地形のプロ「原昌胤」…戦場で武田信玄も頼った、その才覚と奥義とは?

原 昌胤の肖像(イラスト)
原 昌胤の肖像(イラスト)
 「人は城、人は石垣、人は堀」の名言で知られる戦国大名・武田信玄。その言葉どおり、その陣容には卓越した才能を持つ家臣たちが多く集まっていました。今回ご紹介する原 昌胤(はら まさたね)もその一人で、武田二十四将にも数えられています。

 戦場での華々しい活躍はあまり知られていませんが、彼は一体どんな才能を持っていたのでしょうか?原親子にまつわる伝説とともに、その知られざる功績に迫ります。

甲斐の名門、高畠の原氏

 信玄の家臣には、足軽大将として活躍した原美濃守虎胤も有名です。同じ「原」姓で名前も似ているために混同されがちですが、両者はまったく別の家系です。虎胤の原氏が下総国から流れてきたのに対し、昌胤の原氏は甲斐国高畠(たかばたけ)の出身で、古くから武田家に仕える譜代の家柄でした。

 甲府の一蓮寺に残されている「一蓮寺過去帳」には、戦没者の名前が記載されてますが、長禄元年(1457)の高畠の合戦で戦死した原衛門四郎が、昌胤の祖先ではないかと考えられています。

 昌胤の父親である原加賀守昌俊もまた武田二十四将の一人です。弓の腕前に長けていた昌俊は、息子である昌胤に武士としての心得を説きました。

「日頃から武士たる者、いかなる武器も一通り使いこなせるようにし、いざというときにはどんな武器でも人一倍活躍できるように心がけよ」

 この言葉に感銘を受けた信玄は、全将兵の教訓にしたといいます。父親の教えを守った昌胤は、生涯で敵の首を5つも挙げ、その中には采配を振るう大将も含まれていたと伝わっています。

 しかし、昌胤の真に優れた才能は武勇ではありませんでした。それは父親から受け継いだ、信玄にとって何よりも重要な力だったのです。

『武田二十四将図』に描かれた原昌胤(出典:ColBase)
『武田二十四将図』に描かれた原昌胤(出典:ColBase)

親から子へと受け継がれた伝説の奥義

 『甲斐国志』には、昌胤にまつわる2つの伝説が記されています。

 1つは、病没した母が数日後に蘇り、昌胤を生んだという摩訶不思議な物語。英雄の誕生を彩るフィクションでしょうが、昌胤が超人的な存在と見られていたことがわかります。

 もう1つの伝説が、昌胤の才能の核心に迫るものです。父親の昌俊が旅の異人から、築城や地形の読み方の奥義を授けられたというのです。この奥義を父から学んだ昌胤は、軍勢の最後尾で地形を観察したり、初めての土地では先頭に立って斥候を務めました。昌胤が先導すれば、武田軍は安全に進軍できたといいます。野営地を決めるのも彼の役目で、常に適切で堅固な陣地を築き上げました。

 この地理を見抜く力を信玄は高く評価しており、領土が拡大するにつれて必要となる道の敷設の一切を昌胤は任されていました。新たに加わった2千人の兵を率いて道を整備し、各地の要地を素早く繋いでいったのです。昌胤は、広大な領地を統治する上で、信玄に欠かせない貴重な存在だったのです。

武田軍の窮地を救った「樽峠越え」

 天文18年(1549)に父昌俊が亡くなると、昌胤は家督を継いで、百二十騎を率いる侍大将となります。さらに信玄の側近として出世を重ね、譜代家老の最高位である「両職」を山県昌景と共に務めました。

 永禄4年(1561)の西上野制圧の際には、高山氏、小幡氏、高田氏の取次ぎを任されて統括しました。永禄10年(1567)に信玄が家臣に忠節を誓うよう起請文を強要した際は、昌胤が上野国衆の起請文を取り集めています。

 永禄11年(1568)末、武田軍は今川氏を攻め、駿府を占領します(駿河侵攻)。これに対して北条氏は今川に援軍を送り、武田の帰国路である薩埵峠(さったとうげ)を封鎖。ここに長く続いた武田・北条・今川の三国同盟は破綻となりました。

駿河侵攻(1568~70)の直前における武田と他勢力の関係
駿河侵攻(1568~70)の直前における武田と他勢力の関係

 退路を断たれ、絶体絶命の危機に陥った信玄は昌胤を呼び出し、本拠地の甲府へ帰る道を探すよう命じます。そして信玄が北条氏の防御網を攻め立てて時間を稼いでいるわずか2日間で、昌胤はまさか誰も通らないであろう樽峠を越える道を発見しました。

 昌胤が見つけた新ルートから無事に甲府へ撤退した出来事は、のちに信玄の「樽峠越え」として語り継がれることになります。北条軍は追撃の機会を失い、武田軍は大きな損害を出さずに済んだのです。

 昌胤の地形を見抜く才能は、武田軍の命運を左右するほど重要なものだったといえるでしょう。

長篠の戦いで散る

 昌胤はその後も、飛騨国攻めでは先導役を務めるなど、地味ながらも武田氏の勢力拡大に大きく貢献し続けました。

 しかし、元亀3年(1573)、徳川氏との三方ヶ原の合戦で、19歳になる次男・原宗一郎昌弘を戦場で失うと、続いて天正3年(1575)の長篠の戦いで、山県昌景とともに左翼を担った昌胤は、徳川軍の石川数正と激突。敵の銃弾を浴びて討ち死にします。

『長篠合戦図屏風』の一部分(模本。出典:colbase)
『長篠合戦図屏風』の一部分(模本。出典:colbase)

 家督を継いだ嫡男の昌栄も、そのわずか5年後に戦死。昌胤から受け継がれた地形を読む貴重な才能は、三男の貞胤へと伝えられました。武田氏が滅んだ後も、原氏は真田氏に仕えることを許されます。原氏の才能は、真田氏の領地経営や軍事にもきっと役立ったに違いありません。


【参考文献】
  • 平山優『新編武田二十四将正伝』(武田神社、2009年)
  • 柴辻俊六『武田信玄合戦録』(角川学芸出版、2006年)

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  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執筆。 「もしこれが起きなかったら」 「もしこういった采配をしていたら」「もしこの人が長生きしていたら」といつも想像し、 基本的に誰かに執着することなく、その人物の長所と短所を客観的に紹介したいと考えている。 Amazon ...

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