城は要塞というだけに留まらず、拠点的なものではその国の政庁として機能する場合もありました。
そこでは刀槍による戦いだけではなく、過酷な政治上の駆け引きも行われたのです。
そんな歴史を運命づける場となった城のひとつが「清洲城」です。
いわずと知れた織田信長の尾張掌握の証にして、その後継者などを決める「清洲会議」の舞台ともなった運命の城です。
今回はそんな清洲城の歴史を概観してみましょう。
清洲城は現在の愛知県清須市に所在した城で、平地に築かれた平城というタイプのものです。
尾張国のほぼ中心に位置し、守護所として機能した時期もありました。
その歴史は古く、応永12(1405)年に室町幕府管領・斯波義重により築城されました。
清洲城が尾張の守護所となったのは文明10(1478)年のことで、それまでの下津城が守護代・織田家の内紛によって焼失したことによる移転でした。
清洲城は一時期、弾正忠家の織田信秀が奉行として入りましたが、基本的には守護代・織田大和守家の居城でした。
これを信長が手にしたのは弘治元(1555)年のことで、主家の織田信友を退けての尾張掌握でした。
信長は家督をめぐって弟の信勝と対立し、戦にもなりますが最終的に永禄元(1558)年、清洲城で謀殺し弾正忠家当主の座を制します。
永禄5(1562年)年には徳川家康との同盟条約を清洲城で締結し、翌年には美濃との決戦に備えて拠点を小牧山城に移転。清洲城は城主を置かず将が守備する番城となります。
天正10(1582)年、信長亡き後の織田家の継承問題などを決める清州会議が清洲城で行われ、天正14(1586)年には城主となった信長次男の信雄によって改修を受けます。
豊臣政権下では文禄4(1595)年、福島正則が清洲城主となりましたが、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いにおいては東方の拠点のひとつとして使われ戦後は家康四男の松平忠良が城主となりました。
慶長12(1607)年には家康九男・徳川義直が城主となりますが、慶長15(1610)年の遷府命令により清洲城下が名古屋へと移転します。
慶長18(1613)年に名古屋城が完成し、城下移転が完了したことにより清洲城はその役目を終え、廃城となりました。
現在見ることのできる清洲城は模擬天守であり、平成元(1989)年に清洲町制100周年を記念して建てられたものです。
徳川の世では最終的に、尾張の政庁は名古屋城へと集約されていきます。
しかしそれまで尾張の中心的な城として、清洲城は象徴的な役割を果たしてきたことがうかがえます。
清洲城は西へは京都、東へは鎌倉、そして伊勢街道や中山道にも合流する交通の要衝でした。
信長が織田宗家から清洲城を奪取したこと、家康との同盟締結の場となったこと、秀吉が織田家の後継として発言力を高めた清洲会議が行われたこと等々、重要な出来事の舞台となっています。
特に織田氏時代にその傾向が顕著で、この城こそが尾張の中心という観念が強かったことをうかがうことができます。
織田氏の歴史の転換点に深く関わった清洲城。
いまの姿は現代の模擬天守としての再建ですが、まさしく運命の城と呼ぶにふさわしい重要性をもっていたことがいえるでしょう。
信長にとっても天下への道を確かなものにした、特別な城だったのではないでしょうか。
※参考:略年表
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