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  • 豊臣秀吉
 2017/11/16

「大谷吉継」三成との友情を重んじ、裏切りによって命を落とした仁将

大谷吉継の肖像画
大谷吉継の肖像画

大谷吉継、また大谷刑部という通称でも知られているこの武将は、病に苦しむも石田三成との友情を重んじて関ケ原で西軍に味方し、最期は裏切りによって命を落としたことでよく知られています。

友情を重んじ、さらに病に苦しめられたということもあって知名度も高く、彼が頭にかぶっていた白頭巾を見たことがあるという方も多いかもしれません。しかし、関ケ原以前の彼についてはあまり語られることがなく、三成との友情ばかりがクローズアップされがちです。

この記事では、吉継の知られざる実像を解説していきます。
(文=とーじん)

出自や秀吉に仕え始めた時期はかなりあいまい

永禄2(1559)年、吉継はこの世に生を受けたとされます。しかし、この生年は永禄8(1565)年であるという説もあり、そもそも生まれからしてハッキリしたところがわかっていないのが実情です。

さらに父についても大きく分けて二通りの説があり、一つは大友宗麟の家臣である大谷盛治という人物の息子という説、もう一つは六角義賢の旧臣である大谷吉房という説です。この父に共通する点は「大谷の姓」のみであり、仮に盛治の子であれば豊後国出身ということになり、吉房の子であれば近江国出身ということになります。

これだけ出自があいまいであるということは、必然的に幼少期の活動をほとんど確認することができないということを意味します。そのため、吉継がどのような環境で成長し、そして戦場へ赴くようになったかは、想像の中で補うほかないのです。

吉継の名が歴史上に現れるのは、天正のはじめごろに秀吉に仕え、小姓として列せられるようになってからのこと。これも具体的にいつから、なぜ仕えるようになったかは不明ですが、恐らく父を含む大谷一族が没落してしまったためではないかと考えています。

いずれにしても小姓として仕えるようになった吉継は、以後秀吉子飼いの武将として活躍を見せることになります。

戦いよりも後方支援に力を発揮した政治家タイプだった

単なる小姓に過ぎなかった吉継が飛躍のキッカケをつかんだのは、天正11(1583)年の賤ケ岳の戦いにおける活躍です。秀吉が柴田勝家を破って信長の後継者争いを大きくリードすることになったこの戦において、吉継は「賤ケ岳の七本槍」に次ぐ戦功を挙げました。

この活躍によって秀吉に認められ、さらに彼自身も事実上の天下人として栄達を極めていったことから、必然的に吉継の地位も向上していきます。天正13(1585)年には彼の通称としてよく知られる「刑部小輔」に叙任され、秀吉家臣としての地位を保証されました。

天正14(1586)年の九州攻めに関しては、戦だけでなく後方支援を得意とした彼らしい能力を存分に発揮。石田三成とともに兵站奉行を務め、遠く離れた九州の地における軍事行動を首尾よく支援しました。

こうした働きが評価されて、吉継は天正17(1589)年に越前国敦賀城主に任命され、5万石の領地を手にしています。ここに彼は「大名」となり、豊臣政権の運営に欠かせない存在と位置付けられました。

大名となった翌年には小田原攻め・奥州仕置に従軍。ここでも戦功を挙げたのち、出羽地方の検地を担当しました。いわゆる「太閤検地」の一環として実施されたこの検地は土着勢力の怒りを買い一揆に発展してしまうものの、最終的には周辺大名と共同でこれを鎮圧しています。

さらに、文禄元(1592)年より始まった朝鮮出兵に関しては、開戦前の準備からこれに携わりました。まず、三成とともに船奉行として渡海用の船舶を調達すると、続いて朝鮮に赴く奉行衆の一員として任命されます。

彼は三成や増田長盛とともに朝鮮の地における敵や諸大名の動きをつぶさに秀吉のもとへ届けるという仕事を担当しており、言わば「現地責任者」の一人であったといえるでしょう。

また、明国との和平交渉も担当し、最終的に交渉は決裂するものの秀吉方の使者として和平の成立に向けて様々な動きを見せていました。

やがて秀吉が死に、朝鮮出兵が終息すると吉継は徳川家康に急接近していきます。彼は秀吉の子飼い武将ながら家康の暗殺騒動に関しては家康警護を担当し、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いに関しても、前哨戦である会津征伐には東軍の一員として参加を表明。このまま推移すれば、吉継は間違いなく東軍所属のまま関ケ原本戦を迎えるハズでした。

しかし、皆さんご存知のように歴史はそうなりません。吉継は西軍の一員として関ケ原に参戦し、家康と敵対することになるのです。

では、この短い期間にどのような心変わりがあったのか。その点を見ていきましょう。

石田三成との深い友情から、西軍に味方した

吉継が西軍に味方した理由を探るためには、話を関ケ原から少しさかのぼる必要があります。ここまで吉継の活躍を見てきた中で、ある人物の名が何度も出てきたことにお気づきでしょう。

