主君・武田勝頼の身代わりとなって討死! ”忠臣の鑑” 笠井満秀に関する奇妙な話
- 2025/01/09
「我こそは、山田太郎高家の十二代の後胤、笠井肥後守満秀なり」
天正3年(1575)の長篠の戦いは、武田家が数多くの武将を失った戦いです。その中で、主君である武田勝頼の身代わりとなって討死した笠井肥後守満秀(かさいひごのかみみつひで)という武将をご存知でしょうか?
今回はこの笠井満秀に関する奇妙な話をご紹介します。
“忠臣の鑑” 笠井満秀
時は天正3年(1575)5月21日。早朝から始まった長篠の戦いで武田軍の敗戦は濃厚となり、武田勝頼は僅かな兵を引き連れて戦場から離脱します。橋詰という場所まで逃げてきた時、勝頼の馬は疲労により動けなくなってしまいます。追ってくる織田・徳川の軍勢はすぐそこまで…。この時、笠井満秀が勝頼の下に走り寄り、次のように言い、自分の馬に勝頼を乗せて逃がします。
「命は義より軽い御恩に報いる為のわが命」(『甲陽軍鑑』より)
そして名乗りをあげて敵中に踊り込み、敵の瀧川源右衛門助義と一騎打ちの後、相討ちして果てたそうです。
「我こそは、元弘建武の昔、南朝の忠臣新田の朝臣義貞公に代って、摂津国阿倍野で名誉の戦死を遂げたる山田太郎高家の十二代の後胤、笠井肥後守満秀なり」
彼のおかげで勝頼は甲斐まで逃げることができましたが、主君のために身代わりとなった様子は、まさに“忠臣の鑑”です。
なお、満秀の子である慶秀は武田家滅亡後、大谷吉継に仕えました。関ヶ原の戦い(1600年)で大谷吉継が死んだ後、慶秀は井伊家を訪ねますが、井伊直政は彼の亡父の忠節を鑑み、禄を与えて家臣にしたといいます。
満秀の忠臣っぷりは子孫にまで大きな影響を与えたのですね!
笠井満秀ってどんな人?
『甲陽軍鑑』で「笠井肥後守(河西満秀)という、信玄公の御代から旗本において指おりの剛強な武者」
と紹介される笠井満秀は、“高利(たかとし)” という名前で資料や文献に登場することもあります。
『甲斐国志』を見ると、清和源氏の流れを汲む南部光行を祖とする南部宗秀を父としています。宗秀は武田家家臣の中でも高い地位にいたようですが、濫行を犯し天文17年(1548)に武田家を追放されています。
一方、満秀については永禄12年(1569)の駿河国大宮城(富士宮市)攻めに関して
「五月、武田信玄、諏訪郡河西肥後守ノ戰功ヲ賞ス」
(『信濃史料 巻十三』より)
という記述が見えますので、満秀は南部姓ではなく河西姓を名乗っていることが分かります。
武田家を追放された父と同じ姓を名乗りたくなかったのでしょうか?何やら理由がありそうですね。
因みに、長篠で討死した後に近くの川沿いにお墓が作られたそうですが、流されて無くなってしまったようです。なお、現在は新城市出沢の龍泉寺に彼の供養塔があります。
奇妙な満秀と笠井氏
長篠の戦い当時、満秀の居城は静岡県浜松市の笠井町にあった笠井城だったといわれています。笠井城は徳川家康の居城である浜松城から北東約9kmにあり、三方ヶ原の戦い(1573年)以降は、天竜川対岸にある匂坂城や二俣城と連携して家康に牽制をかける武田側の重要な城だったと思われます。
残念なことに現在は石碑を残すのみで、城に関する文献もほとんど残っていません。しかし、地元の中学校が編纂した『わが郷土 笠井地区その風土と文化』という本に、笠井城と笠井氏についての記述がありますので、内容を抜粋して紹介します。
- 笠井城は桓武天皇の流れを汲む葛西三郎武常が平安末期に造った
- 笠井にある福来寺に笠井氏の系図が残っている
- 笠井貞豊の代(15世紀)から武田に仕えるようになった
- 貞豊の孫になる笠井定明は武田信玄に仕えて多くの手柄をたてた
- 定明は城の出丸にお寺を創立したが、これが今の定明寺になる
- 定明の子、高利は1536(天文5)年に笠井村で生まれた
- 高利は長篠の合戦で主君武田勝頼を助けるためその身代わりとなった
- この時、家来3人が高利の死骸を引き取り、笠井の定明寺に葬った
ちょっと奇妙な内容ですよね?『甲斐国志』『甲陽軍鑑』の記述内容や長篠に残る伝承と全然違います。“武田に仕え、長篠の戦いで勝頼の身代わりになって討死した” という点しか共通点がありません。
これについて、同書では次のように綴っており、満秀や笠井氏の奇妙さを指摘しています。
「この笠井肥後守高利の記録は甲州の系譜にもみられるが、笠井の系譜とは全く異なっている。」
確かに別人の話のようです。
奇妙な点の真相を探る!
