本能寺の変の謎…信長の首はいったいどこに消えたのか!?

 天正10年(1582)6月2日、明智光秀の謀反によって、織田信長が自害を遂げました。しかし明智方がどれだけ探索しても、信長の首はいっこうに見つかりません。結局、その信長の死があやふやになったことで、光秀は期待するほどの味方を得られませんでした。やがて山崎の合戦で羽柴秀吉と戦い、無惨な最期を遂げてしまうのです。

 信長の首はいったいどこへ消えたのか?これまで多くの説が唱えられてきましたが、そのいくつかをピックアップしつつ、詳しく検証してみたいと思います。

信長の首と遺骸は、阿弥陀寺に葬られた!?

 信長が葬られているという墓所は、全国に15ヶ所以上もあるそうで、京都市上京区の阿弥陀寺も、その一つとなっています。 「信長公阿彌陀寺由緖之記録」という寺伝によれば、以下のような経緯が記されているとか。

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 本能寺の変直前の5月29日、信長は次のように命じつつ、小姓衆20~30人のみを引き連れて、先に京都へ向かいました。

信長:「ただちに中国地方へ出陣できるよう、準備を整えよ。命令があり次第、出立できるように」

 そして6月2日の早朝、ついに本能寺の変が勃発します。

 ちょうどその頃、異変を耳にした阿弥陀寺の清玉上人は、弟子たちとともに本能寺へ駆けつけました。信長とはかねてから親交が厚かったからです。

 清玉上人が裏手の生け垣から寺の敷地へ入ってみると、見覚えがある信長の小姓たちが、何かを燃やしている光景に出くわします。清玉上人が尋ねると、小姓の一人が答えました。

清玉上人:「そこで何をしているのですか?」

小姓の一人:「上様はご自害されました。我々は遺骸を敵に渡すなと命じられており、ここで念入りに焼いているのです」

 とはいえ敵の重囲の中、信長の遺骸を抱えたままでは、にっちもさっちもいきません。途方に暮れる小姓たちを前にして、清玉上人はこう申し出たといいます。

清玉上人:「上様には懇意にして頂きましたゆえ、何かの役に立てればと駆け付けました。しかし果てられたとなっては、ご遺骸を荼毘に付すのが拙僧の役目でございましょう。この場をお任せ頂き、遺骨を持ち帰って手厚く葬りたいと存じます」

 その言葉を聞いた小姓たちは後事を託すと、安心して敵中へ斬り込んでいきました。

 その後、信長の遺骸を焼いた清玉上人は、残った遺骨を法衣で隠しつつ、他の僧たちが逃げ出すのに紛れて脱出を図ります。また、信長の嫡男・信忠が二条御新造で自害したと聞くと、明智光秀に申し出て、その遺骸も引き取ったそうです。
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 さて、一連の経緯を見てみると、確かに信憑性がありそうな感じがしますよね。とはいえ疑問点がないわけではありません。信長主従を逃がすまいと明智勢が取り囲む中、果たして信長の遺骸を焼く余裕などあったのでしょうか。また清玉上人が焼いたにしても、人体が灰になるまでには、想像以上に時間が掛かってしまいます。

 現代の火葬場でも、遺骸が灰になるまでに1時間は掛かりますよね。ましてや薪や炭で燃やすのであれば、半日以上の時間を費やしてしまいます。つまり「由緖之記録」の記述に関しては、どうしても疑念を持たざるを得ないのです。

黒人家臣が信長の首を持ち去った!?

 日本の文献に初めて黒人が登場するのは、『信長公記』においてです。イタリア人巡察師バリニャーノが、従者として黒人を連れてきたのだとか。彼らを本能寺へ招き入れた信長は非常に驚き、その肌の色が自然であることを信じなかったそうです。

 その場で衣服を脱がせて、黒人を洗わせてみるのですが、肌はますます黒くなるばかり。信長はますます興味をそそられ、妙覚寺にいた信忠を呼び寄せて見せるほどでした。

 信長はことのほか黒人を気に入り、やがて自らの側近くで仕えさせるようになります。かなりの好待遇を与えられたことから、人々は「いずれ上様は、黒人を殿にするのでは?」と噂し合ったとか。

 実は黒人に関する記録がもう一つ存在しており、これは松平家忠が記した「家忠日記」という一次史料になります。

「くろ男御つれ候、身ハすミノコトク、タケハ六尺二分、名ハ彌介ト云フ」

 黒人は「彌介」と名付けられ、各地へ赴く信長に同行していたようです。

信長と彌介のイメージイラスト
信長と彌介のイメージイラスト

 ちなみに彌介は、北陸で柴田勝家らと、甲州征伐では多くの織田重臣らと会っており、おそらく明智光秀とも面識があったのでしょう。あるいはそれ以前にも、安土城などで彌介の姿を目にしていたのかも知れません。

 そして彌介は、本能寺の変という重大事件に巻き込まれてしまうのです。11月5日付、ルイス・フロイスの書簡によれば、そこには彌介の詳しい動向が記されていました。

「巡察師が信長へ贈った黒人が、信長の死後に世子の邸へ赴き、相当長い時間戦っていたようだ。すると明智の家臣が彼に近付き、恐れることなく刀を渡せと言ったので、黒人は素直に差し出した。家臣は、この黒人をいかに扱うべきか?光秀に尋ねたところ、黒奴は動物で何も知らず、また日本人ではないので殺しはしない。パードレの聖堂に置けと言ったそうだ」

 この文面からすると、はじめ彌介は本能寺で戦い、次いで信忠がいる二条御新造へ駆け付けたことがわかるでしょう。実は本能寺から脱出する際、彌介が信長の首を持ち去ったのでは?という説があるのです。それによると発覚を恐れた彌介は、あらかじめ首をどこかへ隠したといいます。そして命を助けられた段階で、再び持ち去ったというわけですね。

