵し、主君・義隆を自害に追い込みました(大寧寺の変)。当初の計画では義隆を生かして隠居させ、実子の義尊を当主に立てるという案もありましたが、反乱に加わった大内家臣の評定の中で「親子を殺さないかぎり乱は収まらないだろう」という結論に至ったようです。
義隆は挙兵を知ってなお、家臣の杉重矩や内藤興盛の忠義を信じて隆房を抑えてくれると考えますが、隆房とともに謀反を企てた彼らが助けに来るはずもありません。義隆は公家の冷泉隆豊らとともに逃れますが、9月1日、大寧寺で自刃しました。山口に滞在していた公家たちもことごとく斬殺されたといわれています。
大内義長を当主に立て、自らは「晴賢」と改名
空いた大内当主の座に据えたのが、義隆の養子の大友晴英(はるひで)です。晴英は大友義鎮(よししげ/のちの宗麟)の弟でしたが、大内義隆が後継者として育てた晴持が亡くなった際に大内家の猶子となった経緯があります。のちに義隆の実子・義尊が生まれたため、猶子ではなくなっていましたが、隆房によって飾りの当主に立てられたのです。
このとき、義隆の偏名を受けて賜った「隆房」の名を捨て、晴英の「晴」の字を賜って「晴賢」と名乗るようになりました。晴英もすぐに「義長」と改名しています。
毛利元就との戦いに敗れて戦死
吉見正頼討伐に元就は従わず
大内を乗っ取った晴賢は、義隆と縁のある石見三本松城主の吉見正頼と対立します。正頼の正室は義隆の姉であり、ふたりは義兄弟の関係でした。吉見家相続の際も義隆の力を借りており、恩を感じていたのです。天文22年(1553)に正頼が挙兵すると、その討伐のため晴賢も挙兵します。晴賢自身も翌年出兵しますが、かなりの苦戦を強いられました。吉見討伐には毛利元就らにも出陣を要請していたのですが、元就はこれにすぐ応じることなく、結果出陣しませんでした。
この間、毛利家中では出陣すべきか否かという評議がなされていたのですが、元就の子らの判断により出陣すべきではないという結論に至ります。晴賢が吉見討伐に苦戦している間に毛利家中では大内から離れる方向で話がまとまり、晴賢が山陰にいる間、ものすごい勢いで安芸を支配していきました。
厳島の戦いに敗れて自刃
元就はあっという間に銀山城を落とし、己斐城、草津城、桜尾城を手中に収めます。厳島の戦いの前哨戦といわれる折敷畑の戦いで晴賢の家臣・宮川房長を討ち、晴賢の右腕で名将の江良房栄を謀略によって死に追いやってしまいました。晴賢は当初江良が毛利と内通しているなどと信じませんでしたが、元就の巧妙な調略にまんまと騙され、有能な家臣を殺してしまったのです。
また、決戦の地が厳島になったのも、晴賢がまんまと誘い込まれたからでした。元就は「厳島の築城を落とされたらもう終わりだ……」という情報を流し、晴賢の軍を自分に有利な地へ呼び込んだのです。
こうして、弘治元年(1555)10月1日、大内軍は毛利軍に敗れ、晴賢はわずかな兵を連れて逃れようとしたものの、もはや毛利軍が包囲する海から逃亡することはできず、自刃して果てました。享年は35歳。
戦国時代は武将が下剋上でのし上がった時代でもありましたが、のちの明智光秀然り、主君をクーデターで死に追いやってうまくいくことばかりではありません。
【参考文献】
- 『国史大辞典』(吉川弘文館)
- 米原正義編『大内義隆のすべて』(新人物往来社、1988年)
- 桑田忠親『毛利元就のすべてがわかる本』(三笠書房、1996年)
- 妹尾豊三郎・島根県広瀬町観光協会『尼子氏関連武将辞典』(ハーベスト出版、2017年)
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