大谷吉継ってどんな人? 名言や逸話からその人物像に迫る

 関ヶ原の戦いを描く作品は近年、西軍側を描く作品も増えてきました。2023年NHK大河『どうする家康』でも1つのクライマックスになるであろう関ヶ原の戦いで、西軍の主力となったのが大谷吉継です。多勢ではなかったものの、小早川秀秋の軍勢などと奮戦しながら石田三成を支えたため、人気の高い武将の1人と言えます。今回はそんな大谷吉継の名言や逸話について紹介していきたいと思います。

秀吉との縁から秀吉に仕えた大谷吉継

 大谷吉継は永禄8年(1565)に生まれました。永禄2年(1559)説もありますが、近年では8年説が有力です。母親は東殿で、秀吉の母である大政所の血縁か、ねね(秀吉の正室。のちの北政所)の親族とされています。東殿は北政所の侍女を務め、一部の貴族との取次もしていました。父親は諸説ありますが、ここでは割愛します。

 天正11年(1583)ごろから秀吉の遣いとして吉継の活動が確認されています。その後、九州征伐などで活動が見られ、小田原出陣や奥州仕置でも各地の大名との折衝に活躍していました。天正17年(1589)に越前敦賀2万石を与えられ、城主となっています。朝鮮出兵ではほとんどの期間、日本で物資の補給や各地の部隊との連絡担当として活躍をしています。

秀吉との親しさ

 吉継は上司である秀吉とかなり良好な関係だったことがわかっています。天正11年(1583)に出された吉継の最初の手紙で、吉継はこう書いています。

「ご報告書は秀吉に見せました。秀吉は丁寧にお返事を書いておりました」『吉村文書』


 文体は全て敬語ながら、上司の秀吉のみ敬称が入っていません。この時の敵である織田信孝にも「殿」をつけていることから、秀吉との関係がかなり親しかったことを感じさせるものになります。

千人切りの正体は吉継?

 天正14年(1586)にある噂が流れています。それは大谷吉継の病気に関係し、当時発生した市中の人切り事件に絡めたものでした。

「大谷吉継という小姓衆が、悪瘡に罹って、千人殺してその血を舐めて治すため人切りを行っているという噂が流れている」『宇野主水日記』


 この頃には大谷吉継が病気にかかっていたことがわかります。これはあくまで噂で、吉継にとっては迷惑なものでしたが、当時の吉継の立場が難しくなっている部分を感じるものになっています。

「説得王」吉継

 文禄2年(1593)、朝鮮出兵の最中、小西行長が明の攻撃で平壌から開城まで撤退しました。この際、行長は明の大軍と戦うのは難しいと考えてさらに漢城まで撤退することを小早川隆景や黒田長政に提案しました。しかし、両名は一戦もせずに撤退するのは”武門の恥”として開城で戦おうとしました。そこで小西行長は大谷吉継の「説得力」を借りることにしました。

「隆景の仰せはごもっともですが、聞いたところ明軍の猛勢はただならぬ様子です。開城で合戦し敗れれば日本軍の敗退に繋がるように思います。ここで全力を尽くすのではなく、漢城に撤収して諸将を率いて戦うことを考えていただきたい」『毛利秀元記』


 この吉継の説得を受けて黒田長政や小早川隆景は漢城に撤退しました。吉継の言葉が多くの人物に影響を与えるだけの説得力があったことがわかりますね。

病と闘う日々

 吉継は文禄2年(1593)の明との講和の席でも尽力しています。しかしその後、体調が悪化する場面が多くなっており、慶長3年(1598)年に秀吉の子である豊臣秀頼の中納言叙任祝いには病をおして参列したことがわかっています。後に言われる五奉行に吉継が任命されなかったのは、この病の影響があったと考えられています。慶長2年(1597)には秀吉と家康が伏見の吉継邸を訪れており、養子である大学助へ事実上の当主交代の饗宴が行われています。

湯治で『西軍』と縁を深くした

 文禄3年(1594)に吉継は草津温泉で湯治をしています。この頃は激務の連続で体調が悪化していたと思われ、その影響から草津温泉で療養していたようです。この年、真田信繫と吉継の娘が婚姻を結んでいます。湯治とともに真田領での婚儀に出席していたのでしょう。他にも湯治中に上杉家家老の直江兼続と何度か手紙のやり取りをしています。

「(草津での)湯治は大変心地よく、効果も期待できそうです」(文禄3年直江兼続への書状)


 関ケ原の戦いで西軍の遠方にいた大名との連絡役を吉継が務めていたのは、この時の縁があったためと言えるでしょう。

三成との絆は本当は秀吉との話?

