「今川氏真」今川滅亡の憂き目にあう義元の後継者。実は戦国大名の超サラブレッドだった!?
- 2019/12/20
今川義元の後を継ぎ、今川氏の当主となった今川氏真(いまがわ うじざね)。彼もまた父と同様、公家と盛んに交流して和歌や蹴鞠の会を多く催しており、武術よりも文化に傾倒していった感は否めません。当時の今川家は駿河・遠江・三河の3つの国を支配し、過去最大の勢力となっていました。にもかかわらず、桶狭間合戦で信長に敗れて以降は、滅亡の道をたどっていきます。
さて、大国の今川氏が没落していく過程とはどんなものなのでしょうか? 今川氏真の生涯とともにその過程を見ていきましょう。
さて、大国の今川氏が没落していく過程とはどんなものなのでしょうか? 今川氏真の生涯とともにその過程を見ていきましょう。
幼少期の氏真
今川氏真は天文7(1538)年、今川義元と定恵院(武田信虎の娘)との間に嫡男として誕生しました。今川家といえば足利将軍家の庶流であり、氏真の母はあの武田信玄の姉にあたる人物ですから、彼はまさに今川と武田の血脈を受け継いだ戦国大名のサラブレッドといった感じでしょうか。
氏真には妹2人しかいなかったからなのか、幼少期は ”唯一の家督を継ぐ者” として温室に育ったといいます。
三国同盟と家督継承
天文23(1554)年、氏真は17歳のときに今川重臣・太原雪斎の斡旋によって北条氏康の長女・早川殿(はやかわどの)を娶りました。この政略結婚で今川・武田・北条と互いに婚姻関係が確立。いわゆる甲相駿三国同盟です。これにより今川家は西の織田信秀との戦いに専念できるようになりました。『言継卿記』では、弘治2-3(1556-57)年に氏真が公家の山科言継と会っている様子がうかがえます。色々と物を贈られたり、氏真邸で歌会始が行なわれたりなど、和歌の世界にのめりこんで公家の影響を大きく受けていたようです。
また、時期は定かではありませんが、このころに父・義元から家督を譲られています。実際、翌永禄元(1558)年からは氏真の発給文書が多くみられるようになります。ただし、氏真の発給文書は駿河国に限定されていて、遠江・三河の発給文書に関しては義元がだしています。これは義元の次の狙いが西の尾張国にあったため、駿河の領国経営のみ氏真に任せていたと考えられています。
桶狭間の敗戦、家康の独立
このように今川家では順調に領国経営と勢力拡大が進んでいましたが、永禄3(1560)年5月20日、運命の一戦となった「桶狭間の戦い」において、まだ尾張一国すら完全に平定できていない織田信長を相手に敗れ、父義元が 「まさか」 の死を遂げました。今川軍は2万余もの大軍勢でありながら、わずか1千~5千程度であった織田の軍勢に敗れたのです。(ただし、兵力は諸説あり)
氏真はこの戦いに従軍していませんでしたが、想定外の敗戦処理に追われるハメとなりました。敗戦数日後に氏真から家臣に宛てた書状の中で、氏真自身が出陣を考えていたこと、さらに功のあった家臣たちに感状を与えたり、恩賞を与えたりしていたことがわかっています。
以後、氏真は父の遺した今川領をそのまま継承しますが、三河・遠江では今川氏の統治に対する不満があったのもあり、義元の死をきっかけに紛争が広がります。
今川氏からの離反の動きが活発となっていったのです。
松平元康の独立
その代表的な1人が松平元康でした。のちの徳川家康です(記事内の表記は家康で統一します)。松平氏はかつて家康の父の代に今川氏の軍門に降っていました。そのため、家康は幼少のころより義元の人質として駿府で過ごしていたのです。
三河国の岡崎城には今川氏が入っていましたが、桶狭間の敗戦で岡崎城にいた今川兵が撤退したタイミングを見計らい、家康が同城に入城。この岡崎城はそもそも松平氏の居城でした。実に14年ぶりの帰参です。
これですぐに家康は今川家臣でなくなったというワケではありません。一応は主君である氏真に弔い合戦を訴えました。しかし、氏真は一向に動こうとしなかったようです。
そして桶狭間の翌永禄4(1561)年、家康は織田方に属していた叔父・水野信元の働きによって信長と和睦し、ついに今川からの独立を果たすのです。
三州錯乱・遠州錯乱
こうして氏真と家康が断交すると、三河国では家康に属する国人と、氏真方に属する国人との間での抗争が広がっていきました。これは「三州錯乱」と呼ばれています。『朝野旧聞哀藁』によれば、氏真は松平家広・西郷正勝・菅沼定勝・菅沼定盈といった諸将らが相次いで今川から離反すると、みせしめのために吉田城内にいた彼らの妻子を城下に引きずり出し、串刺の刑に処したといいます。
