本能寺の変「性格不一致・ノイローゼ説」~精神的な理由が原因か?

性格不一致説とは、信長と光秀が性格の不一致からくる不仲状態にあり、そのことが本能寺の変の原因となったとするものである。
ノイローゼ説のほうは光秀がストレスなどによって精神的に追い詰められ、いわば「血迷って」本能寺の変を起こしたとするものである。

いずれも、怨恨説から派生した比較的古い説である。そもそも怨恨説自体が江戸から明治期にかけて主流であった、かなり古い説であるらしい。

さて、実証的史学が主流となった今日、この性格不一致・ノイローゼ説はもはや吟味すべき部分はないのであろうか。史料や文献と対話を試みたいと思う。

怨恨説が長きにわたって主流であった謎

怨恨説が唱えられたのは江戸時代のことであるが、当時の歴史研究とはどのようなものだったのだろうか。

江戸時代にあっても、当然史書の分析を通じて歴史研究がなされていたようであるが、江戸時代の史書においては史実なのか単なる説話なのかという区別が曖昧なことがあったらしい。したがって、内容的には「玉石混交」と言ってよく、その引用には注意を要する。

例えば、江戸時代中期に成立した『常山紀談』(じょうざんきだん)には怨恨説を裏付ける次のような記述がある。

「東照宮御上京の時、光秀に馳走の事を命ぜらる。種々饗禮の設しけるに、信長鷹野の時立寄り見て、肉の臭しけるを、草鞋にて踏み散らされけり。光秀又新に用意しける處に、備中へ出陣せよと、下知せられしかば、光秀忍び兼ねて叛きしと云へり」

有名な徳川家康饗応役解任のエピソードである。

おそらくこの話は江戸時代初期に著された『川角太閤記』(かわすみ たいこうき)の話が下敷きとなっているのではないか。同様の記述が後の時代の書物の複数で見られるので、『川角太閤記』の影響力はかなりのものだと言える。

『川角太閤記』の著者は川角三郎右衛門であるが、関ヶ原の戦いにおいて東軍として功をあげた田中 吉政(たなか よしまさ)に仕えたことでも知られる。

川角三郎右衛門は、秀吉と同時代の当時の武士から聞いた話をまとめた「聞書」や覚書を下敷きとして『川角太閤記』を著したため、信憑性が高いとされたようであるが、最近ではそれも疑問視されている。

『絵本太閤記』信長の怒りに触れて饗応役を解任。食い下がって森蘭丸に殴られるシーン
『絵本太閤記』信長の怒りに触れて饗応役を解任。食い下がって森蘭丸に殴られるシーン

ちなみに前出の『常山紀談』の著者は徂徠学派の儒学者である湯浅常山(ゆあさ じょうざん)だが、この徂徠学派は事実を重視するという特徴を持つ学派であった。それゆえ、その内容には信頼がおけると判断された可能性もある。

一方で、『常山紀談』は史実性よりも、話として面白い逸話が多く収録されているという側面も指摘されている。史料と物語の中間的な位置づけであると言えよう。

しかし、ここで見過ごしてならないのはこれらの史書は玉石混交であるだけに、「玉」の部分も当然存在するという点である。問題の「怨恨説」に関わる記述は「玉」に該当しないのであろうか。引き続き、吟味を続けよう。

信長の横暴さは事実なのか

光秀が本能寺の変当日に西美濃の武将・西尾光教に宛てた書状に「(信長・信忠)父子の悪逆、天下の妨げ、討ち果たし候」とあるのをはじめ、信長が横暴であったとする記述は多い。

比叡山焼討ち

信長の横暴さを示すために、よく引き合いに出されるのは元亀2(1571)年9月12日の「比叡山焼き討ち」であろう。これは、比叡山焼き討ちに光秀は反対し、何度も信長を諫めたという記述が『天台座主記』にあるからである。

ところがその後、叡山焼き打ちの10日前にあたる9月2日付けの雄琴の土豪・和田秀純宛の光秀書状が発見された。その中に焼き討ちに非協力的な仰木の皆殺しを指示する記述が見られることから、光秀が焼き討ちの主導的立場にあったことが判明したのである。

したがって、光秀が比叡山焼き討ちを「横暴」な事と捉えていたとは考えにくい。

暦問題

「暦問題」にしても、信長が自分の権威を誇示するために「宣明暦」から「三島暦」へと強引に変更させようとしたわけではないことがわかっている。

「宣明暦」の正確さに疑問を持った信長は、天正10(1582)年正月29日に宣明暦を作っていた陰陽頭・暦博士・濃尾の暦者に三島歴とどちらの暦が正しいか討論させている。その後、医師の曲直瀬道三(まなせどうさん)も加え再検討し、その結果が出たのは2月初旬と言われ、宣明暦が正しいということになったという。

