丁寧に歴史を追求した "本格派" 戦国Webマガジン

【家紋】不動の戦国武将人気No.1!「織田信長」と織田氏の家紋について

  • 織田信長
  • 明智光秀
  • 家紋
 2020/01/07
信長の家紋「織田木瓜」
信長の家紋「織田木瓜」

「あなたが一番好きな戦国武将は誰?」そんな質問を、一度は受けたことがあるのではないでしょうか。戦国時代は戦乱の続く哀しい世であったことは確かですが、激動の時代を力の限り駆け抜けた人々の生きざまは、現代に生きる私たちの心を震わせ続けています。

いずれも魅力ある戦国武将たちですが、殊に人気があるのが「織田信長」だといわれています。 三英傑の一として天下平定への礎を築いたとされ、柔軟かつ斬新な戦法や治世によって戦国の世に覇を唱えた人物であるのは言を待ちません。

あまりにも有名なエピソードの数々は周知のこととして、今回は信長を輩出した「織田氏」の家紋にフォーカスしてみることにしましょう。
(文=帯刀コロク)

信長の出自とは

まず、信長を生んだ織田氏とはどういった氏族だったのかを概観しておきましょう。 その出自には平清盛の孫にあたる「平親真」を始祖とする家伝などがありますが、史実としての信憑性には疑問が呈されています。

織田氏は本来、越前(現在の福井県あたり)の神官から出て、南北朝の頃に越前守護職の「斯波氏」の家臣となったと考えられています。斯波氏が周辺諸国の守護を兼ねていく過程で、織田氏は尾張守護代のポストを代々世襲していくことになります。

しかし織田氏はいくつもの支流に分裂していき、やがて主家である斯波氏が没落すると「織田弾正忠家」という系統が台頭します。 信長はこの弾正忠家の血筋であり、家中の内紛や近隣諸国との紛争に対処しつつ尾張一国の統治者となっていきました。

織田氏の紋について

信長の死後、織田の家紋は二男信雄とその子孫に引き継がれており、江戸時代に幕府に提出された『寛政重修諸家譜』によると、織田氏の家紋は7つあるといいます。以下、順にご紹介いたします。

「織田木瓜」

信長が用いた織田氏の家紋としては、「織田木瓜」が最も有名ではないでしょうか。 「木瓜(もっこう)」は「ボケ」とも読み、梅によく似た花を咲かせる植物に由来すると思われがちですが、家紋としてはこの花とは関係がありません。

織田家の家紋「織田木瓜」
織田家の家紋「織田木瓜」

本来は瓜の断面とも、鳥の巣を象ったものともいわれ、唐代の中国では有識紋として官服にもあしらわれた伝統ある意匠でした。 織田木瓜は五弁の唐花を中心として、木瓜部分が周囲に五つ配置されるため全体として花のように見えるのが特徴です。

「揚羽蝶」

また、平氏の末裔を自称することから「揚羽蝶」も用いていました。この家紋は奈良時代から使用されはじめ、のちに平氏がこれを定紋にしたといいます。

平氏の家紋「揚羽蝶」
平氏の家紋「揚羽蝶」

現在よく知られるところの揚羽蝶は横から見た姿をデザインしたものですが、織田氏では正面から捉えたような輪蝶紋に近いものを使っていたと考えられています。

これは信長の乳兄弟にあたる「池田恒興」に与えられた、丸い蝶紋に通じる形でもあります。

「五三桐」「二引両」

足利将軍家より褒賞として与えられた「五三桐」と「二引両」があります。これらの紋は、斯波氏や今川氏など、足利将軍家の血脈を引く者が使用した高貴な家紋です。

家紋「五三桐」
家紋「五三桐」
家紋「丸に二つ引両」
家紋「丸に二つ引両」

『寛政重修諸家譜』には、"信長が将軍義昭から賜った" とあります。信長が永禄11年(1568年)に上洛して足利義昭を将軍に誕生させたときに、これら2つの紋を拝領したものと考えられます。

ちなみに桐紋は、長興寺所蔵の織田信長の肖像画に描かれています。

「十六葉菊」

このほか、天皇家より下賜された「十六葉菊」もあります。

家紋「十六葉菊」
家紋「十六葉菊」

『寛政重修諸家譜』には、"禁裏(=天皇)より賜った" とだけあり、織田家の誰が賜ったのかはわかりません。ただ、『長篠合戦図屏風』の中で、信長の馬廻り衆の背中に確認できるため、おそらく信長が天皇から賜ったのでしょう。

