石田三成と大谷吉継。2人は熱い友情で結ばれた「同志」だった!

秀吉に仕えた石田三成と大谷吉継と言えば親友であり、関ヶ原の戦いを共に戦った仲間でもあることで知られる。しかし、吉継がどうして病をおしてまで三成とともに戦ったのかという点については、はっきりとわかっていない点も多い。今回は史料が描き出す2人の関係について述べてみたいと思う。

近江衆

豊臣政権を語るとき、必ずと言ってよいほど話題に上るのが「近江衆」と「尾張衆」の話であろう。

秀吉は農民の出であるために、当然のことながら既存の家臣団を持っていなかった。よって、織田信長に仕えて頭角をあらわした当初は出身地尾張の親類等を家臣として取り立てて行くしかなかった。弟の秀長や甥の秀次、そして加藤清正や福島正則などの小飼の将などは皆「尾張衆」である。

福島正則の肖像画
朝鮮出兵をきっかけに、三成と犬猿の仲になったことで知られる福島正則。

この時期は、信長の天下統一事業も始まったばかりであるから、戦上手もしくは勇猛果敢な武将が活躍した時代である。尾張衆=武断派という図式が出来上がった裏には、このような事情が存在すると思われる。

ところが、秀吉が天正元(1573)年に近江長浜城の城主となると、状況に少々変化が見られるようになる。秀吉は石田三成や大谷吉継らを小姓として取り立てるなど、近江衆の登用に舵を切り始める。

長浜駅にある、秀吉公と三成公出逢いの像
長浜駅にある、秀吉公と三成公出逢いの像

これは、近江衆には計数の才に長けたものが多いことに気がついた秀吉が、天下統一事業後も見据えて積極的に登用し始めたことの一環であろう。ともかく、三成と吉継は1570年代初期には羽柴家の小姓として対面する。同じ近江の出ということもあり、2人は気が合ったらしい。

有名な大阪城での茶会エピソード

三成と吉継の関係を語る上で、よく引き合いにされるエピソードがある。

天下統一が秀吉に近づいていた天正15(1587)年、大坂城にて茶会が開かれ、三成と当時既に「らい病(ハンセン病)」に冒されていたとされる吉継も出席していたという。茶を回し飲みする際に、誰しも吉継が口をつけた茶碗から茶を飲むのを嫌がったが、三成だけが平然と茶を飲み干し、もう一杯所望したという逸話が残っている。

一説によると、吉継が茶を飲んだ際に顔から膿が滴り落ちたため、周囲の者は茶を飲む振りをしたとも伝わる。この三成の計らいに吉継は感激し、後に関ヶ原において共に挙兵する大きな動機となったという。

おそらくもっとも有名であろうこの逸話は、実は典拠となる史料が不明であることはあまり知られていない。歴史家の本郷和人氏によれば、明治時代のジャーナリスト福本日南著『英雄論』に最も古い記述が見られるとのことである。

この逸話以外にも、三成と吉継が親しかったという記述は多数ある。九州征伐・小田原征伐・奥州仕置などへの両者の参陣は当然としても、戦以外でも親密ぶりが確認できる。

『宇野主水日記』には、秀吉の有馬温泉行に2人が同行していることが記されている。さらに『宗湛日記』によれば、吉継は九州征伐を終え、筑前国宮崎に到着した秀吉の機嫌を珍しく損ねてしまったことがあった。吉継は許しを得るまで宮崎周辺の村で蟄居していたが、その最中に秀吉主催の茶会があったため、見事な茶器を鑑賞し損なってしまう。三成はそれを不憫に思い、神屋宗湛に頼み興福寺にて密かに茶器を鑑賞できるよう計らったという。

真田家とのつながり

『慶長軍記』によれば、三成と吉継は衆道関係にあったとされているが、『慶長軍記』自体が2次史料であり、その内容を鵜呑みにするのは危険であると思われる。

この点を考察する上で『慶長軍記』が、要は「関ヶ原戦記」であるということが重要なのではないか。

吉継は三成とは違い、徳川家康を敵視しておらず、家康の方も吉継を高く評価し、大きな信頼を寄せていたと言われる。その吉継が三成と挙兵したと聞いたとき、思わず耳を疑ったのは家康本人であったろう。

友情だけでここまでするものかという疑惑から衆道関係の噂が生まれたのかもしれないが、私の見立ては少々異なる。吉継と三成はそれぞれが真田家と縁戚関係を結んでいたし、小姓時代から行動を共にすることが多かったため、疑似縁戚のような関係となっていた可能性はあるように思う。