そこで、この奇妙な点の真相を探るため、笠井家の系図があるという 「福来寺」と、笠井定明が創立した 「定明寺」を調べてみました。『笠井氏系譜』がある福来寺
福来寺に残る『笠井氏系譜』の内容が神谷昌志氏の著『はままつ歴史発見』に記されていますので紹介します。笠井備後守定明
「出丸ノ地ヲ開寺建立ス、元亀元年正月十一日、貞明寺三代長円和尚ヲ移シ、寺号ヲ改メ定明寺号ス」
笠井肥後守満秀
「天正三年五月廿一日、長篠合戦之節、主君武田勝頼ノ身替リトナリテ討死。家臣井上伊兵衛、中屋七兵衛、石田嘉兵衛、主人ノ死骸ヲ織田徳川両家ニ渡サズ、遠江笠井江引取、定明寺ニ葬」
これを見ると『わが郷土 笠井地区その風土と文化』に書かれた内容は『笠井氏系譜』を基にしていることが分かります。しかし、この『笠井氏系譜』は現在は行方不明。よって、こちらの調査は終了となりました。
定明が創建した定明寺
定明寺の縁起は「元亀元年に笠井備後守定明が、笠井城の出丸の跡にお寺を建て、「定明寺」と寺の名を改めました。その息子備後守(※肥後守の間違いか? 筆者注)高利は、武田勝頼に仕え、長篠の合戦の時に勝頼の身代わりとなって討ち死にし、定明寺に葬られたといわれています。文禄年間(1592〜1595年)と江戸後期(1780年頃)に、二度の火災に遭い、お寺の古い記録などは一切焼失してしまい、詳しい事は分かりませんが、現在の本堂は寛政2年(1790)に建てられたといわれています。」
と書かれています。
また、『わが町文化誌 笠井』に書かれた定明寺の由緒は
「長禄2年(1485)4月、開山。寺号を貞明寺と名付けた。元亀元年(1570)正月、最初の寺号貞明寺から現定明寺に改められた。」
となっています。
定明寺という寺号は笠井定明の名が由来と思われることや、定明寺が笠井城跡のすぐ近く(出丸跡?)にあることから、定明と笠井城の関係については『笠井氏系譜』の内容は真実に近いと考えられます。しかし、定明寺に満秀の墓は存在しません。
定明寺の住職も
「2度の火災でお寺や笠井氏に関する物がなくなってしまい、真相は分からない。」
こちらも調査終了です…。
笠井氏に関する別の資料があった
満秀や笠井氏について更に調べていくと、他にも資料が存在することが分かりました。満秀の子孫であり政治家だった笠井重治氏が著した『笠井家哀悼録』です。こちらは概ね『笠井氏系譜』と定明寺の縁起(由緒)の内容と一致しますが、
- 笠井定明が長禄2年(1458)、笠井村に定明寺を開山
- 武田信虎の下で数々の武功を上げ、西島岩間庄(山梨県南巨摩郡見延町西嶋)を与えられた笠井豊清の子が高利(満秀)
の2点は随分と違います。
満秀の父は豊清で、定明は100年近く前の人物設定です。もう、訳が分かりません…。
最後に
知れば知るほど奇妙なくらい出自が異なる満秀と笠井氏。以下は筆者の考えです。- 笠井を治める笠井定明が貞明寺を笠井城内へ移転させ、定明寺と改名させた。
- 満秀(高利)は南部宗秀の子だったが、定明の養子になって笠井を継いだ。
- 笠井は徳川家康の動きを監視する武田にとって重要な場所のため、そこを治める笠井氏を“指折りの剛強な武者”である満秀に継がせたのではないか。
これであれば、全ての資料について、ある程度の整合性がとれるハズ…。
いかがだったでしょうか?今回は笠井満秀に関する奇妙な話を紹介しました。真相がはっきりしていないので、筆者なりの考察も書いてみましたが、案外
”同姓同名の笠井満秀(高利)が2人いて、互いの功績が混合して今に伝わっている”
なんてことが真実だったりするかも。みなさんはどう思いますか??
【主な参考文献】
- 神谷昌志『はままつ歴史発見』(静岡新聞社、1987年)
- 高森圭介『原本現代訳「甲陽軍鑑」』(教育社、1980年)
- 二木謙一『長篠の戦い』(学研、1989年)
- 信濃史料刊行会『信濃史料 巻十三』(1959年)
- 設楽原をまもる会『設楽原戦場考』(1999年)
- 浜松市笠井公民館『わが町文化誌 笠井』(1993年)
- 浜松市立笠井中学校『わが郷土 笠井地区その風土と文化』(1982年)
- 笠井重治『笠井家哀悼録』(1935年)
【取材協力】
- 無量山寶珠院定明寺
- 観光山福来寺
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