「島津豊久」は父・家久と伯父・義弘の薫陶を受けた名将であった!

島津豊久イラスト
島津豊久イラスト
 島津と言えば、義久と義弘は割と知られているが、豊久(とよひさ)の名を知っている人は少ないと思う。しかし、豊久は知勇すぐれた家久を父とし、勇猛で名を馳せた義弘の影響を多大に受けた武将である。

 今回は、若くして関ヶ原で散ることとなった島津豊久の波乱の人生にフォーカスしてみたい。

初陣

 島津豊久は元亀元年(1570)、島津家久の子として生を受ける。

 父・家久は祖父の忠良をして「戦法戦術に妙を得たり」と言わしめるほどの戦上手であった。豊久は早熟だったらしく、元服前から一人前の武将と見なされていたという。

 天正11年(1583)4月11日、家臣の上井覚兼が佐土原にやって来た際、家久は留守であった。このとき、まだ10代前半だった豊久が応対したとされる。

 名は通例では豊久が用いられているが、実は慶長5(1600)年2月頃までは忠豊と名乗っていたらしい。豊久を名乗ったのはほんの一時期だったようだ。

 初陣は天正12(1584)年3月の沖田畷の戦いである。豊久はまだ元服前であった。『常山紀談』によれば、この戦いの日の早朝、甲冑姿で現れた豊久に父・家久が声をかけたという。

家久:「あっぱれな武者ぶり」

 しかし、上帯の締め方が少々違ったのか、これを直して帯端を切り、話を続けた。

家久:「無事帰還した際にはこの帯はわしが解こう。しかし死して屍を晒すときは、その切った上帯を見て、島津家に生まれた者が、死を恐れず戦った姿を敵は知るであろうし、儂もその死を喜ぼう」

 沖田畷の戦いは、数で勝る龍造寺軍に寡兵の島津・有馬軍が幅の狭い畷に誘い込む「釣り野伏」を仕掛けたことにより撃破。何と、大将である龍造寺隆信が討ち取られるという壮絶な結末となった。

釣り野伏のイメージ
釣り野伏のイメージ

 『本藩人物誌』によると、豊久も新納忠元の後見の元で敵の首級を上げたという。無事帰還した豊久の上帯を父・家久は約束通り解いたと伝わっている。

父・家久の死

 大友氏・龍造寺氏を撃破し、勢いに乗る島津氏は勢力を拡大し、もう一歩で九州全制覇という所まで領土を拡大する。さらに、島津氏は大友氏の本拠地・豊後侵略に着手。進退窮まった大友宗麟は、関白・豊臣秀吉に救援を要請したのである。

 秀吉は天正13(1585)年10月、大友・島津の双方に停戦を命じた。大友は即座に停戦に応じたが、島津はこれを無視し攻撃を続けたため、秀吉は九州征伐軍の派遣を決定する。

 天正14(1586)年、仙石秀久を大将とする先発隊が九州に上陸。先発隊には長宗我部元親と、その嫡男・信親や十河存保ら四国勢が参加していたが、家久が大友領の鶴ヶ城を攻撃すると、これを救援するべく戸次川の手前に陣を敷いたのである。

 『元親記』や『土佐物語』によると、仙石秀久が戸次川を渡るべしと主張したが、当初元親は反対したという。しかし、秀久が強硬に主張したため戸次川を渡って鶴ヶ城を救援する策に決したのだった。

 『フロイス日本史』には、戸次川の対岸に現れた島津の軍勢が 少数であると見て取るや、先発隊が全軍で河を渡り始めたという記述がある。

 河を渡り切った先発隊に、家久が仕掛けたのは島津のお家芸である釣り野伏であった。この攻撃は先発隊に壊滅的な損害をもたらした。秀久と元親はかろうじて戦線を離脱するも、嫡男・信親と十河存保は戦死するという大敗を喫したのである。

 続く天正15(1587)年の根白坂の戦いでは、豊臣秀長を総大将とする8万とも言われる大軍と義久・義弘率いる島津軍が激突。秀長軍は巧みに島津軍を翻弄し、小早川・黒田勢の挟撃を受ける事態となってしまう。

 結局、この戦いは島津軍の大将格の武将を含めたほとんどが討死するという完敗に終わったのである。


 この戦いの後、家久は意外な行動に出た。何と、秀長の元を訪れ、相応の知行地をもらうことを条件に豊臣方と単独講和を結んでしまったのだ。

 天正15(1587)年5月27日、秀吉は家久に日向佐土原の地を安堵した。家久は島津本宗家から豊臣大名として独立した形となったが、その後間もなくの6月5日、急死してしまう。野尻へ秀長とともに進軍中していた家久は、秀長と食事を同席した際に重病となったとされる。