信長は本能寺の変前日にあたる天正10(1582)年6月1日にもう一度暦問題を蒸し返しているが、それは宣明暦が6月1日の日食を予測できなかったからである。

これら一連の行動に横暴さは特に見られないような気がするのは私だけだろうか。光秀が信長に横暴さを感じたとすれば、次のエピソードが考えられる。

公卿への言葉遣い

『甲陽軍鑑』によると、本能寺の数か月前の同年2~3月に行われた甲州征伐の際、同行していた公卿・近衛前久(当時は太政大臣)が「私も駿府のほうをまわっても良いでしょうか」と訊ねた際に、信長が「わごれなどは木曽路を上らしませ」といったというのである。

わごれは「わごりょ」ともいい「我御料」が変化した二人称代名詞で、対等もしくは自分以下のものに親しみを込めて用いる言葉である。朝廷とも関係が深い光秀にとっては、もしかしたら「無礼」に映った可能性はあるかもしれない。

信長と光秀は不仲(性格不一致)だったのか

私は信長と光秀の関係は少なくとも同年の正月までは良好であったと考えている。『宗及他会記』によると、正月の茶会において、光秀は床の間に信長自筆の書を掛けているからである。

ところが、ルイスフロイス『日本史』には、本能寺の変の数ヵ月前に「人々が語るところによれば密室で信長が口論の末、光秀を1、2度足蹴にした」との記述がある。

長崎県西海市の横瀬浦公園にあるルイスフロイス像
長崎県西海市の横瀬浦公園にあるルイスフロイス像(出所:ながさき旅ネット

ただ、同様の記述が『信長公記』などの第一級史料に見られないのは不審である。そしてもう一点、ルイスフロイスは誰からその話を聞いたのだろうか。

光秀とフロイスはさほど親しくないので、光秀本人から聞いた可能性は低いが、光秀の寄騎であった高山右近はキリシタンであったから、あるいは右近経由でフロイスの耳に入ったのかもしれない。キリシタン絡みの諍いとすれば、ひょっとすると今後のキリシタン政策に関することだったのかもしれない。

以前の記事でも触れたが、羽柴秀吉もイエズス会の危険性について信長に上奏していたから、毛利征伐以降、信長がイエズス会の活動を制限した可能性は高い。

光秀は高山右近のようにキリシタンである寄騎がいたこともある。九州にはキリシタン大名が多く、今後の九州征伐を考えると性急なイエズス会への圧力はあまりよろしくない、と考えたのかもしれない。

光秀は精神的に追い詰められていた?

本能寺の変のノイローゼ説を考える上で重要なことは、「光秀がそこまで精神的に追い詰められていたのか」という点であるように思う。

前に述べたように信長と光秀の間にはちょっとした諍いはあったのかもしれないし、秀吉との熾烈な出世競争で神経をすり減らす局面もあったであろう。しかし、それは当時の武将にとってはごく当たり前のことであったし、基本的に光秀は「勝ち組」なのである。

確かに、滝川一益が甲州征伐において功をあげ、「関東御取次役」を命じられた際には心中穏やかではなかったのかもしれない。

「関東御取次役」はいわば「関東管領」的な役職であったため、近畿管領的な立場にあった光秀が新たなライバル誕生を意識してもおかしくはない。ただ、抜きつ抜かれつを繰り返す出世競争を信長が上手く利用していることを賢明な光秀が気づかぬはずはなく、このようなことで精神的に追い詰められたとは考えにくいだろう。

おわりに

これまで、性格不一致説とノイローゼ説を検証してきたが、ベースにあるはずの信長に対する「怨恨」を裏付けるしっかりとした証拠が極めて少ないという結果となった。

ただ、ふと思ったのは光秀と京都の公家達との関係はかなり密であったから、公家達の「信長にも困ったものだ」というような愚痴を頻繁に聞かされていたのではないかということだ。いわば、刷り込みによるマインドコントロールによって、信長に対する憤りを覚えるようになったのではないかと私は思い始めている。


【主な参考文献】
  • 小和田哲男『明智光秀 つくられた謀反人』PHP研究所、1998年。
  • 小和田哲男『明智光秀と本能寺の変』PHP研究所、2014年。
  • 藤田達生 『謎とき本能寺の変』講談社、2003年。
  • 谷口克広『検証 本能寺の変』吉川弘文館、2007年。
  • 明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』文芸社文庫、2013年。

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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