【麒麟がくる】第1回「光秀、西へ」レビューと解説

いよいよ始まりました、大河ドラマ「麒麟がくる」。光秀(十兵衛)19歳からスタートです。光秀の前半生は史料が少ないため、ドラマ前半は少ない史料を頼りながら「こうだったんじゃないか?」というドラマが展開するものと思われます。

第1回もさっそく、史実を下敷きにしながらも大胆な設定で始まりましたね。ドラマを振り返りながら、時代背景や当時の人間関係について簡単に解説していきます。

はじまりは天文16年(1547)

冒頭、ナレーションで物語開始時点の時代背景が語られます。応仁の乱以降、都は戦乱続きで荒れ、室町幕府の将軍である義晴は都と近江を行ったり来たり……。室町幕府は正常に機能していない状況にあります。

物語開始の前年である天正15年(1546)、義晴の子・義輝が11歳で13代将軍に就任しましたが、就任式は京ではなく、近江坂本で行われました。ドラマではまだ義輝は登場していませんが、国の政治のトップである将軍の立場もおぼつかない、そういう時代です。


光秀の出身地

美濃の斎藤家に仕える明智光秀は、尾張との国境に位置する明智庄(あけちのしょう/現在の可児市あたり)で生まれ育ちます。

このころ、尾張の織田信秀(信長の父)と斎藤道三は対立関係にありますし、それでなくても国境を守るのは大変ですから、光秀が「こんなのが何回も続くなんてうんざりだ」と思うのも無理はありません。

「麒麟がくる」では光秀の出身地は明智庄という設定で展開しますが、明智城に生まれ、光安という叔父がいる、という設定は江戸時代の軍記物『明智軍記』に由来するものでしょう。

※以下のマップでは明智城のほか、「麒麟がくる」に登場する美濃国や周辺各国の要所の位置が確認できますので、ぜひ拡大縮小してご活用ください。

大河「麒麟がくる」要所マップ。色塗エリアは美濃国。青マーカーは美濃国内の城。

光秀の出自については、系図も複数ありますが、叔父の「光安」の名が確認できるのは『明智軍記』の系図です。

この書物、一級史料ではなく、間違いも多いことが指摘されているのですが、いろいろな書物を照らし合わせて通説では「美濃出身だろう」と言われていますね。

一方、最近では「近江出身説」もにわかに盛り上がりを見せています。


「麒麟がくる」は通説の「美濃出身説」を採用していますが、研究が進めばいつか「光秀は近江出身」という設定でドラマに描かれる日も来るかも?

鉄砲ってなに?

明智庄を荒らし米を強奪していった野盗は、光秀が見たことのない武器を持っていました。鉄砲です。

筒から飛び出した弾丸は鎧を貫くほどの威力がある。野盗に連れまわされていた菊丸から「あれは鉄砲という武器だ」と聞くと、興味をもつ光秀。

鉄砲が伝来したのは天文12年(1543)のこと。種子島に上陸したのが始まりとされていますから、それから4年後の天文16年の美濃でその存在が知られていないのは無理もありません。実戦で使われた初例も天文18年(1549)の島津の加治木城攻めとされていますから、美濃の光秀が鉄砲の存在を知ったのはむしろ早いほうかもしれません。

美濃のマムシの異名をもつ斎藤道三イラスト
美濃のマムシの異名をもつ斎藤道三。彼の国盗りはまさに下剋上そのもの。

さて、主君の斎藤道三(このときはまだ利政と名乗る)に、「鉄砲とはどんな武器なのか、旅に出て探りたい」と直談判します。史実にこんな出来事があったかは不明ですが、光秀が鉄砲に興味を示して旅に出る、という展開はおもしろいですね。

光秀はこの後、道三が義龍に討たれると、越前の朝倉義景を頼って鉄砲の腕で活躍するという説があります(『明智軍記』)。

それを考えると、今後光秀は美濃に鉄砲をもたらした者として鉄砲をうまく活用し、やがて義景仕官コース、という予想もできます。

最近、光秀は医師として活躍したという説も出てきていますが、「麒麟がくる」は通説と新説、どちらが採用されるのでしょうね。

また、斎藤親子の争いに巻き込まれて明智城が落ちた後、牢人として諸国を遍歴したというエピソードもありますから、鉄砲を探る旅に出た、というドラマの設定ももしかしたらそこからきているのかもしれません。


斎藤家の人間関係

道三と義龍

斎藤道三と義龍の親子は、のちに対立して長良川の戦いで雌雄を決します。不仲の原因は、道三が義龍を能無し扱いし、下の弟ふたりを可愛がったことにある、とされています。

第1回の親子対面シーンは短かったものの、「不仲そうだな」と思うほどにはふたりの関係はしっかり描かれていたと思います。

「珊瑚の玉の数を言い当ててみろ」と言う道三に、義龍はぱっと見た感じの印象で「ざっと1500~1600かと……」と答えます。光秀は「20人分の数珠に使う」という情報から、「2000を少し超えるほど」と答えます。根拠のある数字で、ここは光秀の聡明ぶりが強調される一場面です。

