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  • 島津義弘
 2015/08/10

「島津豊久」見事すぎる最期。叔父・義弘の身代わりとして散る!

関ケ原の戦いにおける「島津の退き口」は、島津義弘の武勇伝として名高い史実です。しかし、「島津の退き口」は、「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる戦法によってなしえた敵中突破でした。「捨て奸」による自己犠牲により義弘の窮地を救ったのが、義弘を慕う家臣たちでした。その中でも、甥である島津豊久の最期は、31歳という若さもあって今でもその武勇伝は畏敬の念と共に伝えられています。

島津豊久とは、どのような人物であったのでしょうか?身代わりになった義弘とはどのような関係であったのか?豊久の人物像に迫ります。
(文=Ten-ten)

豊久の生い立ち

豊久が活躍したのは、戦国時代真っただ中。生まれた時から戦に明け暮れる島津本宗家当主の子として育ちました。豊久が育った背景をたどっていきましょう。

島津四兄弟、家久の子

島津家が戦国時代に薩摩・日向・大隈の三州平定を成し得たのは、島津四兄弟の武勇と結束力によるものでした。島津四兄弟とは、島津本宗家第15代当主貴久の子、義久・義弘・歳久・家久のことを言います。 豊久は、家久の子として元亀元年(1570年)に生まれました。家久は、兄3人とは母親が別で、3男の歳久とは10才離れていました。

家久は、元亀元年(1570年)串木野領主となり、天正7年(1579年)に日向佐土原の領主となります。家久が串木野領主になった年に豊久が生まれたことになります。幼名は豊寿丸、又七郎・忠豊と変遷していきます。ここでは豊久の名で統一していきたいと思います。

久は美少年だった!?

家久が美男だったとする説があります。「世に並ぶもののないほどの美少年であり、優れた少年であった」と記された『倭文麻環(しずのおだまき)」という史料から由来しています。幕末に記された史料であるために信憑性が薄く、関ケ原での討ち死にが美化されてしまった可能性が高いと新名一仁氏は述べています。

自己犠牲の英雄としての人気が高い豊久は人気がありますが、美少年であったら伝説化しやすいという世の習いであったのでしょう。

初陣は沖田畷の戦い

豊久の初陣は15才。天正12年(1584年)3月の沖田畷の戦いです。戦況は、島津4兄弟による九州平定まであと一歩のところまで来ていました。島原近郊の沖田畷において、島津は肥前佐賀の龍造寺隆信と相対することとなります。島津と親交のあった肥前日野江の有馬晴信が龍造寺に攻められ、救援を求めてきたことによる出陣でした。

この時、家久の軍勢は3千余騎、対する龍造寺の軍勢は6万を超えていました。味方からの応援が期待できず、家久は初陣の我が子豊久に「この戦いで死せよ」と言ったと、栄村氏は『島津四兄弟』述べています。それだけ島津勢は劣勢と判断される戦いでしたが、死闘の上で龍造寺隆信を討ち取りました。この時豊久も首級を一つ上げています。

島津家久毒殺される!?

島津が九州を統一する前に秀吉が島津征討に来てしまったため、九州統一の願いはかないませんでした。島津の脅威を抑えきれなかった豊後の大友氏が、大坂にいた秀吉に救援を要請してしまったからです。秀吉の停戦命令を無視して豊後の攻略をしていたため、九州北部から秀吉の軍勢に攻められます。

天正15年(1587年)4月17日に日向根白坂にて秀長に大敗した伊集院忠棟は、講和説得により降伏します。この時、家久も佐土原城で降伏していました。5月8日には、剃髪した義久が秀吉に降伏します。5月19日には義弘が秀長に降伏し、島津の九州平定は秀吉の制圧によって終焉を迎えます。

6月5日、秀長と一緒に行動していた家久が急死するという事件が起こります。一次史料には事情が明らかにされていませんが、秀長に毒殺されたと書かれた薩摩藩史料『島津国史』『鹿児島県史』などがあるため、歴史研究家の間では毒殺説が根付いています。ただし、家久はすでに秀吉から佐土原安堵の朱印状(許可証のようなもの)をもらっていたため、豊臣方が家久を暗殺するメリットはないと考えられています。一方で、秀長について京都に行きたいとの意思があったことや、内部事情などから島津方から毒殺されたとする考え方もありますが、兄弟間でそこまでするメリットもやはり考えられず、病死だった可能性もあると山本博文氏は『島津義弘の賭け』で述べています。

