本能寺の変「野望説」~光秀にも野望があった!?

実は本能寺の変の諸説の中で、最も古いものの1つが「野望説」である。この説は本能寺の変の直後から唱えられていたことが、複数の史料から確認できる。例えば、『太田牛一雑記』には、

「明智日向守光秀、小身たるを、信長公一萬の人持にさられ候處。幾程も無く御厚恩忘れ、欲に耽りて天下之望を成し、信長御父子、御一族、歴々甍を並べ、下京本能寺に於て、六月二日情無く討ち奉り訖(お)わんぬ」

とある。簡単に言うと、光秀は信長の恩も忘れ、天下に野望を抱き本能寺の変を起こした、というところか。

一昔前は光秀の評価があまり高くなかったせいもあり、本能寺の変は光秀の身の程知らずな謀反という論調も多かった。しかし、実際の光秀は恐ろしいまでに「切れる」男だったということが、近年とみに語られるようになってきている。

この評価の豹変ぶりも面白いが、そうなると人並み以上に光秀が「野望」を抱いたとしても不思議はないようにも思える。それでは、光秀の「野望」はあったのかどうか紐解いてみよう。

織田家臣随一の切れ者は「光秀」

織田家臣団というと、一番の出世頭は羽柴秀吉だと思っている人は多いと思う。しかし、秀吉が城持ち大名になったのは織田家臣団の中で2番目である。実は、最初に城持ち大名になったのは”明智光秀”である。

元亀2(1571)年の比叡山焼き討ちの実質的な実行者が光秀だったことは、以前に別記事でも触れているが、その功によって近江坂本5万石を与えられた。これが織田家臣団における城持ち大名第一号となったのである。

近江坂本城にある光秀像
近江坂本城にある光秀像

この後も光秀は出世街道をひた走る。

天正3(1575)年には丹波国攻略を任されるが、丹波国は国人衆の国で攻略は困難を極める。激闘の末に天正7(1579)年にようやく丹波攻略に成功。返す刀で丹後も平定するという獅子奮迅ぶりだった。これには信長も感激し、光秀に感状まで出してその功績を褒め称えている。

この功績で翌年に丹波一国を加増され、34万石を拝領することとなる。これと同時期に丹後国の細川藤孝や大和国の筒井順慶らが光秀の寄騎として配属され、その所領も合わせると240万石を超える規模となる。

これをもって、光秀を「畿内管領」と言うべき地位にあったとする歴史学者もいる程である。要はこの地点で、光秀は信長の片腕と言ってよいほどのエリート武将であったわけである。

一方で、「では、かつての光秀に対する評価の低さは一体何だったのか?」と思わざるを得ない。実際に私が今から35年ほど前に読んだ、ある歴史書には「明智光秀はうらなりタイプの線が細い秀才」というような記述があったことを思い出す。

彼がそういうタイプなら野望を持つのは少々無謀かもしれないと、当時は思ったものだが、この説は近年の研究からするとかなり的外れである。歴史学も日進月歩なのだなと感じ入った次第である。

光秀は忠臣

光秀の忠臣ぶりは複数の史料に記述が残されている。

例えば、織田家中では初の軍法となる『明智家法』の後書には「自分のような落ちぶれかかったものをこれほどまでに重用してくれた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」というような内容のことが記されている。

また、『宗及他会記』には1582年1月の茶会において「床の間に信長直筆の書を掛ける」とある。少なくとも表面的には信長に対して忠義を尽くしている様子がうかがえる。ここで「表面的には」とことわりを入れてあるのは、その一方でルイスフロイス『日本史』に次のような記述があるからである。

「誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関してはいささかもこれに逆らうことがないよう心がけ…(後略)」

「彼(光秀)の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者が信長への奉仕に不熱心であるのを目撃して自らがそうではないと装う必要がある場合などは、涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった」

これらの記述を見ると、先に書いた光秀の信長に対する忠臣ぶりも、多分に演技が入っているのではと勘ぐりたくなるのは私だけではないだろう。

光秀の野望とビジョン

彼の切れ者ぶりを見ていると、突発的に野望を抱いたということは考えにくい。少なくとも本能寺の変のかなり前から天下を意識するようになったと考えるのが自然だろう。

であるならば、彼には信長を倒した後の政権運営について何らかのビジョンを持っていたはずである。彼の言動にそれをうかがわせるようなものはあるのだろうか。

将軍義昭の担ぎ上げを計画?

本能寺の変の10日後に反信長派の雑賀衆のリーダー格である土橋重治(つちはししげはる)に宛てた返書の原本が最近発見されたが、その内容は室町幕府15代将軍足利義昭を上洛させるための連携を確認するものであった。

これを見ると、室町幕府の再興を目指したとまで言い切れるかどうかはともかく、再び義昭を担ごうとした可能性は高い。

明智光秀と足利義昭のイラスト
光秀は15代将軍義昭と連携をとっていた?

本能寺の変が起こった時点で、義昭は毛利領の鞆(とも)にいた。かつて信長に京を追放された後、各地を転々としていた義昭は最終的には鞆にたどり着いたのである。

隠居に近い生活を送っていたと思われがちな義昭であるが、実際には室町幕府の機構を鞆に移して将軍としての政務を行っていたというから驚く。日明貿易も行うなど、経済活動も活発に行っていたため、ある程度の財力は保持していたとされる。

反信長勢力としてこれほど厄介な存在はないであろう。光秀は室町幕府の機能をある意味利用し、反信長勢力をも丸め込んで自分の政権を作るつもりだったのではないだろうか。

その際、ゆくゆくは征夷大将軍になるつもりだったのか、「畿内管領」的な立場にいた都合上、本当に管領として政務を執り行おうとしていたのかは史料に記述がないので何とも言えない。しかし、義昭の唯一の子である足利義尋(ぎじん)は既に出家してしまっているということもあるし、光秀自身が源氏の出なので義昭の養子となり将軍職を継ぐという方法もあったかもしれない。

あとがき

さて、切れ者光秀が野望を抱いても不思議ではないと先に書いたが、彼に野望があったとすれば、それを抱いたのはいつ頃のことなのだろうか。光秀と信長の関わりを詳細に見ていくと、やはり将軍義昭の動向が目に留まるのである。

信長は三度包囲網を形成されているが、義昭が参加した第二次・第三次包囲網は第一次包囲網と比べて大規模であることがわかる。この包囲網のお陰で信長の天下統一は遅れることとなるのであるが、義昭との関係を上手く維持していればこんなに手間取らなかったことは確実だろう。

自分ならもっとうまく義昭を操れる…という自負が光秀にはあったのではないか。雑賀衆にしても、やり方次第では味方の大鉄砲部隊として大いに活躍したろうにと考えていたのかもしれない。このとき光秀の脳裏に野望が芽生えたとは考えられないだろうか。

明智光秀と織田信長のイラスト

信長と光秀はどちらも合理主義者ではあるが、その質は異なっていたと思われる。信長は破壊するということを恐れなかったが、光秀は破壊後の再構築にかかる時間が惜しいと考えていたように思う。

この違いから虎視眈々と天下を狙っていたのか、胸の内に秘していたものが本能寺のあまりの不用心さを知り、噴出してしまったのかは今となっては定かでない。しかし、光秀の抜け目なさを考慮すると、忠臣ぶりをアピールしつつ策を練り、実行の機会を窺っていたのではないかとどうしても考えてしまうのである。


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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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