真田昌幸と石田三成の略系図
真田昌幸と石田三成の関係を示す略系図

家康の重臣本田忠勝の娘を正室としていた真田信之方を除いた真田家と吉継が、いずれも西軍についていることもそれを裏付けている。

三成に諫言していた吉継

吉継は三成の性格について、何度か三成本人に諫言している。これは三成のためを思ってという一面も当然あるだろうが、吉継は必要とあらば誰に対しても憚らず諫言してしまうという性格の持ち主であったらしい。

先にのべた九州征伐後に秀吉の不興を買ったのも、この性格が災いしたものであったようだ。

『常山紀談』には、吉継が三成に「お主には横柄なところがある」と諫言したという記述が見られる。また、大道寺友山著『落穂集』には「殊外へいくわい(横柄)に候とて、諸大名を始め末々の者迄も日比(頃)あしく取沙汰を仕る由也」とある。

石田三成を語るとき必ず出てくるのが「横柄」な性格なのであるが、吉継はおそらく三成を「横柄」な人物と思ってはいなかったのではないかというのが私の考えである。

というのは、吉継は豊臣政権内で三成と同じ奉行職であったから、三成の秀吉へのとりなしのおかげで、佐竹氏や津軽氏が御家取り潰しの危機を免れたことも知っているだろう。そして、先にも書いた九州征伐後に秀吉の勘気を被ってしまった吉継を慰め、秀吉に蟄居を解くよう嘆願したのも三成であった。

三成の誠実さを正確に把握していたはずである吉継がアドバイスしたかったのは、「物は言いよう」だということではないか。三成は白黒をはっきりつける傾向があり、「白」と言われた武将はその処遇に大変感謝したであろう。ところが、「黒」と言われた武将はどうであろうか。おそらく恨みを募らせたに違いない。

状況を見て、時には見ぬふりをするか、せめて「灰色」という裁定を下していれば、少なくとも朝鮮出兵後に、加藤清正とあれほど反目することはなかったであろう。

関ヶ原

秀吉が慶長3(1598)年に、そしてその翌年に前田利家が没すると、もはや家康に対抗できる大名がいなくなってしまう。

五大老で安芸の毛利輝元120万石、会津の上杉景勝120万石。二人合わせて240万石と石高は家康の250万石と互角である。しかし天正12(1584)年の小牧長久手の戦いの際に秀吉と対等に渡り合った家康の実力を考えると、やや物足りなさを感じてしまうのである。

実際、秀吉・利家の死後には家康に接近する大名が急増する。そんな中、上杉景勝と家康が対立し、これが慶長5(1600)年6月の会津征伐に発展することとなる。

吉継も3000の兵を率いて出陣する途中に三成の居城佐和山城に立ち寄る。その際、家康に対して挙兵する話が持ち上がったという。吉継は当初は挙兵に反対したと言われるが、三成の熱意に打たれて挙兵を決意したとされる。

これには戦力・戦略を分析して意外に有利に戦えるかもしれないと判断したという説もある。『常山紀談』によれば、その際「お前(三成)は人望がないから毛利輝元か宇喜多秀家を総大将とせよ」と諫言したと伝わる。

関ヶ原の戦いは当初西軍優位であった。大谷吉継は小早川秀秋の陣近くに陣を布いたが、これは秀秋の裏切りを予測してのことだったとも言われる。

関ヶ原の戦いでの大谷吉継陣跡
関ヶ原の戦いでの大谷吉継陣跡(出所:wikipedia

しかし、豊臣家の親戚であり、金吾中納言と称される秀秋の裏切りが西軍に甚大な影響を与え、西軍敗北につながりかねないことを吉継が予見しないはずはない。ひょっとすると、吉継は命を懸けて三成を逃がそうとしたのかもしれない。

あとがき

石田三成、大谷吉継の関係を見ていると、当然その根底には熱い友情があったことは間違いないだろう。そして、豊臣家のために尽くすという点では2人は固い絆で結ばれた「同志」であったように思う。

特に吉継は、三成の高潔さゆえの不評を良く分かっていた。そこを改めないと、豊臣政権が危ういと感じたからこそ何度も諫言したのではないだろうか。

三成を最も高く評価していたのは、ある意味大谷吉継だったのかもしれない。


【参考文献】
  • 『石田三成と大谷吉継(吉隆): 関ヶ原の役、敗将の矜持 』
  • 小和田哲男『石田三成「知の参謀」の実像』 PHP新書 1997年
  • 花ヶ前盛明編 『大谷刑部のすべて』(新人物往来社、2000年)
  • 瀧澤中『「戦国大名」失敗の研究』(PHP研究所 2014年)

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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