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 2019/01/17

「鑓(やり)」が近接戦では最強?猛将には鑓つかい多し!

鑓をもつ武将イラスト

鑓という武器は古来からあるイメージですが、実は戦の武器としてよく用いられるようになるのは室町時代からです。平安時代から鎌倉時代にかけての戦のスタイルは、集団戦ではなく少数の騎馬戦でした。

このころは弓矢が主流であり、弓馬の技術が優れていることが強さの象徴でした。弓の名手や武士の棟梁のことを「弓取り」といいました。やがて合戦の在り方は徐々に変わり、室町以降には鑓が主力武器として多く使われるようになります。
(文=東 滋実)

「槍」との区別

よく「槍」と表記しますが、これは古代から狩猟の道具として発達していったもの。鑓の原型は長刀(なぎなた)で、古代からある鉾と中世の刀剣が改良されたものでした。

鑓は南北朝以降に考案され、戦に歩兵が多数動員されるようになると瞬く間に主流の武器となっていきました。戦国時代に「一番槍」という言葉がありますが、合戦で鑓を使って最初に戦功をあげた者は誉れ(ほまれ)でした。それほど鑓は戦において重要な武器だったのです。

大身鑓(おおみやり)

室町時代に登場したのがこの大身鑓ですが、穂(刃の部分)が30~60cmほどもある大型のもので、反対に柄は短いため扱いにくかったそうです。これくらいの長さの鑓を扱ったのは武士階級でした。足軽のような歩兵が使う「長柄鑓」と区別して「持鑓」ともいいます。

実際に使われたものを例に挙げると、大身鑓で有名なのが、天下三名鑓と呼ばれる「日本号」「蜻蛉切(とんぼきり)」「御手杵(おてぎね)」です。

日本号

黒田官兵衛の家臣・母里友信(太兵衛)が福島正則から酒で飲み取ったことで知られる鑓。 長さは穂の長さだけで79.2cm、全長は321.5cmにもなります。重さは穂が2.8kgです。

蜻蛉切

徳川家臣・本多忠勝愛用の鑓として知られています。 穂の長さは43.7cm、柄の長さを含めると6mを超えましたが、忠勝の晩年ごろは3尺ほど短くしたのだとか。重さは穂が498gです。

御手杵

刀工の五条義助による大身鑓で、穂の長さだけでなんと139cmもあります。全長は3.8mでした。三名鑓のうち御手杵だけ空襲で焼失したため現存しておらず、現在はレプリカを見ることができます。

長柄鑓

穂が大きく重量であったため扱いにくかった大身鑓。戦国期に入ると、持ちやすいよう柄がどんどん長くなり、合わせて穂も小型化されました。そうしてできたのが長柄鑓です。戦国期には武士のほか、多くの農民が動員されましたが、武器の扱いに慣れていないそういった人員の持ち道具として用意されたのが長柄鑓でした。

長柄鑓は名が示すように柄がとても長く、足軽は二間半~三間半(およそ4.5~6.5m)もの長さの鑓を扱いました。身長の3倍、それ以上の鑓を持っていたのです。

これだけ長柄鑓が使われたのは、リーチの長さに理由があります。雑兵が使うこれらの鑓の柄は竹でできており、振り回すと大きくしなりました。鑓は突くもの、という印象がありますが、長柄鑓は突くというより集団で敵を薙ぎ払ったり叩いたりして使っていたようです。

戦国時代の合戦の主力となる

このように、戦国時代の戦には足軽を大量に投入するようになったため、簡単に簡単に扱える長い鑓がよく用いられました。ほかの武器に比べて製造しやすいというのもポイントだったのかもしれません。天正ごろ、鉄砲が武器として威力を発揮するようになるまでは戦の主力武器として活躍しました。

鑓の穂の形状

素鑓

最もシンプルな形で、穂がまっすぐの鑓です。実際使われた鑓はこれがいちばん多かったとされています。

片鎌鑓

穂の片側のみに枝がある鑓です。加藤清正が好んで使用したといわれています。

十文字鑓(両鎌)

穂の両側に枝がある鑓で、「十」の字に見えることからそう呼びます。織田・徳川はこれをよく用いました。

鑓の名手

平安や鎌倉武士の強さの象徴が弓であったように、戦国期の武士の強さは鑓に象徴されるように思われます。上で紹介した「天下三名鑓」の使い手である本田忠勝、母里太兵衛も鑓の名手として知られていますよね。

その他、猛将として知られ人気のある武将にも鑓の使い手が多いのです。ここでは紹介しきれません(それほど主力であったことを物語ります)が、一部を紹介しておきましょう。いずれも猛将として人気を集める武将ではないでしょうか。

前田利家

「鑓の又左」の異名を持つ前田利家。鑓といえば真っ先に利家を思い浮かべる人も多いでしょう。利家が使っていた鑓は現存していませんが、6.3mもの長さの鑓を振り回して暴れていたとか。

井伊直政

「井伊の赤鬼」といわれた井伊直政。鬼のような形相で長い鑓を持ち、武将でありながら先陣を切って戦うタイプでした。関ケ原の戦いでも「抜け駆け」ともいわれますが、働きを残しています。

加藤清正

賤ケ岳の戦いにおいて、秀吉の家臣として武功をあげた「賤ヶ岳七本槍」。清正はそのひとりでした。「肥後の虎」と呼ばれ、勇猛ぶりは今でも人気です。





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