元康の正室・築山殿も駿府にいましたが、彼女は義元の姪であったことから、殺すことまではできなかったのでしょう。
翌永禄5(1562)年には、氏真配下の上ノ郷城城主・鵜殿長照が家康に攻められ、長照の子氏長と氏次の二人が生け捕りにされました。
長照の妻は父・義元の妹であり、彼女は氏真にとっては従兄弟にあたったことから、氏真は築山殿と信康・亀姫の三人(いずれも元康の家族)を引き渡し、人質交換という形としたのです。
その後も、両者は東三河を巡ってたびたび争いますが、氏真は桶狭間の戦いの後遺症もあったことで次第に家康に領地を切り取られていきました。
永禄6(1563)には三河一向一揆が勃発して家康の家臣団は分裂の危機にさらされますが、翌永禄7年(1564年)にこれを鎮圧して国人衆を配下に組みこんでいきました。なお、この頃に家康は改名(「元康 ⇒ 家康」)しています。
こうした中、氏真は東三河の拠点である吉田城を家康に攻め取られ、三河の支配権が断たれてしまいます。さらに悪い事に犬居城の天野氏や引間城の飯尾氏、見付の堀越氏などが相次いで今川家から離反し、遠江国でも混乱が広がっていきました。いわゆる「遠州錯乱」です。
以後の氏真は駿河・遠江を守るという消極的な作戦をとるようになります。軍事に不得手な氏真は、このように今川が弱体化していく過程においても、1700首以上の歌を詠むなど、和歌や風流踊りなどにふけっていたらしいです。
ただ、氏真は何もしなかったわけではありません。活発な文書発給を行なって寺社・被官・国人のつなぎ止めを図るなど、領国経営も少なからず気にかけてはいました。
外交面でも北条氏との連携維持に努め、そして幕府の権威によって領国の混乱に対処しようと奔走しましたが、結局混乱を止めることはできなかったのです。
武田との同盟が破綻
氏真が窮地に追い込まれていく中、武田氏と今川氏との同盟関係にもかげりが見え始めていました。このころの武田信玄は川中島で上杉謙信との抗争が収束し、永禄8(1565)年には今川氏と対立関係にある織田信長と同盟を結ぶなど外交方針に変化が出ていました。
さらに同年には信玄嫡男の武田義信が謀反の嫌疑で幽閉される事件も発生しています。実はこの事件が武田・今川間の同盟破棄の引き金となります。武田義信の妻というのが氏真の妹・嶺松院でした。
永禄10(1567)年の2月に彼女が駿府に送り返されて、武田・今川間の婚姻関係が解消してしまいます。さらには、政治的な影響力をもち、これまで戦国今川氏を支えてきた義元の母・寿桂尼も3月に亡くなってしまうのです。
今川と武田が手切れとなった時期ははっきりしませんが、おそらくは同年のことと思われます。8月には氏真が北条氏康とともに謀り、甲斐国など武田領内に入る塩を止めているので、それ以前であることは確かです。
ちなみに、この塩止めに関して越後の上杉謙信が良しとせずに信玄に塩を運んだというエピソードがあり、「敵に塩を送る」ということわざの所以とされています。
今川滅亡
永禄11(1568)年12月、ついに今川滅亡のカウントダウンがはじまります。武田信玄による駿河・今川領への侵攻が開始され、さらには信玄と家康との間で交わした驚愕の密約「信玄=駿河国、家康=遠江国を攻める」により、家康もほぼ同時に遠江国への侵攻をはじめたのです。(駿河侵攻 / 遠江侵攻)
駿府を追われる
今川方は東西から挟み撃ちという危機的状況となり、今川重臣の多くが一気に離反して信玄や家康の元へ走っていきました。氏真はすぐに駿府から1万5千程の兵を送り、武田軍を迎撃したもののあっけなく敗れ、そのまま武田の軍勢が駿府にまで乱入する事態となりました。このとき、氏真の妻である早川殿(北条氏康娘)は何も持たず、輿も用意できずに徒歩で駿府を脱出するほど急で悲惨な状況であったといい、駿府今川館はおろか、臨済寺や浅間神社をはじめ、駿府の町はほとんど焼失したといいます。
氏真は駿府から敗走して一旦は賤機山城へ籠もろうとしますが、これも叶わずに結局、重臣の朝比奈泰朝を頼って掛川城まで逃れました。駿府を発つときには2千程率いていた軍勢が、掛川城に着いたときにはわずか100とか50に減っていたといいます。
掛川城包囲、ついに降伏!
