「近衛前久」名門貴族ながら、半生を流浪に捧げた男。謙信と共闘し、信長が最も信頼した最強の公家
- 2025/12/18
史料にも登場することの多い前久とはどのように天下と関わったのであろうか。
名門近衛家に生まれる
近衛前久は天文5年(1536)、近衛稙家を父として京に生を受けた。近衛家は五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)の筆頭格の家柄であり、しばしば摂政・関白を輩出してきた名門である。系譜的には藤原北家の流れを汲み、その名は平安京の近衛大路に由来するという。
天文9年(1540)の元服に際し、晴嗣(はるつぐ)と名乗るが、これは、時の将軍・足利義晴の偏諱を受けたものであった。翌年、従三位に叙任されたのを皮切りに順調に昇格を重ね、天文23年(1554)には関白左大臣にまで上り詰め、さらには藤氏長者にも選出される。まさに貴公子と言うに相応しい昇進ぶりであった。
翌天文24年(1555)には従一位に叙せられ、前嗣(さきつぐ)と改名する。
上杉謙信と意気投合
永禄2年(1559)、上杉謙信(この当時の名は長尾景虎)が上洛する。このときに前嗣と13代将軍・足利義輝は、謙信と対面し、その後に酒宴が催されたという。三人は意気投合し、朝まで飲み明かしたことが記された書状が残っている。翌日、謙信は平気な顔をしていたらしいが、前嗣は二日酔いに苦しんだという。その日も謙信と義輝は酒盛りをしたらしく、前嗣のもとにも誘いの文がやってきたというから驚く。さすがに前嗣は「二日酔いなので遠慮させていただきます」と断ったという記録が残っている。
当時、京で権勢をふるっていた三好一派が、上洛した謙信の武威を恐れたのか、急におとなしくなったのを見た前嗣は、天下静謐を成すには謙信の力が必要だと感じたに違いない。
前嗣と謙信の2人は、よほど意気投合したのであろう。血書の起請文まで交わして盟約を結んだという。その後、2人は度々行動を共にすることとなる。
前嗣は公家らしからぬ気性の持ち主であったらしく、京で謙信と会うのみならず、越後まで下行したこともあったという。これは関白の職にある者の行動としては実に異例である。
さらには永禄4年(1561)、謙信の関東平定の際には関東まで赴いてこれを援助し、謙信が越後に帰国しなければならない事情が生ずると、古河城に残って謙信に関東の情勢を細かく伝えたというから驚く。これは、前嗣が元来豪気な人物であったというのもあるだろうが、応仁の乱以降の戦乱で荒廃した京を建て直し、世に秩序を取り戻したいという強い意志が感じられるようにも思う。
謙信が帰国しなければならなかったのは、武田信玄との戦、世に言う第四次川中島の合戦のためであった。この頃、前嗣は名を「前久」と改め、花押を武家様式のものに変えている。前久の関東平定に対する並々ならぬ思いが感じられる。
ところが、この関東平定は中々に難しく、一筋縄ではいかなかった。
1つには、謙信が越後の春日山城にこだわったため、度々関東を留守にしなければならず、この点を利用した北条・武田の戦略に翻弄されてしまったという点が挙げられよう。
おそらくではあるが、前久はこうした謙信の「融通の利かなさ」に段々と嫌気がさしてきたのではないか。このあたり、合理的に居城を移していった織田信長とは大違いである。謙信は秩序を重んずる武将であったが、幕府の職としての守護職にこだわりすぎたような気がする。
加えて、謙信の誤算も大いにあったと思われる。どうも謙信は、現職の関白である前久が関東に下向してくれたことで、その権威をもって戦いを優位に進めようとした節があるのだ。ところが、京と異なる文化圏の関東において、高い官位などはあまり価値の無いものであったらしい。
