秀吉の三大城攻めのひとつ、「三木の干殺し」の舞台。「三木城」の歴史について

帯刀コロク
 2021/01/19

三木城跡にある別所長治像
三木城跡にある別所長治像

強力な防御施設である城郭を攻略するためには、古くから数倍する兵力を投入する必要があるとされてきました。 その攻撃には多大な犠牲が強いられ、双方ともに消耗戦の様相を呈することも珍しくありませんでした。

そんな攻城に際して有効とされた戦法のひとつが「兵糧攻め」です。よく知られる通り、補給線を遮断して食糧等の供給を止め、城方の降伏を待つというものです。

今回は秀吉の「三大城攻め」のうち、兵糧攻めの対象として著名な播磨国三木城の歴史についてみてみましょう。

三木城とは

三木城は現在の兵庫県三木市上の丸町に所在した平山城で、釜山城や別所城の別名でも知られています。

美嚢川左岸の河岸段丘上、姫路と有馬を東西に結ぶ街道のほぼ中間地点という交通の要衝に立地。 上の丸と呼ばれる本丸は標高約58メートル・比高約20メートルに位置し、二の丸・南構・新城・鷹ノ丸・宮ノ上ノ要害などから構成されています。

三木城の位置。他の城名は地図を拡大していくと表示されます。

城域は南北約450メートル・東西約55メートルという細長い配置であり、二の丸は現在の三木市立みき歴史資料館のあたり、城の南東端は三木市文化会館のあたりと考えられています。

築城年代は定かではありませんが、長享年間(1487~89年)の頃に別所則治により築かれたものと推定されています。

三木城は播磨国守護であった赤松氏庶流の別所氏が代々居城としてきましたが、下剋上により赤松氏をしのぐ勢力となった浦上氏などの攻撃に度々さらされることになります。

天文23(1554)年、別所氏は三好氏と衝突。激戦の末、翌年には三好長慶の傘下となりますが、永禄12(1569)年には離反して織田信長のもとにつく選択をしました。

しかし天正6(1578)年に羽柴秀吉から離反、三木城に籠城し織田信忠軍に包囲されるという、三木合戦が始まります。

指揮権を委譲された秀吉は、堅城として知られる三木城攻略作戦として兵糧攻めを立案。翌年には信忠が帰陣し、三木城を孤立させるための工作を行います。

その結果、天正8(1580)年に三木城は落城。以降複数人の武将が城主を務めましたが、元和元(1615)年の一国一城令により廃城になったとされています。

ちなみに古記録によると、元和5(1619)年に着工した明石城建設のため、三木城などの部材が転用されたことが記されています。

平成2~19(1990~2007)年に、三木市教育委員会が数次にわたる発掘調査を実施。 平成25(2013)年には 三木城本丸・二の丸・鷹尾山城跡が、秀吉本陣跡などの付城跡とともに国の史跡に指定されています。

三木城の補給線遮断と三木の干殺し

三木城の兵糧攻めにあたっては、その補給線を遮断して孤立させるために大規模な土木工事を伴う作戦が展開されました。

当初は三木城南側に六か所の付城を築城、さらにそれらを連結する土塁線を構築して兵糧搬入を妨害。 最終的には三木城を囲む南北約5キロメートル・東西約6キロメートルの範囲に40余りもの付城を設け、完全に孤立させるという状況をつくりだしました。

こうして三木城は完全包囲による兵糧攻めの結果、落城することとなったのでした。

まとめ・略年表

徹底した包囲戦の様相をよく伝える、三木城とその周辺の遺構群。裏を返せば、城郭ひとつの防御機能がいかに強力であったかという証ともいえるでしょう。

現在では往時の激戦を思わせるような雰囲気は残っていないとされていますが、戦国の世に思いを馳せる時、そういったことにも想像をめぐらせてみてはいかがでしょうか。

※参考:略年表
長享年間(1487~89年頃)別所則治により築城推定)
享禄2年
(1529年)
浦上村宗が三木城を攻撃、西出張口で戦闘
享禄3年
(1530年)
浦上村宗により三木城が落城
享禄4年
(1531年)
浦上村宗討死、別所就治が三木城を奪還
天文7年
(1538年)
尼子詮久の攻撃を受けるが守備に成功
天文8年
(1539年)
淡路に逃れていた赤松政村が三木城に入城
同年閏6月別所一族の威厳寺何某が謀反により三木城に乱入、留守衆が南構で防戦
同年11月赤松政村が三木城より和泉堺へ移動
天文23年
(1554年)
三好長慶が三好長逸を派遣、別所氏を攻撃し属城7か所を攻略。翌年和睦し別所氏は三好氏の傘下に
永禄12年
(1569年)
別所安治が三好氏を離反、織田信長につく
元亀元年
(1570年)
浦上宗景が三木城を攻撃
天正6年
(1578年)
別所長治が羽柴秀吉を離反、三木城に籠城。同年織田信忠の軍が三木城を包囲、信忠帰京により指揮権を羽柴秀吉に委託
天正7年
(1579年)
織田信忠が播磨の陣に帰還、三木城兵糧攻めのため付城や土塁線を構築
天正8年
(1580年)
三木城が落城
同 年杉原家次が城主に。のち、前野長康が城主に
天正13年
(1585年)
中川秀政が城主に
文禄元年
(1592年)
中川秀成が城主に
文禄3年
(1594年)
豊臣氏の蔵入地となる
慶長6年
(1601年)
伊木忠次が城主に
元和元年
(1615年)
一国一城令により三木城は廃城に
元和5年
(1619年)
明石城が着工、三木城などの部材を利用
平成2年
(1990年)~
三木市教育委員会が発掘調査開始、2003・2006・2007年にも実施
平成25年
(2013年)
三木城本丸・二の丸・鷹尾山城跡が秀吉本陣跡などの付城跡とともに国の史跡に指定

【主な参考文献】

  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術に ...

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