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  • 豊臣秀吉
 2015/07/08

「島左近」三成にとって "過ぎたるもの" だった伝説の猛将。

島左近の肖像画
関ヶ原の大戦において西軍を率いた石田三成は、自身の手に「過ぎたるもの」が2つあった。その一つは居城である佐和山城。そしてもう一つは彼が破格の待遇をもって迎えた名将・島左近である。今回はそんな左近について光を当てていきたい。

大和国時代の左近

左近は天文9年(1540年)、大和平群郡の国人である島氏の家系に生を受けた。

島氏の出自には不明な点が多いが、藤原姓を本姓としていたようである。そうして成長した彼が最初に仕えたのは、隣国河内の守護であり、当時大和にも勢力を伸ばしていた畠山氏であった。彼は主君である畠山高政が、三好長慶との最終決戦を行った際(教興寺の戦い)大和国の大名である筒井順昭の指揮下で参戦していた。この時左近は筒井家との縁を得たようである。

その後、三好長慶との決戦に敗れた畠山氏は没落し、左近は筒井家に身を寄せることに…。彼は筒井家をわずか2歳で継ぐことになった筒井順慶を盛り立て、やがて成長した順慶を支え続けることになる。

やがて松永久秀との戦いや天正10年(1580年)の本能寺の変といった数々の動乱を、若き主君と共に潜り抜けながら、いつしか彼は筒井氏の重臣としての位置を確立していたようである。しかし病気に倒れた順慶の跡を継いだ筒井定次とは反りが合わず、天正16年(1588年)にはついに筒井家を去ることとなってしまった。

左近、運命の出会い

筒井家を辞した後、左近は蒲生氏郷豊臣秀長といった大物に相次いで仕えたとされているが、この間目立った活躍は無かった。 とはいえ氏郷や秀長といった豊臣家を代表する武将に仕えることが出来ているあたり、左近の声望は天下においてもそれなりに高かったといえるだろう。

だが左近は何を思ったのか、突然浪人生活を始めだしたのである。そうなると当然、彼の下には多くの仕官要請が舞い込んでくるのだが、彼はそれらを一顧だにもしなかったとされている。この頃左近が既に齢50に近づいていたのも、その原因なのかもしれない。どうやら彼はもう引退を考えていたようである。しかしそんな左近の下に一人の男が現れた。そしてこの男が左近の老いた血を、再び熱くたぎらせることになったのである。

三成と左近

浪人生活を送る左近の下に現れた「その男」とは石田三成である。彼は天下の覇権を確立する目前にある豊臣秀吉の寵臣であり、また義に厚い才人であった。このとき三成は、内政に優れた自分には無い「戦」の能力を求め、左近の下を訪れたのである。

左近が三成を前にして、何を思ったのかは明らかでは無いが、確かなのは三成がこの老いたる名将に対して、破格の待遇を持って迎えようとしたことだけである。一説に三成自身が食む俸禄の半分(2万石)を左近に与えたとまでされているが、これはそれ以前から三成の部下である渡辺官兵衛のエピソードと混同されているようである。三成が左近の下を訪れた際には、既に彼は佐和山19万石の城主であった。とはいえ2万石という数字が事実であるなら、一家臣としては常識はずれの好待遇であることは間違いない。

こうして左近は三成に口説き落とされることとなった。左近がいつごろから三成に仕えるようになったのかは定かでないが、 近年、天正18年(1590年)の小田原征伐のころに常陸国の佐竹氏宛てに書かれた左近直筆の書状が見つかっていることから、この時点で既に三成の重臣となって交渉の役割を担っていたことが伺える。
その後、左近は三成と共に朝鮮戦争にも出陣したとされている。三成にとって、彼はなくてはならない存在となっていたのである。

運命の関ヶ原

秀吉亡き後、三成は次の天下を虎視眈々と狙う徳川家康と対立する事になり、慶長5年(1600年)には家康に対してついに宣戦布告、天下分け目の大戦・関ヶ原の戦いが始まる。
この時、齢60の左近は、前哨戦である杭瀬川の戦いにおいて、わずかな兵のみを率いて勝利を収めた。しかしこれが左近にとって最後の勝利となり、関ヶ原の決戦において討死するのである。

決戦時、左近は家康から「身の毛も立つ」ほどの奮戦を見せたとされているが、記録によればその最期は少々呆気なかったようである。しかし、戦死の根拠となる記録の記述がバラバラであることや、左近本人の遺体が見つかっていないということもあり、生存説も未だに根強く残されている。しかし生存を裏付ける記述もバラバラであるため、信憑性については低いと言わざるを得ない。

まとめ

左近に関する史料は他の戦国武将と比べて乏しいため、知名度の割には謎の多い人物である。

彼がかなりの人気を誇るのは主君である三成との友情にも似た関係性だろう。しかし実際のところは三成と左近は親子ほど年が離れていた。だから友情というよりかは、三成が戦国の大先輩である左近を「尊敬」していたというほうが正しいのかもしれない。 そうなると「過ぎたるもの」という有名なフレーズは第三者から見たものではなく、三成の視点から語った左近に対する「謙遜」と呼べるものだったと言えるのかもしれない。

また、左近はそんな三成の期待に応え続けた。老骨に鞭を打ち戦場を駆ける姿は一際目立つものであっただろう。 彼は主君の義を実現するため、関ヶ原の最前線に立ち、そして散っていったのである。




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