その人物とは「石田三成」で、彼と吉継は何度も共同で仕事をしています。加えて二人には共通点が多く、一説には「肉体関係」さえも囁かれるほど親密な中であったようです。

有名な逸話として、後述するように病気を患っていた吉継の参加した茶会で、参加者たちで茶を飲みまわす催しが開催された際の出来事をご紹介しましょう。病身の吉継が口をつけた茶は、参加者一同に「病気がうつる」と恐れられ、皆が飲むふりだけをして次の人物に回したといいます。しかし、三成だけは普段と変わりなく茶を飲み、その後も気軽に話しかけてきたそうです。

これは有力な史料で確認できないため後世の創作であるという見方が強いですが、二人の活動遍歴や関ケ原に際しての行動を見ていくと、これくらいのことならやっても不思議ではないと感じさせられる説得力があります。

しかし、上記のように固い友情を育んでいた両者ですが、秀吉の死後は別の陣営に属することとなります。三成は西軍の総大将として家康と真っ向から対立し、吉継は前述のように家康へと接近。両者は敵として会津征伐を迎えるのでした。

吉継は征伐軍に参加するべく領国を出発しましたが、道中で三成が住む佐和山城へと立ち寄ります。彼は三成が東軍に属すると考えていたわけではありませんでしたが、三成の嫡男である石田重家を大谷軍に引き入れようとしました。

ところが、三成は強く吉継の西軍加担を推奨し、吉継は驚かされることになります。彼は家康と敵対することの無謀さを強く説きましたが、三成は強い意志を見せました。ここで吉継は「三成の強烈な想い」を知ることになったのでしょう。彼は一転して息子たちを連れて西軍へと馳せ参じました。

この決断に際して、彼の「戦に対する展望」が変わったわけではないでしょう。いくら三成が強く説いても、西軍が勝つとまで思っていたとは考えられません。それでも、親友の強い思いに動かされた。そう判断して差し支えないと思います。

関ケ原で裏切りによって壮絶な最期を遂げる

西軍に属することを決めた吉継は、軍備を整えるために敦賀へと引き返しました。その後、彼は東軍に属する前田利長をけん制するべく調略を行い、実際に一戦交えています。ここで利長の軍を破った吉継は、会津攻めから引き返してくる家康に備えて関ケ原の地へと赴きました。

関ケ原に到着した彼は、かねてより裏切りの疑いをかけていた小早川秀秋に備えて松尾山の北・藤川台に着陣。意外かもしれませんが、吉継にとっては「突然の裏切り」ではなく、「ある程度想定された裏切り」であったことになります。

いよいよ戦がはじまると、吉継は藤堂高虎らの東軍と刃を交えました。すると、吉継からしてみれば「案の定」といったところで、やはり小早川秀秋が裏切りに走ります。ここで小早川隊と激戦を交えた吉継は、しばしば語られるような「成すすべなく敗北」という負け方をしたわけではありません。

しかし、吉継は想定していなかったさらなる裏切りにさらされることになります。もともと秀秋の裏切りに備えて配置していた脇坂・朽木・小川・赤座の四将が同時に寝返り、大谷軍は一気に窮地へと追い込まれました。吉継も奮戦を重ねたものの、軍を支えきれず敗北。吉継はそのまま自害しました。

大谷軍の敗北は西軍全体に動揺を与え、全体敗走の大きなキッカケとなってしまったと言われています。

吉継はどのような病気を患っていたのか

最後に、吉継を語るうえでは欠かせない「病気」について考察して、記事を締めていきましょう。言い伝えなどによれば、吉継はその生涯で重い病気を患っていたといいます。その根拠は後世に伝わる『関ケ原合戦絵巻』などに、頭部を白頭巾で覆われた吉継の姿が描かれていることなどが挙げられます。

頭部を覆っているという事実や、後世に伝わっている病気に関連する逸話から「ライ病(ハンセン病)」ないしは「梅毒」を患っていたのではないかと考えられており、それが通説化しているというのが現状です。

しかし、近年では彼のこうした病気が描かれるようになったのは江戸時代中期以降のことであり、少なくともライ病のような「白頭巾」を身につけなければならない病気ではなかったと言われています。

実際のところ病気は病気であったものの、史料の記述などから患っていたのは眼病の一種であると考えられており、晩年は目が不自由になっていた可能性は極めて高いです。そのため、関ケ原などでは後方で指揮に専念していたと言われています。

以上のような「眼病」という事実が後世に歪曲して伝えられ、いつしかライ病などの異なる病気とそれに関連する記載が増えていったのでしょう。


【参考文献】
  • 『朝日日本歴史人物事典』
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)
  • 歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(学研パブリッシング、2009年)



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