本能寺の変「本願寺教如説」~ 首謀者は信長の天敵・石山本願寺だった!
- 2018/11/14
石山合戦における本願寺といえば「顕如」があまりにも有名であるが、反信長という面で見ると、顕如よりはるかに強硬派なのが息子の「教如」である。この教如が本能寺の変の黒幕だという説が存在していることはご存じだろうか。
確かに本願寺は雑賀衆とも連携し、その雑賀衆も将軍足利義昭と連携していたことが最近になって判明しているので、役者は揃っているという印象はある。では史料はどんなことを示しているのであろうか。
確かに本願寺は雑賀衆とも連携し、その雑賀衆も将軍足利義昭と連携していたことが最近になって判明しているので、役者は揃っているという印象はある。では史料はどんなことを示しているのであろうか。
父以上に反信長派だった本願寺教如
教如は顕如の長男として永禄元年(1558)9月16日に生まれた。成長すると、父顕如とともに石山合戦で織田信長軍団を相手に戦い抜いたことで知られる。その徹底抗戦ぶりは父の顕如以上であった。顕如が近衛前久の仲介によって講和に応じて石山本願寺を去った後も、講和を無視して本願寺に居座り続け、徹底抗戦を主張し続けた。これを見た父顕如は教如を義絶(=親子の縁を切ること)したという。これは信長の目を逸らす顕如の策略だとする説もあるが、単純に本願寺の滅亡を避けるための方便であったのかもしれない。
結局、近衛前久の説得により、天正8年(1580)8月2日にようやく石山本願寺を明け渡した。これで徹底抗戦を諦めたのかと思いきや、事はそれで終わらない。
福井県の歴史家小泉義博氏の論文によると、その後も紀伊・美濃・越前などを転々としながら、武田攻略中の織田軍を攪乱するため一向一揆を扇動し続けたという。
越前朝倉氏とのつながり
教如をここまで反信長に駆り立てたものは何だったのであろうか。教如は元亀2年(1571)、越前の朝倉義景の娘である三位殿と婚約したとされる。しかし、朝倉義景は天正元年(1573)8月、信長との戦いに敗れ自刃し、ここに越前朝倉氏は滅亡する。教如はそのことを後年まで恨みに思っていたとも考えられる。考えてみると、明智光秀は将軍足利義昭に仕える前は義景に仕えていたし、足利義昭は義景に上洛を支援するよう幾度か申し入れている。さらに義景の遺児である朝倉信景が後に教如の下に弟子入りしているのを考えると、本能寺の変のキーマンは朝倉義景の亡霊なのではないかという気さえしてくる。
本願寺と雑賀衆と明智光秀
戦国時代末期の雑賀衆(さいかしゅう)は鉄砲を主戦力とする傭兵集団という性格が強く、海賊行為や交易を行うために水軍も擁していたと言われる。雑賀衆の中には一向宗(浄土真宗)を信仰するものも多く、元亀元年(1570)に顕如の援助要請を受けて信長と対立する。鉄砲に早くから注目し、戦術に組み入れていた信長であったが、大量の鉄砲を高い技術でもって活用する雑賀衆には、ほとほと手を焼いたとされる。
雑賀衆といえば、最近になって原本が発見された「6月12日付土橋重治宛光秀書状」が、明智光秀が雑賀衆の一人である土橋重治に宛てた返書であることを思い出す。
その書状の中で、光秀は味方する約束をしてくれた重治に謝辞を述べているから、本能寺の変の前後には光秀と雑賀衆は連携していたことになる。既に本願寺と雑賀衆は連携していたから、ここに本願寺・雑賀衆・明智光秀の三者が共同戦線を展開した可能性はある。
本願寺と朝廷
次に本願寺と朝廷の関係を見てみよう。比叡山延暦寺などと比較すると、朝廷との関係は浅いように感ずる本願寺だが、意外に結びつきが深いことはご存じだろうか。事の始まりは顕如の父である証如(しょうにょ)の時代までさかのぼる。大永7年(1527)、証如は朝廷との結びつきを強めるため、関白九条尚経の猶子(名義上の子)となる。さらに、後奈良天皇の弟である尊鎮法親王(そんちんほうしんのう)を師として出家したことでも知られる。天皇家や摂関家と結ぶことで本願寺の安泰を確実なものにしようという狙いがあったようである。また、室町幕府とも良好な関係を築いており、当時の日本の政治機構に上手く根を張っていたことが窺える。
その後、顕如の代には朝廷に対して多額の献金を行い、正親町天皇は「本願寺は、皇室の親戚と同じ」と称えたとされている。信長が朝廷に多額の献金を行ったことはよく知られているが、本願寺も朝廷にとって大事な「パトロン」だったのである。
石山合戦により石山本願寺を退去せざるを得なくなった教如が、例えば朝廷に「いずれ信長は本願寺を滅ぼすつもりではないか」と訴えたとしたら朝廷はどう出るであろうか。
多額の献金を行っている点では信長も本願寺も同等であるが、身内も同然の本願寺と、暦問題などの無理難題を吹っ掛け、天下統一後の朝廷の扱いをどうするつもりなのか今一読み切れない信長とではどちらを取るのか。非常に気になるところではある。
おわりに
これまで教如が本能寺の変の黒幕になり得るのかという観点から、様々な勢力との関係を洗い出してきた。もう一度整理すると、教如と朝廷、将軍足利義昭、雑賀衆の関係は良好である。また、明智光秀と将軍義昭、朝廷の関係も良好である。教如が朝廷や足利義昭を通じて明智光秀に信長の謀殺を依頼することはあり得ることと思われる。
三重大学教授の藤田達生氏の著作『謎解き本能寺の変』によると、朝廷側の人間である近衛前久と将軍義昭を結びつけたのは教如であるという。なぜ教如は当時あまり関係の良くなかった前久と義昭を結び付ける必要があったのだろうか?
一説によると、教如は石山本願寺を退去した後、播磨国に潜伏していたらしい。一方、顕如は雑賀に退去していたが、教如の下に、信長が顕如のいる雑賀を攻撃するとの知らせが届いたため、本願寺滅亡を阻止するために前久と義昭を結びつける必要があったという。結果として朝廷、幕府に依頼される形で明智光秀が信長謀殺を決行したというわけである。
教如黒幕説のポイントは、彼が「立案者」だというよりは「発案者」である側面が強いという点である。したがって結局、将軍足利義昭黒幕説や朝廷黒幕説とも関連してくるので黒幕が一つに絞れないという感が私の中では増してきている。
実のところ、本当の「信長包囲網」は信長本人が考えていたよりも壮大にして執拗なものだったのに、彼がそれを読み違えていたことが本能寺の変が起こってしまった最大の原因だったと言えるのではないだろうか。
【主な参考文献】
- 小和田哲男『明智光秀 つくられた謀反人』(PHP研究所、1998年)
- 小和田哲男『明智光秀と本能寺の変』(PHP研究所、2014年)
- 藤田達生『謎とき本能寺の変』(講談社、2003年)
- 谷口克広『検証 本能寺の変』(吉川弘文館、2007年)
- 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫、2013年)
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