この事件によって豊久(この当時忠豊)は、佐土原の領地を継承することとなりました。弱冠18才で領主となった豊久は、秀吉に制圧されてからの島津家を支える佐土原の当主として、島津・薩摩のために身を捧げる人生となっていきます。

島津豊久の武功

佐土原の当主となった豊久は、その後次々と武功を上げていきます。まだ若い身でありながら当主となった豊久は、秀吉の配下となった島津家のために体を張って戦い続けます。

文禄の役における豊久の活躍

天正20年(1592年)に秀吉から朝鮮出兵の命が下されます。全国の大名らに石高に応じての出兵が要請されたので、島津も要請に応じて出兵をします。当主であった義久は高齢と体調不良で行かず、義弘と久保の父子が出兵します。豊久も佐土原の当主として参戦することになりました。

豊久の朝鮮出兵は、義弘の一団として参戦したのではなく、一大名として列せられています。朝鮮半島では義弘とは別行動であり、義弘父子が金化城、豊久は春川城を守ることとなります。春川城では、文禄元年(1592年)初冬、普請もまだ至らぬ春川城に6万余りの明兵が押し寄せます。この時豊久の兵はわずか500余人でした。小勢を侮られていたので、義弘に応援を頼み後詰をしてもらいます。義弘勢を恐れた明兵はいったん引きますが、応援が帰った後にまた攻めてきます。再度の応援が間に合わないと見た豊久は、「十死に一生」と覚悟をし、総勢500人ほどで真ん丸の形成を成して、明兵のただなかに攻めていきます。恐れた明兵は、引き揚げていきましたが、豊久勢は首級を70余(『本藩人物誌』では530余)あげて名護屋からは「御感状」を賜ったと、『征韓録』に記録されています。一城を守る武将として秀吉からも認められていたことがわかります。

文禄2年(1593年)7月7日に晋州城(もくそ城)を攻落するために、大勢の兵が集められます。この時、義弘勢は2,128人、豊久も武将として参戦して446人を連れて行ったと『征韓録』に記録が残されています。晋州城攻落のためには、朝鮮半島にいたほぼすべての武将が参加していますから、豊久もその武将の中の一人として戦力になっていたことがわかります。

慶長の役における義弘へのサポート

朝鮮出兵二回目になる慶長の役でも、義弘勢と同じく豊久も再び出兵に応じます。ただし、豊久が帰国していた記録がないため、朝鮮での守備に就いていたまま慶長の役に突入したとされています。2回目の出兵は、佐土原からは800人の兵の要請がありました。慶長2年(1597年)7月15日、海路を塞いだ朝鮮海軍との戦いで、義弘と豊久は奮戦します。唐嶋(巨済島)での戦いで豊久は、敵方の大きな番船をのっとり、日本にそれを持ち帰らせました。功績として秀吉から直々の朱印状をもらい高評価を得ています。

義弘軍が泗川での大勝利を挙げる中、慶長3年8月に秀吉が亡くなります。ひそかに各武将に撤退命令が下されますが、それを察した明・朝鮮軍から海路を断たれてしまいます。小西行長らの退路を確保するため、義弘は最後の戦いに挑みます。露梁海戦となったこの戦いでも島津勢は諸将と共に洋上封鎖を解いて小西行長の脱出に成功します。

日本側の全軍撤退が叶う中、義弘の家臣ら500人ほどが潮に流されて取り残されてしまいます。義弘ら家臣の救出で撤退が遅れる中、最後まで朝鮮に残って義弘勢を待っていたのは、豊久だけでした。どんな状況でも豊久は、義弘を信じて待っていたのです。

島津豊久の最期となる関ケ原の戦い

豊久の名は、最後に関ヶ原の戦いで強く印象付けられます。島津がなぜ西軍として戦ったのか、「島津の退き口」と言われる敵中突破はなぜ行われたのか、なぜ豊久の最期が伝説となったのか、時系列を見ていきましょう。