 また、毒殺説もある。秀長による毒殺から島津本宗家による毒殺まで諸説あり、本当に毒殺だったのか、或いは病死だったのか、未だ定まっていない。

 父・家久の死は豊久の運命を大きく変えることとなった。家久の所領日向佐土原2万8000石ほどが豊久に与えられたのだ。

 家久の死後、豊久の親代わりとなった義弘も、その後豊臣政権における島津家代表に任ぜられたこともあり、義弘と豊久は豊臣大名化していくのである。

唐入り

 豊久は唐入りにおいて、数々の武功を挙げている。

 文禄元年(1592)5月、雑兵約500を引いて春川城にいた豊久は6万もの敵兵の襲来を受けるが、100艇ほどの鉄砲を放って敵兵の戦意を削ぎ、そのタイミングで城門から打って出たという。浮足立っていた敵兵は、恐れをなして撤退したと伝わる。

 慶長2(1597)年7月には、漆川梁海戦に参戦した豊久は朝鮮水軍の大船の傍まで漕ぎつけると敵船に飛び乗り、後に「敵を斬ること麻の如し」と記されるほどの大奮闘を見せたという。このとき、敵から奪った船を後に豊臣政権に献上して感状を与えられている。

 また同年8月には南原城の戦いでは先駆けし、首級13を討ち取る武功を挙げた。さらに、慶長3(1598)年彦陽城攻撃でも先駆けを行い、首級2を挙げている。

 『本藩人物誌』によると、日本に帰国した豊久は、これらの戦功で父・家久と同じ中務大輔(なかつかさのたいふ)ならびに侍従に任じられた。

 豊臣政権における、いわゆる公家成である。

関ヶ原

島津家中でのお家騒動

 慶長3(1598)年8月に秀吉が没する。翌慶長4(1599)年には、義弘の三男で島津本宗家を継いでいた島津忠恒が家老の伊集院忠棟を誅殺するという事件が起こった。

 この事件は、石田三成と昵懇であった忠棟が島津の領有件を侵害したことが背景にあったようだ。しかし、この一件はこれで収まらず、忠棟の嫡男・伊集院忠真が反乱を起こすに至った。いわゆる庄内の乱である。

 この乱に豊久も出陣し、新納忠元や村尾重侯らとともに大将として山田城攻めに参戦し、これを落城させた。この後、戦局は膠着状態となるが、徳川家康の調停もあり慶長5(1600)年3月、忠真は降伏し乱は終結する。

 同年5月、豊久は参勤により伏見に上った。この参勤が豊久の運命を大きく変えることになる。

西軍への参加

 ところで、どうして豊久はわざわざ参勤をしなければならなかったのであろうか。これは、豊臣政権下で定められた大名在京制に基づくもので、大名は妻を伴い伏見の大名屋敷で暮さなければならなかったのである。そんなわけで、この時期、義弘と豊久は共に伏見にいたのであった。

 実は、豊久が伏見に上る少し前に、義久は家康よりある要請を受けていた。慶長5年(1600)4月下旬、会津討伐を決意した家康は、義弘に家康出陣中の伏見城「御留守番」を依頼されていたのである。

 会津討伐のため諸大名が次々に出陣する中、ある異変が起こった。『薩藩旧記雑録』によれば、同年7月12日、会津に向かっていたはずの大谷・石田勢が大阪・伏見に引き返してきたというのだ。

 これに気づいた義弘は豊久とともに、家康の要請に従い1000ほどの軍勢で、伏見城本丸・西の丸の間に在番しようとしたが、2度にわたり入城を拒否されたという記述もある。

 伏見城には既に、徳川家臣の鳥居元忠らが入城しており、彼らが義弘・豊久を信用しなかったのであろうか。実は義弘と三成には親交があり、これを警戒したとも考えられる。あるいは、単に家康の連絡ミスで話が通っていなかった可能性も否定できない。

 ともかく、伏見在番の話が消えてしまったことは確かであり、判断に困った義弘は家臣の新納旅庵を大坂に派遣して大坂城入城を打診したものと思われる。

 この時の取次役は安国寺恵瓊だったらしく、西軍への参加を説得された結果、西軍に与することになったようだ。

関ヶ原本戦

 慶長5(1600)年9月15日の関ヶ原の戦い本戦で、義弘・豊久勢は1500の兵で布陣。ところが、義弘は中々兵を動かそうとしなかったという。これは島津義弘の記事でも触れたが、義弘・豊久勢は二番備えであったため、開戦後しばらくは兵を動かさずともよかったらしいのだ。

