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本能寺の変の諸説その5「イエズス会関与説」~ イエズス会が日本制圧のために信長を操っていた!?

本能寺黒幕説(イエズス会編)

「イエズス会関与説」とは、スペイン・ポルトガル等の南欧勢力がイエズス会(=カトリック教会に属する男子修道会。)を通じて信長に資金援助を行って天下布武を推し進めさせ、天下統一の暁には信長を利用して中国を征服させようとしていたが、信長が独自路線を進め始めたために謀殺したというもの。

何とも壮大な説であるが、この「イエズス会関与説」は、論拠となる部分に史料の誤読や論理の飛躍が見られるため、多方面からの批判が寄せられており、本能寺の変の黒幕説の中で最も荒唐無稽な説と評されてもいる。

史料に基づく裏付けがきちんとなされていないのも問題だという。ただ、イエズス会には植民地化の先鋒部隊という側面は確かにあった。とはいえ、既に鉄砲の大量保有国となっていた織田政権下の日本を武力で制圧するのはそう簡単ではなかったろう。…となれば、信長を利用してまずは中国を制圧するか、と考えたとしても不自然ではない。

イエズス会が本能寺の変に全く関与していないという確証もないわけであるから、仮説という形であればイエズス会黒幕説を吟味する価値はあると思う。それでは、本能寺の変にイエズス会の影がちらつくか否か史料を基に見てみよう。
(文=pinon)

イエズス会の布教戦略

イエズス会は1534年にイグナチオ・デ・ロヨラと6名の同志によって創立された。イグナチオ・デ・ロヨラは元軍人だったこともあり、イエズス会は「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれたという。この創立メンバーの中には、あのフランシスコ・ザビエルの名も見える。

ザビエルの肖像画
歴史の教科書でもおなじみのザビエルの肖像画

イエズス会の日本における布教戦略は日本の文化や伝統を受け入れつつキリスト教を広めるというものであった。 この姿勢は「適応主義」と呼ばれる。また、フランシスコ・ザビエルは日本人の優秀さに驚嘆したと伝えられ、そのため日本には戦国当時の一次史料『日本史』の著者として有名なルイス・フロイスやアレッサンドロ・ヴァリニャーノら優秀な宣教師が派遣された。その甲斐あって日本での布教活動は順調に進んだとされる。

しかし、様々な文献にあたると、イエズス会のこのような平和的な活動とは裏腹に不穏な動きが確認できる。高瀬弘一郎氏の『キリシタン時代の研究』によると、イエズス会の内部では武力によって日本や明を征服すべしとの考えを持つ者もいたようである。

ここで、1つの疑問が生ずる。当時の日本は織田軍や雑賀衆が鉄砲を大量に保有していたとは言え、海軍力が非常に弱く、スペイン・ポルトガルが大艦隊で攻めれば簡単に制圧できそうなものである。これらの南欧勢力はなぜそうしなかったのであろうか?

思い当たる点が1つある。それは信長が家臣で水軍大将の九鬼嘉隆に造らせた「鉄甲船」の存在である。鉄甲船はその正式名称を大安宅船といい、複数の一次史料にその記述が見られるため、その存在は確実であるとされている。

秀吉の朝鮮出兵の時に使用されたと思われる安宅船(『肥前名護屋城図屏風』に描かれたもの)
秀吉の朝鮮出兵の時に使用されたと思われる安宅船(『肥前名護屋城図屏風』に描かれたもの)

例えば、『多聞院日記』には、「鉄の船なり、テツハウ(鉄炮)とをらぬ用意、ことこと敷儀なり」とある。また、九鬼軍は砲撃を得意としていたため、この大安宅船には大砲3門が装備され、6隻の大安宅船が毛利方の村上水軍を散々に打ち負かしたとの記述が『信長公記』に見られる。

宣教師オルガンチノは「王国(ポルトガル)の船にも似ており、このような船が日本で造られて いることは驚きだ」と報告している。南欧諸国の軍艦に匹敵するものを短期間で建造させてしまう信長の凄さを「見て」しまった宣教師たちは、「この人を敵に回すと厄介だ」と思ったに違いない。

イエズス会内で日本の侵略をもくろむ一派にとって、信長は目の上のたん瘤だったのかもしれない。

信長とイエズス会

基本的に信長とイエズス会の関係は良好であった。信長はキリスト教の布教を許し、宣教師たちの活動を援助し、安土城下にセミナリヨ(小神学校)が設立することを許可している。しかしながら1580年、肥前のキリシタン大名大村純忠が長崎及び茂木の地を教会領として寄進するという事態が起こる。要は長崎の地は植民地も同然となってしまったのである。

羽柴秀吉もイエズス会の危険性について信長に上奏していたというから、危機意識はますます高まったに違いない。 しかし、火薬の原料となる硝石を手に入れるため、イエズス会と良好な関係を保つ必要があったのか、このことに信長が反応したという記述は見られない。

毛利攻めを控えていた当時、硝石の調達は重要事項だったに違いなく、天下統一を成し遂げるまでは波風を立てないようにしていたのかもしれない。

弥助という人物

この大村純忠長崎寄進事件の前年の1579年に宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日する。 このときヴァリニャーノは1人の黒人を従者として随行させていた。

1581年、信長に謁見したヴァリニャーノはその黒人を信長に献上したという。 信長はその黒人を気に入り、弥助(やすけ)と名付けて直臣にまで取り立てている。

この弥助は何と、本能寺の変の際も本能寺におり、その変の一部始終を目撃したとされる。 しかも信長の後継者信忠を守るべく、二条城で明智軍と戦って捕縛されてさえいる。 …にもかかわらず、明智光秀は弥助を殺さずに南蛮寺に送っているのはなぜなのだろう。

実は弥助はイエズス会のスパイで、光秀がキリシタン大名経由でイエズス会から信長暗殺を依頼されていたとしたら、この行動もしっくりとくるのではないだろうか。ちなみにその後の弥助の足取りは不明である。

これに関して興味深い話がある。愛知県瀬戸市定光寺町にある西山自然歴史博物館には、織田信長のものと伝わるデスマスクが展示されているというのだ。

信長の子孫を称する館長の西山氏によると、そのデスマスクは弥助が本能寺から持ち出した信長の首から作られたという。 信長の首はまず、本能寺近くの南蛮寺に預けられたというから、イエズス会が確実に信長の死を確認する必要があったのかもしれない。

キリシタン大名と明智光秀

明智光秀がキリスト教にあまり興味を示さず、宣教師に対してもどちらかというと冷ややかであったという記述がルイス・フロイスの『日本史』に見られる。

しかしながら、特に九州地方ではキリシタン大名が多く、織田政権においても、高山右近のようにキリスト教の洗礼を受ける武将がおり、さらに増えることは明らかであったろう。

信長の天下統一が達成されれば、信長はイエズス会に対して規制を断行する可能性は高かったと思う。優秀な光秀のことだから、規制を断行すればキリシタン大名及びイエズス会の反発は必至であると考えただろう。そうなれば、キリシタン大名がイエズス会のバックにいる南欧勢力と組んで反乱を起こす可能性も予見していたに違いない。

ひょっとすると、光秀に対して将軍義昭、本願寺、朝廷に加えて、イエズス会からも「信長を何とかしてほしい」というオファーがあったのかもしれない。光秀はそのことを少々忖度しすぎたのかもしれない、と私は思い始めている。





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