自らの意思で参戦

関ケ原の戦いに至るまでは、島津はどちらにつくか決めかねている状態でした。義弘は家康から伏見城の守備を頼まれますが、留守居の鳥居元忠に入城を断られてしまいます。三成からの誘いにも再三断っていたため、どっちつかずの状態になります。結果的には、伏見城に入れないまま三成に強く請われ、西軍として参戦することになりました。

開戦の雰囲気のなか、国元に応援を要請しますが、もともと中央政権に興味のない義久も忠恒(義弘の息子で島津本宗家の跡継ぎ)も、公式に応援も資金も出そうとはしません。国元で起きた庄内の乱での疲弊も甚だしいものでした。

義弘が困り果てていると、「惟新様(義弘の号)一大事」との伝達の中、薩摩から私費で大勢が駆け付けます。豊久は、6月5日には伏見について義弘のもとにはせ参じています。義弘のためならどこでも駆けつける豊久の忠誠心を強く感じます。この後も、私的に参加してきた薩摩からの家臣たちは次々と到着し、200人ほどであった義弘軍は、1000人弱まで膨れ上がりました。これらはまさに義勇軍であり、義勇軍であるがゆえの結束力が関ケ原での敵中突破へとつながったと山本博文氏は述べています。

義弘に帰国を説き、「捨て奸」となる

慶長4年9月15日関ケ原にて天下分け目の大決戦が行われます。島津は西軍に与しましたが、積極的に東軍を攻撃はしません。建前として戦に参加せざるを得なかったものの、参戦する大義はありませんでした。豊久も義弘にならって、西軍として構えてはいるものの待機の状態になります。

小早川秀秋が寝返ったことで西軍の雲行きが怪しくなった時点で、焦れた石田三成から動くように指示が来ます。直接指示をしに来た三成に「今日の戦いは、めいめい勝手にしましょう。」と豊久は、そっけない返事をします。島津勢にはもはや三成に対する義理はないも同然でした。島津の史料には、西軍に参加したものの、渋々だった感を強く出しています。徳川家へのアピールとも考えられています。

西軍が総崩れしていく間に、島津勢も攻撃を受けます。入り乱れての乱戦になり、もはや傍観しているだけではいられず、島津もたくさんの兵を失います。逃げ場もなくなり、義弘は敵陣に突入して最後を飾ろうかとしますが、豊久に止められます。豊久は「国に帰ってください。国家の存亡は公の一身にかかっています。」と義弘に声高らかに願い、そのまま自分の家臣13騎と共に敵軍中に突入していきます。豊久が身を投げて敵を押しとどめている間に、義弘らは関ケ原を脱出することができました。

島津豊久の最期の地

義弘隊のしんがりを務め、「捨て奸(すてがまり)」の戦法で、命がけで東軍の攻撃を押しとどめた豊久の最期はわかっていません。共について行った家臣たち全員が誰も戻ってこなかったためです。最後に戦った烏頭坂には、島津豊久の碑が建てられています。江戸時代に薩摩藩が幕府から命じられて木曽川の治水工事を行いますが、この際に薩摩藩士がこの地に五輪の塔を建ててお参りするようになりました。大正9年に碑が建立されて現在でも豊久をしのぶ多くの人が訪れています。ここから離れた石津町にある瑠璃光寺には、豊久がたどり着いて自刃したという説があり、豊久の菩提を弔ったとされる位牌が安置されています。佐土原にある豊久の菩提寺であった天昌寺跡には、豊久の墓と関ケ原の戦いで共に戦死した家臣たちの墓塔も並んでいます。

今なお愛される島津豊久

早くに父を亡くし、佐土原の当主として重責を担い、島津のために尽くした豊久。義弘とともに朝鮮で戦い、義弘のために散った関ケ原の戦い。すべてが自己犠牲の上に成り立っている豊久は、薩摩の誇る武将として長く伝えられてきました。

豊久が生まれた串木野では、今でも生誕祭が行われています。豊久は、没後420年を経てもなお鹿児島の人々に愛されています。


【主な参考文献】
  • 「島津資料集」人物往来社、1966年
  • 「戦国人名辞典」新人物往来社、1987年
  • 三木靖『島津義弘のすべて』新人物往来社、1987年
  • 山本博文「島津義弘の賭け」中公文庫、2001年
  • 栄村顕久『島津四兄弟』南方新社、2016年
  • 新名一仁「島津家久・豊久父子と日向国」
  • 鹿児島県HP「戦国島津氏について」




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