大河ドラマ「光る君へ」 藤原道長を襲った晩年の相次ぐ悲劇とは?娘を襲った物怪の正体とは?
- 2024/12/16
大河ドラマ「光る君へ」第48回(最終回)は「物語の先に」。
寛仁2年(1018)、藤原道長は三女の威子を後一条天皇(一条天皇と道長の娘・中宮彰子の子)の中宮とし「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」との「誇りたる歌」を詠みますが、晩年には相次ぐ悲劇が訪れます。
道長とその正妻・倫子の4女・嬉子は、敦良親王(後の後朱雀天皇)に入内(1021年)しており、万寿2年(1025)に懐妊します。妊娠中に赤痘瘡(麻疹)を患ってしまったり、物怪に苦しめられたりした嬉子でしたが、同年8月3日、土御門第において、難産の末、無事に皇子を出産します。後に後冷泉天皇となる男子を出産したのです。
ところが産後、嬉子は体調が悪化。同月5日に19歳の短い生涯を閉じるのでした。道長・倫子夫妻は、愛娘の死に意気消沈したと言います。嬉子の死の約1ヶ月ほど前には、道長とその妻妾・源明子との間に生まれた寛子が他界しています(寛子は、三条天皇の皇子・敦明親王に嫁いでいました)。
寛子の死は、藤原顕光とその娘・延子(敦明親王の妃)の怨霊(物怪)によるものとされました。顕光は、藤原兼通(兼通の弟は、道長の父・兼家)の長男。顕光は、娘の延子を敦明親王の妃としますが、道長の娘・寛子に親王の寵愛を奪われてしまいます。顕光も延子もその事を恨みに思っていたので、死後に寛子に取り憑き、ついに死に至らしめたと考えられたのです。
さて、万寿4年(1027)5月には、出家していた道長の3男・顕信(母は源明子)が34歳で他界。同年9月には、道長の次女・藤原妍子(母は倫子)が病で崩じます。道長は僅か数年の間に4人の子女に先立たれたのです。そして病に苛まれていた道長もまた万寿4年(1027)12月4日、62歳でこの世を去ります。道長の父・兼家も同歳で亡くなっています。
ちなみに、大河ドラマ「光る君へ」において、道長と恋仲になり、その子を産んだ紫式部の没年は分かっていません。
【主要参考文献】
- 朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007年)
- 倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023年)
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