「永楽通宝」「無文字」

また、旗紋として「永楽通宝」の銭紋、そして「無」の草書体をあしらった「無文字」なども伝わっています。

信長が旗印として使用したとされる「永楽通宝」
信長が旗印として使用したとされる「永楽通宝」
家紋「丸に無文字」
家紋「丸に無文字」

永楽銭紋は信長が旗印として使用したとされており、小瀬甫庵の書いた『信長記』には、信長の旗に永楽銭紋があったことが記してあります。また、長篠の戦いの様子を描いた『長篠合戦図屏風』にも描写されているようです。

信長はこの家紋を黒田官兵衛水野信元仙石秀久に与えたといいます。

また、無文字紋については信長の使用された形跡が全くないため、謎です。

家紋の増加=権力の集中を表していた?

織田氏が用いた織田木瓜は、信長の父である「織田信秀」の時代に当時の主家であった斯波氏から拝領したという家伝があります。 ところが斯波氏の紋は木瓜ではなく、桐と二引両です。木瓜は本来、越前朝倉氏が用いていたものでした。

朝倉氏も織田氏と同じく斯波氏の家中であり、かつて朝倉から織田に娘が嫁いだ際、織田家に木瓜紋がもたらされたと考えられています。これは信長が滅ぼした「朝倉義景」から八代前の「朝倉貞景」の時代のこととされ、そういった意味では織田家にとって木瓜紋は一定の伝統があったといえるでしょう。

先述した家伝の揚羽蝶以外の紋は、信長の時代に追加されたものです。 室町最後の将軍となった足利義昭をサポートした信長は、上洛の功績により家紋を下賜されます。 桐紋は足利将軍家が天皇家より拝領したもので、二引両は足利将軍家の紋でした。

凋落の一途をたどっていたとはいえ将軍家の紋が渡り、朝廷からも天皇家の菊紋が許されるなどしたことにより、公武ともに信長の権威を強化することになったといえるでしょう。

このような家紋の増加は信長への権力の集中を象徴する出来事でもあり、やがて将軍家にとって代わって「織田政権」が形成されていくことにも対応しているようです。

信長自身は新しい価値観に対して柔軟であり、既存の権威を顧みないというイメージが強いかもしれません。 しかし、実際には旧来の権威を上手に利用することにもぬかりがなく、有名な肖像画の裃には織田木瓜ではなく「桐」の紋が描かれている点が注目されます。

織田信長の肖像画(狩野元秀 画、長興寺蔵)
織田信長の肖像画(狩野元秀 画、長興寺蔵)

安土城には天皇を迎えるための館も準備されたといい、後に秀吉が聚楽第への行幸を実現させたことを考えると、朝廷の威光に一定の配慮があったとも考えられます。

天皇家から将軍家へと下賜された桐紋を肖像に使うということは、権力の中心が自身の織田家へと移行したことを示威する狙いもあったのかもしれませんね。

まとめ

とにかく人気のある織田信長という武将ですが、近年ではこれまでの絶対君主としてのイメージも変わりつつあるようです。

果断で時に残虐さを見せつけるようでもありますが、その実は家臣団の結束に苦慮してきた歴史が浮き彫りになっています。 信長の織田木瓜は伝統的なモチーフながら、バランスのとれた非常に美しい家紋であると評価されています。

内政でも活発な経済活動を実現させた信長が見据えたのは、木瓜紋に表されるような調和のとれた未来だったのかもしれませんね。


【参考文献】
  • 『歴史人 別冊 完全保存版 戦国武将の家紋の真実』 2014 KKベストセラーズ
  • 『戦国武将100家紋・旗・馬印FILE』 大野信長 2009 学研
  • 『日本史諸家系図人名辞典』 監修:小和田哲男 2003 講談社
  • 「日本の家紋」『家政研究 15』 奥平志づ江 1983 文教大学女子短期大学部家政科
  • 『安土桃山時代史』 渡辺世祐 1905 早稲田大学出版部
  • 『見聞諸家紋』 室町時代 (新日本古典籍データベースより)


  • このエントリーをはてなブックマークに追加

該当カテゴリと関連タグ



おすすめの記事


 PAGE TOP