 石田三成と大谷吉継の間で最も有名な逸話が茶の話でしょう。通説では天正15年(1587)の茶会だとされています。吉継が秀吉が点てた茶に膿(または鼻水)を垂らしてしまい、誰も茶を飲まなくなったところ、三成がそれを飲み干して吉継を感激させたというものです。

 ただし、この逸話は史料上では確認されていません。さらに、明治44年(1911)に発行された『英雄論』では、茶を飲んだのが秀吉であると紹介されています。

「鼻水がたれてお椀に落ちてしまった。吉継は飲み干して、その跡を隠そうとした」
「太閤は一瞥して『吉継、その碗は良い物だから私が改めて茶を点ててから他の者に使ってもらえ』と言い、また茶を点てて自分が飲み干して碗を返したという」
「吉継は感激した」『英雄論』


 この逸話がおそらく現在知られる三成の逸話における原典と推測されます。いつのまにか三成との逸話になっているところが伝言ゲームのようで不思議な話と言えます。

関ケ原の戦い

 秀吉の死後、家康が五大老として活躍する中、吉継は療養を続けており、後を継いだ大学助は家康の命で石田三成とともに出兵や事務を行っていたことが確認されています。しかし石田三成は家康と対立し、慶長5年(1600)に関ケ原の戦いで直接対決することになりました。吉継は三成の味方となって西軍につき、関ケ原の戦いで最期は自刃して亡くなりました。

三成を説得しようとした吉継

 関ヶ原の戦いの発端となった上杉征伐に、大谷吉継は参加する予定でした。吉継は三成の失脚前後に復職したようで、敦賀から兵を率いて佐和山に立ち寄りました。その佐和山で三成の挙兵計画を聞いたとされています。しかし吉継はこれに反対。上杉への出兵についても、三成の息子とともに上杉と家康の和睦仲介を自分がしようと考えていた吉継は、とにかく無謀だと説得しようとしています。

「今また事を起こせば、去年の者たちが積年の恨みを晴らそうと皆敵になる」『慶長見聞書』


 ここでいう去年の者たちとは秀吉死後に三成を襲撃した福島正則や加藤清正です。事実、彼らは関ケ原の戦いで家康に味方したり、自領で家康支持を鮮明にしていました。結果的に説得できずに三成の味方となった吉継ですが、彼の懸念はその通りになったと言えます。

真田などの血縁との橋渡しとなった吉継

 吉継は三成の説得を諦めると、西軍としてできる限りのことをしようと動きました。血縁やかつて世話をした大名との連絡を頻繁にとり、西軍の味方を増やすべく奔走しています。九州にいた松井康之らにも手紙を送っており、少しでも勝利の可能性を作ろうとしていたのがわかります。

 また、真田や上杉へ京・大坂の情勢を伝える連絡役も担っていました。多くの手紙が吉継の名前で各地に出されており、その影響力の大きさが伺えます。

酔い潰れた吉継

 関ケ原での決戦前に、吉継は京にやってきた島津氏を迎えて酒宴をしています。この時吉継は酔い潰れるまでお酒を飲んでおり、後日、島津義弘に謝罪しています。どうやらかなりストレスが溜まっていたらしく、なんとか西軍を勝たせるべく、心労が溜まっていたことが伺える逸話になっています。
 

小早川秀秋の裏切りを予想していた?

 関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の裏切りを予想していたとされる大谷吉継。そもそも小早川秀秋の入った松尾山は、もともと伊藤盛正という武将が布陣していました。しかし、関ケ原の戦い前日に小早川軍が無理やり山を占領し、伊藤盛正を追いだしたと伝わっています。

 松尾山には本来入る予定のなかった小早川秀秋の行動に、石田三成らが慌てて関ケ原に出陣したと記されています。『慶長年中記』には「筑前中納言(小早川秀秋)が謀反という噂がある」と記されています。黒田長政の家臣である恵良盛重・南畝源次郎という2人が秀秋には同行しており、ほぼ裏切りは確定的だったようです。

「彼(家康)は敵と戦闘を開始したが、始まったと思う間もなく、これまで奉行たちの味方と考えられていた何人かが内府様(家康)の軍勢の方へ移っていった。彼らの中には、太閤様の奥方の甥であり、太閤様から筑前の国をもらっていた中納言(小早川秀秋)がいた」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』


 この結果、吉継は合戦の早い段階から小早川軍と戦い、その後、朽木元網や赤座吉家らの裏切りで軍勢が壊滅したのが史実における吉継の最期と言えるでしょう。

まとめ

 いくつかの逸話には脚色などが見られるものの、豊臣政権では五奉行に負けない能力を発揮していた大谷吉継。病がなければ彼も五奉行と並び称されたでしょう。石田三成との逸話は真偽不明ですが、三成の挙兵にたとえ負け濃厚でも付き合ってともに死んだのは間違いありません。私たちがイメージする大谷吉継像と実際の吉継とは、あまり変わらないのではないでしょうか。


【主な参考文献】
  • 外岡慎一郎『大谷吉継』(2016年、戎光祥出版)
  • 河内将芳『落日の豊臣政権』(2016年、吉川弘文館)
  • 白峰旬「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」『史学論叢』(2015年、別府大学史学研究会)
  • 外岡慎一郎『「関ケ原」を読む 戦国武将の手紙』(2018年、同成社)
  • 福本日南『英雄論』(1911年、東亜堂)
  • Engelbert Jorissen『十六・七世紀イエズス会日本報告集』(1996年、同朋舎出版)

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  この記事を書いた人
つまみライチ さん
大学では日本史学を専攻。中世史(特に鎌倉末期から室町時代末期)で卒業論文を執筆。 その後教員をしながら技術史(近代~戦後医学史、産業革命史、世界大戦期までの兵器史、戦後コンピューター開発史、戦後日本の品種改良史)を調査し、創作活動などで生かしています。

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