一方、ざっと見た感じで答えた義龍は、「お前は必ず敵の数を見誤る」「困った若殿よのう」と、愚か者扱い。光秀は「四書五経」をわずか2年で読み終えた一方、義龍は7年もかかった(本人は6年と主張)と言われ、腹を立てて立ち去ります。もうこの時点で、後の仲たがいの片鱗が見えますね。


帰蝶

後半では、道三の娘でのちに信長の正室となる帰蝶も登場します。

袴をはいて馬にまたがり登場し、城内をドスドスと歩く。そして父・道三に、戦に加えてくれと頼む男勝りなキャラクターが印象的でした。

道三が「わしは嫁に出した娘に加勢を頼むほど落ちぶれてはおらんわ」と吐いて捨てたところ、おそらく多くの視聴者は「おや?」と思ったのではないでしょうか。

この時点で、帰蝶は12歳(数えでは13?)。信長に嫁ぐのはこの2年後のことです。あまり知られてはいませんが、濃姫は信長に嫁ぐ前、天文15年(1546)に土岐頼純(土岐頼芸の甥)の妻になっていたという説があります。ドラマ公式サイトの人物相関図には何も書かれていませんが、そのうち頼純も出て来るのではないでしょうか。



松永久秀と三淵藤英

旅に出た光秀は堺の「辻屋」で、将軍奉公衆の三淵藤英と三好長慶の家臣・松永久秀に出くわします。どちらも今後大きな関りを持つ人物です。

とくに久秀は、自分が来るとわかっていて藤英を店に入れた店主・宗次郎に文句を言っていましたが、ここからわずかに両者の関係性が見えます。

藤英は将軍・義輝に仕える幕臣であり、久秀はのちに将軍とやり合う三好長慶の家臣です。長慶の台頭はこれよりもう少し後ですが、すでにめちゃくちゃ仲が悪いということがよくわかりますね……。

三好長慶の肖像画(大徳寺・聚光院蔵)
のちに主君である細川晴元や将軍義輝らを追い出し、新政権を樹立する三好長慶。そもそも晴元は父の仇だった。

ところで、久秀は光秀が道三家臣と知ると、美濃も道三も好きだといってほめたたえます。道三は油売りから始まったと言われます。同じく久秀自身も、土豪、または商人出身で道三とは同郷という説もありますから、親近感を抱いたのかもしれません。

また、名ばかりの名門を追いやって下剋上を果たした道三を評価しました。久秀自身、戦国三大梟雄のひとりとして有名。第1回から「久秀らしさ」を見せつけてくれました。

光秀から聞きたい情報をうまく聞き出すしたたかさ、お金まで盗むかと思いきや、翌朝そのお金で鉄砲を用意してあげるところ、なんかチャーミングでいいですね。



物語後半へつながる主題

小見の方(道三正室)の治療のために名医を、と尋ねた望月東庵の元で、光秀は思わぬ出会いを果たします。戦災孤児の少女・駒です。

駒は「いつか戦は終わる。戦を終わらせる人が現れる。その人は麒麟を連れてくるのだ」とある人が言っていた、と言います。

作品タイトルになっている大きな主題ですが、光秀は美濃での野盗との戦い、堺までの道中を振り返り、「どこにも麒麟はいない」と言い放ちます。美濃にも京にも堺にもいない。誰かが変えなければならない、と。

駒は「麒麟がくる」オリジナルキャラクターであり、史実にはいない人物ですが、この作品においては光秀に人生の主題を与える存在であり、それを見とどける役目を負っているのだと思います。もしかしたら光秀の分身と言ってもいいのかもしれません。

次回は「道三の罠」加納口の戦い

第1回ラスト、美濃に織田信秀が稲葉山城に攻め込んできました。天文16年(1547)の9月22日、加納口の戦いの始まりです。この合戦は、信長と帰蝶の婚姻にも大きく関わる出来事。次回はついに信長も登場かも?



【参考文献】
  • 二木謙一編『明智光秀のすべて』(新人物往来社、1994年)
  • 奥野高広・岩沢愿彦・校注『信長公記』(角川書店、1969年)
  • 高柳光寿『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)

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  この記事を書いた人
東滋実 さん
大学院で日本古典文学を専門に研究した経歴をもつ、中国地方出身のフリーライター。 卒業後は日本文化や歴史の専門知識を生かし、 当サイトでの寄稿記事のほか、歴史に関する書籍の執筆などにも携わっている。 当サイトでは出身地のアドバンテージを活かし、主に毛利元就など中国エリアで活躍していた戦国武将たちを ...

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