 その後、首はどこへ運ばれたのか?行方は全くわかっていません。ただし、愛知県瀬戸市の「西山自然歴史博物館」には、彌介が持ち去った首で作ったという「信長のデスマスク」があるそうです。テレビ番組やメディアでも、たびたび紹介されているとか。

信長デスマスクのイメージイラスト
信長デスマスクのイメージイラスト

 ただし、この説も想像の域を出ないでしょう。まず自分の首を異国人に委ねるというのは、当時の価値観では考えられません。ましてや首でデスマスクを製作するなど、荒唐無稽もいいところです。何より、彌介が首を持ち去ったという記録や伝承がない以上、やはり後世の作り話と判断するべきでしょう。

なぜ信長の首塚が富士山麓にある!?

 静岡県富士宮市の西山本門寺には、信長の首を埋めたという首塚があるそうです。「なぜ信長の首塚が、そんな場所に!?」と、素朴な疑問を抱く方も多いことでしょう。実は次のような伝承が言い伝えられてきました。

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 本能寺の変が起きる前日、信長は公家衆や商人を招いて盛大な茶会を催し、夜になると囲碁の対局を観戦したそうです。本因坊算砂は、信長も指南を受けるほどの腕前で、かたや相手を務める鹿塩利賢もなかなかの名人でした。信長もかねてから対局を楽しみにしていたのでしょう。

 そんな最中、囲碁の盤上に3つも劫(こう)が生まれる珍しい現象が起こりました。これを三劫と呼びますが、昔から「不吉なことが起こる」という言い伝えがあったようです。そんな名人同士の勝負は引き分けに終わり、算砂はそのまま本能寺で宿泊することになりました。

 あくる朝、ついに明智勢の襲撃が始まります。小姓たちが防戦に努める中、ついに信長が自害を遂げてしまいました。混乱する状況の中、算砂は原宗安という信長の家臣を呼び止めると、このように伝えたそうです。

算砂:「上様の首を敵に渡してはならない。おぬしは首を持ち出して駿河へ赴き、西山本門寺の日順へ託すように」

 日順上人は算砂の弟子にあたり、しかも原宗安の親族です。きっと悪いようにはしないと考えたのでしょう。

 宗安はどうにか本能寺を脱出すると、長い時間を掛けて西山本門寺へたどり着きました。事情を聞いた日順上人は、信長の首をねんごろに葬ったそうです。
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 西山本門寺には、日順が書いたという過去帳があり、そこには「天正十年六月、惣見院信長、明智のために被誅」と書かれているとか。ただし、西山本門寺説も、いささか信憑性に欠けるところです。本能寺の変が起こったのは初夏のこと。おそらく駿河まで首を持って行くのは難しいでしょう。なぜなら暑さのせいで、首が原型を留めないほど崩れてしまうからです。

 ちなみに桶狭間の戦い(1560)の際、鳴海城を守っていた岡部元信は、主君・今川義元の首と引き換えに開城しました。しかし首は腐ってしまい、とても駿河まで持ち帰れそうにありません。仕方なく三河西尾の東向寺に葬ったと伝わります。

 とはいえ西山本門寺に、信長の首が埋まっている可能性はゼロではありません。ただ、今のところは確かめる方法がないというのが実情なのです。

信長公首塚(出典:wikipedia)
信長公首塚(出典:wikipedia)

通説通り、信長の首は跡形もなく灰になった?

 やはり、もっとも可能性の高いのが、本能寺が炎上する際、遺骸もろとも灰になったという通説でしょう。

 もちろん寺院建築は木造ですから、非常に燃焼効果が高い建材となります。また、襖や障子などが着火剤の役割を果たしますから、ひとたび火が付けば、室内へ大量の空気が流れ込んで、燃焼温度は一気に上昇するに違いありません。

 実は、令和2年(2020)に東京理科大学が主体となり、スーパーコンピュータを使ったシミュレーションが実施されました。

 これは、本能寺の変における建造物火災を再現したもので、温度は着火3分後に1000℃以上まで達し、すでに敵が近づける状況にはなかったことが示されました。さらに4分後には1400℃まで上昇し、鉄が溶けるほどの温度となっています。もはや信長の遺骸は、原型を留めないほど焼き尽くされたに違いありません。

 着火から8分経過すると、温度は800℃前後をキープするようになり、そこから徐々に下がっていきます。ちなみに現代の火葬炉の場合、800℃~1200℃で設定されているため、同じ温度環境と考えれば、遺骸が灰になることは疑いないでしょう。

 本能寺が焼け落ちたあと、明智勢は執拗に信長の首を探すものの、結局見つかることはありませんでした。確かに建物火災を考えた場合、それは当然といえば当然の結果だったのです。

おわりに

 信長の首に関する諸説を検討・検証した結果、猛火で焼けてしまったという結論にたどり着きました。あたかも「絶対に首を渡さない」という、信長の決意が伝わってくるようです。

 ただし、全ての答えが出たわけではありません。信長の首に関する伝承が存在する以上、今後、新しい史料の発見や、新解釈が出てくる可能性があるからです。

 歴史は常に上書きされるもの。今後の歴史研究に期待したいところですよね。


【主な参考文献】

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  この記事を書いた人
明石則実 さん
幼い頃からお城の絵ばかり描いていたという戦国好き・お城好きな歴史ライター。web記事の他にyoutube歴史動画のシナリオを書いたりなど、幅広く活動中。 愛犬と城郭や史跡を巡ったり、気の合う仲間たちとお城めぐりをしながら、「あーだこーだ」と議論することが好き。 座右の銘は「明日は明日の風が吹く」 ...

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