これらを見ると謙信は天下静謐には政治力が不可欠という意識に欠けていたように思えてならない。前久もまだ若く、戦について無知な部分もあったのだろうが、この関東平定の難航を目にして、次第にテンションが下がっていったのは理解できる。
謙信の関東平定を助けるべく、半年も下総古河城にいた前久であったが、帰洛することを決意する。謙信は散々に慰留したという。しかし、『上杉年譜』によれば、前久は将軍より「京都無為の間、上洛しかるべき由、仰せ越され」との要望があったということで永禄5年(1562)3月、謙信とともに帰陣していた越後を後にする。
「尊経閣文庫所蔵文書」の『上越史』によると、この行動に謙信はかなり立腹したと伝わる。
足利義昭による関白解任
京では三好長慶が勢力を維持していたが、足利義輝は将軍による政所掌握に成功するなど、巧みな政治手腕をふるっていた。しかし、義輝が三好長慶と和議を結んで協調を保ち、幕府政治も軌道に乗りかかったと思われた矢先、長慶が死去してしまうのである。幕府政治を支えるべく、頻繁に義輝のもとを訪れていた前久にとって、これは衝撃であったに違いない。長慶の死によって、松永久秀と三好三人衆が台頭することとなってしまう。松永久秀らにとって、義輝の権勢は目の上のタンコブ以外の何者でもなかったであろう。長慶の死後、京は再び不穏な空気に包まれ始めた。
そんな最中の永禄8年(1565)5月19日、松永久通と三好三人衆は長慶の後継である三好義継を担ぎ、一万もの軍勢を率いて義輝の御所に侵入し義輝を暗殺するという事件が勃発。剣豪との逸話もある将軍義輝は、刀を取り替えつつ奮戦するも討ち取られたという。
将軍暗殺による茫然自失状態から冷めやらぬ5月下旬、なんと首謀者である三好三人衆は暗殺の罪を免れるため、前久を頼ってきたのである。前久の従兄弟にあたる義輝を暗殺しておきながら厚顔無恥も甚だしいのであるが、前久は意外にも彼らを赦してしまった。これは義輝の正室となっていた前久の姉を殺さずにおいたという点を考慮してのことだと言われている。
しかし私は、前久には天下を動かし静謐を目指せる勢力を重要視するというポリシーがあり、それに従ったという側面が大きいのではないかと睨んでいる。そういう経緯もあり、彼らが推す足利義栄の将軍就任を承諾し、義栄が14代将軍となったのである。
ただ、その裏で細川藤孝ら幕臣たちは密かに動いていた。義栄が三好三人衆らの傀儡に過ぎないことは、藤孝らにとって許し難いことであったのだろう。義輝暗殺の際に、興福寺に幽閉された義輝の弟である一乗院覚慶(のちの足利義昭)を15代将軍に擁立することを提案したのは藤孝の兄・三淵藤英だという。
7月28日、藤孝らは興福寺から義昭を救出し、甲賀の和田城を経て野洲郡矢島村に居住することとなる。義昭は和田城にて足利将軍家の当主となることを宣言したのであるが、このことをもって矢島村の居所を矢島御所と呼ぶこともある。
この後、紆余曲折を経て織田信長のバックアップのもと、永禄11年(1568)10月18日に義昭はようやく15代将軍に就任する。前久も信長という強力な後ろ盾のもと、義昭の政権が成立したことに安堵したであろう。ところが、前久を意外な運命が待ち受けていた。就任早々、義昭は前久を京から追放してしまったのである。
追放の理由には諸説あるが、共通しているのは義栄の将軍就任を後押ししたという点だと思われる。もちろん、前久は義栄の将軍就任を後押しした訳ではなく、単に三好三人衆らに請われて「許可」しただけである。
前久は三好三人衆の勢力に逆らうことの危険性を重々承知していたので、うかつに動くことができなかったと見てよいであろう。義昭とてそのことはわからぬはずはない。問題は前久と対立関係にあった二条晴良が義昭に接近したということであろう。
谷口研語氏著『流浪の戦国貴族近衛前久―天下一統に翻弄された生涯』に、二条晴良が前久に対する悪感情を増幅させたとあるが、私も同感である。どうも義昭は極貧の流浪生活でかなり僻みっぽくなっていたように思われてならない。
