主君の側近にして、少年の幹部候補生?「小姓」の意味を解説

小姓のイメージイラスト
小姓のイメージイラスト
 時代劇を観ていると、上座についた殿の横で太刀を片手で掲げ、じっと端座している前髪つきの少年が登場するイメージがないでしょうか。史実ではずっと片手で重い太刀を持っているということはなかったともいいますが、よく考えるととても重要な役のように思えますね。主君のすぐ側でその武器を手にしているということは、余程信頼された側近中の側近という位置付けともいえそうです。

 彼らは「小姓(こしょう)」と呼ばれる職の少年たちで、イメージ通りに主君のすぐ近くで仕える者です。小姓という語からは様々なニュアンスが想起されるかと思いますが、今回は職制としての位置付けを中心に、その意味についてみてみることにしましょう!

小姓とは

 小姓とは元来、主君に近侍する者を指しました。「つきしたがう」という意味の「扈従(こしょう)」に由来するといわれ、武家だけではなく貴家や寺院でも用いられました。

 主君の側近くに仕えることから、日常の雑務や身の回りの世話を担当し、有事にはその身辺警護をすることも重要な名目となっていました。

 武家においては室町時代になって「小姓」の職名がみられるようになり、同末期には将軍の近臣として「小姓衆」の語が確認できます。

 戦国時代でもこの小姓という立場は、ある種特殊なイメージをもって捉えられることが多いようです。いわば若年の幹部候補生が主君の近習として仕えるポジションともいえ、将来の家中を担うための英才教育を施されたと理解することができます。

 例えば織田信長の小姓であった前田利家や、同じく豊臣秀吉子飼いの石田三成、徳川家康に仕えた井伊直政などが好例でしょう。

 また、敵対勢力の子弟が人質として送られることが珍しくなかった時代において、彼らを小姓として近侍させることもありました。これは監視・監督の意味もさることながら、むしろ将来的な配下として責任をもって養育することの証とも捉えられます。

 一方では男色が文化的にある種の紐帯ともされた時代に、その対象となったという説も有力です。武家における場合もそうですが、特に中世では寺院において非常に強くその傾向があったことが史料からうかがえます。

 小姓について英才教育という表現は事実に近いと考えられ、主君のすぐ近くで戦略・戦術や交渉、家政にいたるまでのノウハウをつぶさに体感することは極めて重要なキャリアになったと考えられます。

 また、武芸・学問のみならず公式の場における作法なども修得する必要があるため、家中における人材育成の面でも大きな役割を果たしたといえます。

江戸期における小姓

 江戸幕府においては、草創期にはすでに職制としての小姓が確認できます。

 将軍の大奥への出入りに際して送迎を行う「奥小姓」と、中奥で儀式の際に配膳や雑務を行う「中奥小姓」あるいは「表小姓」とに分かれていました。

 奥小姓はおよそ20~30名がおり、「小姓頭取」という班長格を6名程度設置したとされています。小姓らは若年寄の支配下に置かれ、旗本最高位の諸大夫の階級でした。役高は500石で、家禄が1000石以下の小身である場合は300俵の役料が支給されました。

 中奥小姓もほぼ同様の構成員数で、階級は奥小姓と同じ諸大夫。しかし小身の場合に役職手当を支給する足高制ではなく、無補填の持高による勤めでした。

 江戸期の将軍に近侍した小姓は、実際には複雑な職務に従事したというわけではなかったようです。それというのも、将軍側近の職としては秘書的な側用人や取次窓口業務といえる御側御用取次、書記官にあたる右筆などが設置されていたためです。

 したがって小姓は、主君身辺の雑務や日常の取次などがメインとなっていたとされています。一方で建前上は主君の警護が重要な任務としてあったため、武芸の訓練も重視されました。

小姓組とは

 江戸幕府においては、小姓とよく似た言葉に「小姓組」というものがあります。

 これはいわゆる将軍近習としての小姓ではなく、軍制に組み込まれた戦闘部隊の単位を指しています。小姓組を含む書院番・新番・大番・小十人番は「五番方」と総称され、江戸城内の警護と有事における戦闘部隊としての任務を帯びていました。

 小姓組の設立は慶長11年(1606)の江戸幕府草創期で、寛永9年(1632)には20~30名を1組とする部隊が本丸所属に6隊、西ノ丸所属に6隊配置されています。これら小姓組は当初、黒書院西湖間に勤番しており、その庭前には花畑があったことから「花畠番」と呼ばれました。

 以降は1組50名に改められましたが、組数は6~10と流動的で、後には上級旗本がリーダーである番頭を務めました。享保8年(1723)には番頭が4000石、その下の組頭が1000石、一般隊士は300俵と給与が定められました。小姓組は書院番と合わせて「両番」と称され、名誉ある職とされていました。

おわりに

 「小姓」という歴史用語はよく目にしますが、イメージが先行して正確な職掌までは意外に知られていないのではないでしょうか。いずれにせよ、武家においては重要なキャリアになったことがうかがえます。


【主な参考文献】
  • 『日本国語大辞典』(ジャパンナレッジ版) 小学館
  • 『世界大百科事典』(ジャパンナレッジ版) 平凡社
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(ジャパンナレッジ版) 小学館

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  この記事を書いた人
帯刀コロク さん
古代史・戦国史・幕末史を得意とし、武道・武術の経験から刀剣解説や幕末の剣術についての考察記事を中心に執筆。 全国の史跡を訪ねることも多いため、歴史を題材にした旅行記事も書く。 「帯刀古禄」名義で歴史小説、「三條すずしろ」名義でWEB小説をそれぞれ執筆。 活動記録や記事を公開した「すずしろブログ」を ...

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