しかし、まもなくして掛川城は今度は家康によって包囲されてしまいます。ただ、掛川城は意外にも堅固であり、翌永禄12(1569)年に入っても陥落せず、半年近くもよく持ちこたえていました。一方、その間に駿府の陥落を聞いた北条氏康が今川氏救援のために駿河へ侵攻しますが、こちらも武田軍との決着はつかずに戦局は膠着。また、武田軍が家康との約束を破って遠江国への侵攻もはじめたため、家康は氏真との和睦を模索するようになります。
そして5月17日、氏真は家康から「武田信玄を駆逐したら駿河一国を氏真に返す」という条件で和睦を受け入れて降伏、開城となったのです。
氏真はその後、伊豆へ向かい、戸倉城に入城してようやく北条の庇護下に入りました。5月23日には北条氏政の子・氏直を養子とし、駿河を譲ることになりました。
こうして家康との和睦協定は実現されることもなく、戦国大名としての今川氏は滅亡したのです。
家康の庇護下へ
氏真がいつまで戸倉城にいたかはわかっていませんが、やがて妻の実家でもある小田原に移ります。しかし元亀2(1571)年に義父の北条氏康が死去すると、ここから追い出されることに…。後継者の北条氏政が妻に武田信玄の娘を迎えていたのもあり、武田氏との同盟を復活させたのです。
武田だけでなく、北条にまで見放された氏真。今度は家康を頼ってその庇護下へ入ることに…。
天正3(1575)年3月には上洛して、皮肉にも父の仇である織田信長に謁見しており、目の前で蹴鞠を演じています。氏真にとって父を討った信長に対する憎悪はあったでしょうが、武田に対する恨みも強くあったにちがいないでしょう。
同年、氏真は武田を大敗させた長篠の戦いに従軍し、牛久保で家康軍の後詰を務めています。ちなみに氏真に仕えていた朝比奈泰勝は家康のもとに使者に訪れた際、これに参戦して内藤昌豊を討ち取り、家康の直臣となっています。
戦後、氏真も武田の残兵掃討に従事したのち、徳川軍による駿河・諏訪原城(静岡県島田市)攻撃にも従い、8月に諏訪原城は落城しています。翌天正4(1576)年にこの諏訪原城が家康によって牧野城と改名されると、氏真はその城主を任されることに。実に7年ぶりの城主返り咲きでした。
しかし、翌年には城主解任となり、その後しばらくは家康の浜松城近辺で過ごしていた様子が『家忠日記』に記されています。
まとめ
その後、天下は豊臣の世に移っていきますが、氏真の事績はほとんど残されていません。天正18(1590)年に秀吉が天下統一を果たして家康が江戸に移封となった際、氏真は江戸に行かずに京に上って住んでいたとか。この頃には出家して宗誾(そうぎん)と号していることがわかっています。
慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後、嫡孫の範英と、二男の品川高久(今川宗家以外は「品川」を名乗ることになる)と共に徳川秀忠に出仕して江戸幕府の旗本に列したため、江戸に移住。
最期は慶長19(1614)年に江戸品川の品川高久の屋敷で死去。享年77でした。その後、徳川の世に入って今川宗家は高家として徳川幕府に仕え、血脈をつないで明治時代まで存続しました。
戦国大名としては向いていなかったものの、生き残ることは一流だった氏真。乱世で敗者になったにもかかわらず、現在にもきっと氏真の多くの子孫がいることでしょう。
【参考文献】
- 小和田 哲男『駿河今川氏十代(中世武士選書25)』(戎光祥出版、2015年)
- 有光 友學『今川義元(人物叢書)』(吉川弘文館、2008年)
- 小和田 哲男『今川義元のすべて』(新人物往来社、1994年)
- 小島 広次『日本の武将31 今川義元』(人物往来社、1966年)
※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘などがありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。
コメント欄