「大内義長」傀儡として擁立された名門・周防大内氏最後の当主

東滋実
 2021/05/17

大内義長のイラスト

大内義隆の代に最盛期を築いた周防国の大内氏。しかし、その義隆は文化に傾倒し、重臣・陶隆房(晴賢。※便宜上以降の表記は晴賢で統一)ら武断派の不信・不満を招き、クーデターによって討たれました。

そして新たに大内家の当主の座に据えられたのが、キリシタン大名の大友宗麟の実弟として知られる大内義長(おおうち よしなが)です。しかし、彼を最後に大内氏は事実上滅亡することになります。

豊後大友氏から周防大内氏へ

大友義鑑の子として生まれる

大内義長は、豊後大友氏の当主・大友義鑑(よしあき)の次男として誕生しました。幼名は八郎、初名は晴英といいました。

生年ははっきりとわかっていませんが、天文9(1540)年とされています。兄には、キリシタン大名として知られる大友義鎮(宗麟)がいます。

大内義隆の後継者の死と実子誕生に振り回される

大内氏の当主・大内義隆は天文11(1542)年から翌年にかけ、山陰の尼子晴久攻めのために出雲に遠征。尼子氏の居城・月山富田城を攻めますが、失敗に終わりました。

おそらくこの戦に敗れたことよりも義隆を苦しめたのが、寵愛していた養嗣子・晴持の死でしょう。義隆は正室に跡継ぎとなる男子が生まれなかったため、晴持(義隆の姉の子とされる)を養嗣子として迎え、可愛がっていたのです。

ところが、天文12(1543)年、第一次月山富田城の戦いの撤退中に、晴持は船の転覆により溺死してしまいます。まだ20歳の若さでした。

そして次に後継者として白羽の矢が立ったのが、義長でした。というのも、義長の母は大内義隆の姉なのです。

『大内義隆記』によると、天文12(1543)年中には義隆と養子の契約を交わしていたようです。

ただ、この養子契約は「養嗣子」としてではなく、あくまでも「猶子」であり、今後も義隆に実子が生まれなかった場合に継嗣とする、というものだったようです。

そのため、天文14(1545)年に義隆の継室・おさいの方が男子(のちの義尊)を生むと、義隆は義長を斥けてこちらの実子を嫡子としたのです。

大内氏の当主となる

しかし、転機が訪れます。義隆の重臣・陶隆房の謀反計画に際して、晴賢は義隆・義尊親子を討った暁には、義長を大内氏の当主に迎えるとしたのです。

義長の兄の義鎮は当初反対したようですが、義長自身が宇佐神に謀反の実現を願うほど望んでいたため、同意しました。

こうして、計画どおり大寧時の変で義隆父子が討たれると、大内氏の当主となりました。

天文21(1552)年3月3日に山口入りした義長。防府多々良浜に着船して3月3日に屋形入りを行いましたが、これは大内氏の祖先である百済の琳聖太子が上陸した故事に沿うもので、義長が正当な当主であることを示すために行われたものと考えられます。

陶晴賢は、代々主家の当主の一字を拝領する慣習から、このとき晴英の偏諱を受け隆房から改名しました。また、翌天文22(1553)年には、義長も時の将軍・足利義輝(この時は義藤)の偏諱を受けて初名の晴英から義長へ改名しています。

同年閏正月27日には従五位下・左京大夫に任ぜられ、これで正式に大内氏の家督を相続したことを内外に強く示しました。

義長自身、当主として充行状・裁許状といった文書を多く発給するなどしていましたが、実権は晴賢が握っていました。そのため、大内氏当主とはいえ義長は傀儡であったと見られています。

陶晴賢の死後、転落する大内氏

義長を当主に据え、晴賢が弱体化した大内氏内部の強化を図ってうまくやっていくかに見えましたが、長くは続きませんでした。

まず、義隆の重臣のひとりであった石見の一本松城主の吉見正頼が晴賢に反いて挙兵。続いて、晴賢の謀反計画には賛同し、ともに尼子攻めを行っていた安芸の毛利氏までが離反してしまったのです。

毛利氏離反の背景には、元就の希望する領地を晴賢が直轄としたこと、晴賢家臣の江良房栄が毛利氏を牽制したことなどがあるようです。

天文23(1554)年、ついに毛利氏が吉見正頼支持にまわったことで、晴賢と毛利氏の対立は決定的なものとなりました。

晴賢は折敷畑の戦いで元就に大敗し、続く天文24(1555)年9月の厳島の戦いも2万の大軍で挑んだにもかかわらず、わずか4000余りの奇襲に敗れ、自刃に追い込まれました。

晴賢を失った義長は、所詮他家から来たよそ者に過ぎず、家中の求心力はありませんでした。ましてクーデターから間もない混乱の中では、まだ年若い義長がまとめ上げることなどできようはずもありません。ここから大内氏の転落が始まりました。

義長の最期

義長は実兄の大友義鎮に助けを求めたようですが、義鎮は毛利氏のほうに協力していました。義鎮は、毛利氏の大内攻めに手を出さない代わりに、豊・筑地方は義鎮の好きにしていいという密約を結んでいたようです。義長は兄に見殺しにされたのです。

晴賢死後もなんとか毛利勢の侵攻に抵抗していた大内氏でしたが、義長は居を転々とし、とうとう弘治3(1557)年3月12日、山口の高嶺城(現在の山口市)を放棄して、重臣の長門守護代・内藤隆世とともに長門の勝(且)山城(現在の下関市)まで退去しました。

毛利側は4月2日に使者を派遣し、内藤隆世の死を条件に義長を助命するとし、隆世は同日中に自刃しました。ところが、義長はその翌日、長門長福寺(現在の功山寺)で家臣の介錯により自刃してしまったのです。

「さそふとて何か恨みん時来ては嵐の外に花もこそ散れ」という辞世の句が伝えられています。

「人に誘われてこうして死に追いやられるとしても、何を恨むことがあろうか。時が来れば、嵐が来なくても花は散ってしまうものなのに」。

辞世の句で自らを散る花にたとえるものは蒲生氏郷の「限りあれば吹かねど花は散るものを心みじかき春の山風」などがありますが、「どうせいつか散るのに、せっかちな春の山風だ」と短い命を無念に思う氏郷に対して、「いつかどうせ死ぬのだから、ここで殺されても恨みはない」という義長。

生年が天文9(1540)年であったとすれば、まだわずか18歳ですが、何がここまでの無常観を抱かせたのでしょうか。人(晴賢)に導かれて大内氏の当主になったといっても、それは義長自身が望んだことでもあったので、よそに恨みをぶつけることはできなかったのかもしれません。

こうして、義長の死をもって名門・周防大内氏は滅亡しました。


【主な参考文献】
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 『日本人名大辞典』(講談社)
  • 米原正義編『大内義隆のすべて』(新人物往来社、1988年)

  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター ...


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