 ところが、思わぬ事態がおこる。『慶長5年9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状』によると、午前10時頃の開戦後程なくして、小早川秀秋が東軍に寝返ったという。

 ここから、2時間ほどで西軍は総崩れとなり、島津勢は敵中で孤立する。当初、義弘は自害しようとするが、豊久の必死の説得により、敵中突破することを決意したという。

 世に言う島津の退き口である。

 通説では、このとき豊久は殿を務め、義弘を逃がすため身代わりとなって家臣の中村源助ら13騎で東軍の追撃隊に突撃し討死したという。

 ところで、『薩藩旧記雑録』には

「鉄砲で井伊直政を落馬させ、東軍の追撃隊を撃退。島津豊久、大量に出血」

との記述がある。

 伝承ではあるが、重傷を負った豊久が義弘を追いかけるも、上石津辺りで力尽き、瑠璃光寺(岐阜県大垣市上石津町上多良)の住職らが介抱したが、同地で死亡し、瑠璃光寺に埋葬されたという。

 討死し、首を刎ねられたとする史料も存在する。

 家康家臣で島津氏の取次役であった山口勘兵衛直友は島津家の面々と何度も会っていたので、豊久の顔も知っていた。その直友の故人の略伝によると、関ヶ原の合戦後、家康の本陣で首実検が行われた際、豊久と思しき首があったという。これを確認するため直友が召しだされ、豊久の首だと断言しているのだ。

 となると、瑠璃光寺に埋葬されたという伝承は否定されてしまうのだろうか?

 ちなみにその辺りの名主であった三輪内助入道一斉は落ち武者狩りのおふれが出ていたにも関わらず、落ち延びてきた島津の兵たちを匿って介抱したと伝わっている。

 これが本当だとすると、この処置に豊久は深く感銘を受けたであろうが、懸念もあったろう。「自分を匿うことで迷惑が及びはしないか」と。

 重傷を負っていたため、薩摩へは到底たどり着けまいという思いもあったのかもしれない。村人たちに類が及ぶことを危惧した豊久が、自分が自害したら落ち武者狩りとして東軍に引き渡してくれと頼んだとしたらどうであろう。

 この場合、首は東軍に引き取られ、胴体が丁重に弔われたということになる。これならば、その首が首実検に並ぶのも不自然ではないように思える。

 ともかくも、島津豊久は関ヶ原の戦いで討死を遂げたのである。

 享年30という。

島津豊久奮戦の地(烏頭坂)に立つ島津豊久碑(岐阜県大垣市上石津町。出典:wikipedia)
島津豊久奮戦の地(烏頭坂)に立つ島津豊久碑(岐阜県大垣市上石津町。出典:wikipedia)

あとがき

 本文では触れなかったが、島津豊久はかなりの美少年であったと言われている。

 例えば、『薩藩旧伝集』では「無双の美童」、「美少人」などと記されている。その風貌とは裏腹に、その戦いぶりは父・家久よりも、義弘の戦い方に似ているように思う。

 家久の死後に父親代わりとなった義弘の影響を受けたのだろうか。実は、家久は他の3兄弟とは異なり側室から生まれた男子であり、そのためその家系の島津家での席次は高くはなかった。それが、義弘とともに豊臣大名になったこともあり、そのコンプレックスが多少は和らいだのかもしれない。

 結局はそれがもとで、西軍につくことになるのだから、縁とはある意味恐ろしいものである。


【主な参考文献】
  • 桐野作人『関ヶ原島津退き口―敵中突破三〇〇里―』(学研パブリッシング、2010年)
  • 新名一仁 『薩摩島津氏』(戎光祥出版、2014年)
  • 新名一仁『島津家久・豊久父子と日向国』(宮崎県、2017年)
  • 新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘 関ヶ原後も生き抜いた才智と武勇 』(KADOKAWA、2021年)

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  この記事を書いた人
pinon さん
歴史にはまって早30年、還暦の歴オタライター。 平成バブルのおりにはディスコ通いならぬ古本屋通いにいそしみ、『ルイスフロイス日本史』、 『信長公記』、『甲陽軍鑑』等にはまる。 以降、バブルそっちのけで戦国時代、中でも織田信長にはまるあまり、 友人に向かって「マハラジャって何?」とのたまう有様に。 ...

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