兎耳に大根、裸に騎士風? 超変わり種の兜と鎧

 武人の身体を防護し、生命を守るために発達していった鎧兜。単純な防具としての機能だけではなく様々な装飾が施され、工芸品としての価値から美術として愛好する人たちも多いジャンルです。

 かつて武人たちは、戦場においてその「武者ぶり」をアピールするという美学をもっていました。侍大将クラスの人物であれば、その存在と所在を知らしめるという現実的な理由から、「目立つこと」が必要でもあったでしょう。しかし、己の身命を預ける武具に様々な飾りを施し、戦働きにおいてその武功を示すことは、敵味方を問わず自身の存在を強く印象付けるという効果も生み出したのです。

 そんななか、鎧兜にはとてつもなく巨大な飾りや、一見突拍子もないような飾りが付けられたものも無見受けられます。ですがどんなに奇抜なものでも、そこには意味や願い、そして信条などが込められていたのです。

 今回は、そんな変わり種の兜と鎧についてご紹介したいと思います!

兎の耳付き兜!?

 明智光秀の従兄弟とも伝わる明智秀満。通称は「左馬之助」で「光春」の俗称があるなど、出自には不明な点が多いものの、琵琶湖を馬で渡ったという「湖水渡り」の伝説をもつ武人として知られています。そんな勇将の鎧兜が、東京国立博物館に所蔵されています。

 何よりもまず目を引くのが、兜に設えられた二本の角のようなもの。よく見ると、なんと「兎の耳」が付いているではありませんか!

光秀が信頼した家老のひとり、明智秀満(光春)
光秀が信頼した家老のひとり、明智秀満(光春)


※参考:外部リンク 東京国立博物館HP 画像検索「光春着用の南蛮胴具足」

 武将の兜といえば厳めしい立物や、強力な神仏のモチーフなどが思い浮かびますが、かわいらしい兎の耳と武具というギャップに、ついつい驚いてしまいますね。しかし実は、兎の耳をあしらった兜飾りというのはいくつかの事例があり、単純に可憐な動物という位置づけとは異なるものだったようです。

 兎の耳のデザインは文字通り「兎耳形(とじなり)」といい、原野を縦横無尽に駆け回るその俊敏さにあやかったものともいわれています。

 また、「月に兎」の言い伝え通り、兎の兜には一緒に月がデザインされている例も多くあります。これは古代中国の伝説で「金烏玉兎」というように、太陽には烏が、月には兎が住んでいるとされたことから、兎=月への信仰とも関りがあると考えられています。

 一見するととてもかわいらしい兎耳のデザインですが、その実は深いいみがあるのですね。

大根モチーフの飾り付き兜!?

 兜の飾りには厳めしいものやかっこいいもの、威圧的なものや雅やかなものなどがありますが、中には「なぜこのデザインを選んだのだろう?」と不思議に思ってしまうようなものもあります。

 そのひとつが、なんと「大根」。花や歯朶などをあしらったものは目にしますが、身近で安価な食材として親しまれている大根は、武具の意匠として似合わないのではという気がしてしまいますね。

 ところが、これにも深いわけがあるのです。兜の飾りには神仏に関係するものが多いのは周知のとおりですが、この大根、実は「大黒天」へのお供え物でもあるのです。正確には「甲子(きのえね)」の日に二股大根を供物にするのが習わしで、大根=大黒天へとつながる信仰を表しているとされています。

二股大根の写真

 現在では七福神の一柱として縁起のいいイメージの大黒様ですが、「天」と名の付くものは本来古代インドの魔神が多く、やがて仏法の守護者となったという経緯をもっているのです。大黒天も同様で、大黒とはすなわち「大暗黒」のことで、恐ろしい霊威をもった魔神として信仰されていました。これなら、戦国武将が兜飾りにするのも頷けますね。

 事例としては、2012年度の栃木県立博物館企画展「北関東の戦国時代―戦国の終焉―」に出展された、黒漆塗の兜に金色の二股大根の前立をあしらったものが有名です。

裸風の鎧!?

 胴体は面積が大きく、刀槍の傷を受けると致命傷になりやすいため、念入りに守るべき部位として鎧も京後に発達しました。ところが、鎧なのに一見するとまるで「裸」のままであるかのようなものが存在しています。

 東京国立博物館所蔵の「仁王胴具足」が有名で、裸の肉体に見えるデザインを鉄で作り上げているという、不思議なスタイルの鎧です。

 東京国立博物館HP 画像検索「仁王胴具足」

 甲冑を身に着けない裸形と、仁王のような肉体を思わせる威圧感による勇猛さを示すと同時に、たいへん目立つ鎧であったことが想像されます。胴前面には臍や乳首、あばら骨の隆起などを表現しており、独特の迫力を感じさせます。

 また、加藤清正所用と伝わる鎧には右側だけが裸形という「片肌脱ぎ」の胴があり、これも不思議な風格を醸し出しています。

騎士風の鎧!?

 甲冑が発達したのは日本だけのことではなく、西洋でも騎士の身体を守る防具として、全身を覆うようなスタイルで完成されていきました。

 戦国時代の日本にも、交易によってそんな西洋騎士の甲冑がもたらされたことがわかっており、そのデザインは武将たちにも少なからぬ影響を与えました。

信長と黒人弥助のイラスト
南蛮胴甲冑をつける信長と黒人弥助のイラスト

 有名なものとして、日光東照宮宝物館蔵の徳川家康所用「南蛮胴甲冑」が挙げられます。これは輸入された西洋の甲冑を加工し、日本風の鎧として使用したもので当時の武人たちに広く受け入れられたスタイルとなったようです。

 鉄砲が戦場に導入されるようになり、従来の鎧では防ぎきれなくなった弾丸への防御に優れた一枚鉄板の南蛮胴は、やがてそのコンセプトと意匠を受け継いで国産の鎧にも採用されていきます。西洋と東洋の、不思議な調和が生み出される甲冑として、独自の美を感じさせるものです。

おわりに

 鎧兜にはまだまだかなり奇抜なデザインがありますが、そこに込められた願いや意味を考えると、どれも切実なものであることがわかります。

 それは美学や実用だけではなく、「祈り」にも似たものであることも多く、武将たちの心情に思いを馳せるのも楽しみ方のひとつですね。


【参考文献】
  • 『歴史群像シリーズ【決定版】図説・戦国甲冑集』監修・文 伊澤昭二 2003 学習研究社
  • 『完全保存版 甲冑・刀剣のことから合戦の基本まで 戦国武将 武具と戦術』監修 小和田泰経 2015 枻出版社

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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