ともあれ追放された前久は、石山本願寺の顕如を頼って摂津国石山本願寺に移り住んだのである。時を同じくして、前久は関白を解任される。後任は対立していた二条晴良であった。
織田信長へ接近
本願寺に身を寄せていた前久にまたも運命の悪戯が降りかかる。信長を警戒して浅井・朝倉などの大名が本願寺とともに第一次信長包囲網を形成し、反旗を翻したのである。この信長包囲網に参加するよう顕如に訴えたのが前久であるとも言われる。ただ、前久は信長ではなく、義昭と晴良を排除するためにこの包囲網に参加したものと思われる。というのも、天正元年(1573)に義昭が信長によって京を追放されて晴良も失脚すると、信長包囲網から離脱しているからである。
私には、前久がかつて京を追放された時、「義昭ではだめだ」と判断するに至ったような気がしてならない。
この後、前久は信長の奏上によって京に戻ることを許されることとなる。信長は天下布武を推し進める上で、天皇や公家達との連携が不可欠であることに気がついており、武家との関係が深かった前久に目をつけたのではないだろうか。おそらく、前久も信長こそが京に平穏をもたらす武将であると認識したであろう。要はお互いを利用し合う形で両者の交流は始まったのであるが、二人は実に気があったらしい。
前久は行動的で儀礼にもあまりこだわらない等、公家としては変わったメンタリティーを持っていて、信長はそこが気に入ったと思われる。そして鷹狩り、乗馬という共通の趣味があったことも一層2人の親交を深める要因となったのである。
『信長公記』には天正6年(1578)の正月に鷹狩りの獲物を前久に送ったとある。鷹狩りの獲物を競い合ったというエピソードを裏付ける記述である。
本能寺の変後
信長という朝廷の庇護者を得て、前久は信長の要請に応じて各地を奔走する生活を送る。やっと京にも平穏な日々が訪れようとしていた。しかし、またもやその夢は驚天動地の事件で幻となってしまう。それが天正10年(1582)6月2日の本能寺の変の勃発である。
あっという間に本能寺は灰塵と化し、信長は自害したと伝えられた。あまりのショックに前久は出家してしまう。さらに本能寺の変について、前久はあらぬ嫌疑をかけられてしまうのである。
『信長公記』には、明智軍が前久の屋敷の屋根から信忠のいる二条御所に矢と鉄砲を撃ちかけたとの記述がある。ただ、これ以外に疑わしい点を示した資料がなく、讒言の可能性もあるが、秀吉や織田信孝からの疑いは晴れなかった。そのため、徳川家康を頼り、浜松まで下向することになる。
一度は秀吉に許されて帰洛するも、小牧長久手の戦い(1584)では奈良に下向し、和議成立後にようやく帰洛している。
天正15年(1587)以降は慈照寺東求堂にて隠居生活を送った。そして徳川の世となった慶長17年(1612)、前久は京都にて薨去する。享年77と伝わる。
あとがき
前久の生涯を見ていると、「流浪」という言葉が真っ先に浮かんでくる。しかし、彼は単に時代に流され、翻弄されていたわけではなかった。「天下静謐」というビジョンを彼ほど強く抱いていた人物は、少なくとも公家の中には見当たらない。前久は「麒麟がくる」世を求めて奮闘したに過ぎないのではないだろうか。【参考文献】
- 桐野作人『<足利義昭と近衛前久>室町幕府再興ならず/武家に憧れた流浪関白』 (学研、2014年)
- 橋本政宣『近世公家社会の研究』(吉川弘文館、2002年)
- 太田牛一『信長公記』(角川ソフィア文庫、2002年)
- 谷口研語『流浪の戦国貴族 近衞前久 天下一統に翻弄された生涯』(中央公論社、1994年)
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