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新徴組の剣豪・中沢琴は生涯一度も負けなかった女武芸者!
- 2023/12/14
中沢琴(なかざわこと)は、女性でありながら男装姿になって、動乱の幕末に江戸市中の治安維持を担った女性剣豪です。不利な戦いや絶体絶命の時でも見事に切り抜けた女性剣士です。江戸から昭和へと4つの時代を力強く生き抜いた中沢琴の生涯を辿ります。
激動の幕末を駆け抜けた女剣士
中沢琴は、現在の群馬県利根郡で生まれました。幼い頃より剣術道場をしていた父から剣術を学び、特に薙刀の腕前は父をしのぐほどだったと言われています。当時の女性としては大柄で、身長は170cmあったそうです。中沢琴の名は、女性ながらに参加した浪士隊やその後に加わった新徴組にも記録されていません。これは女性であったのが理由のようですが。しかし残されている文献からは、琴が活躍した状況が詳細に見て取れるんですよ。
新選組と新徴組
浪士隊をもとにして誕生したのが、新選組と新徴組(しんちょうぐみ)です。どちらの組織も、勤王の浪士達を制圧するために結成されました。京都では新選組、江戸では新徴組と呼ばれています。男装をした中沢琴は、兄と共に新徴組に参加していました。兄である貞祗が記した新徴組記録や中沢兄妹の郷土に残る文献には、中沢琴が新徴組で活躍した様子が克明に書かれています。戊辰戦争(1868~69)の引き金となった江戸薩摩屋敷の襲撃に中沢琴が参加し、左足のかかとを切られながらも奮闘したこと。鳥羽・伏見の戦い(1868)では、新政府軍を相手に参戦。官軍の砲火の中で奮闘し、一時は官軍十数人に囲まれますが、数人の敵を切り倒し、たじろぐ敵の真ん中を突破して逃げ延びたことも。
幕末から明治に渡った激動の時代に、女性剣士の中沢琴の姿があったのです。しかし戦いには敗れたため中沢兄妹も処分を受けますが、薩摩藩の計らいで軽く済ませます。その後、中沢琴と兄は、明治7年(1875)に故郷の利根に戻るのでした。
浪士隊
徳川幕府の警備組織である新徴組が誕生するきっかけになったのが浪士隊が結成されたことによります。幕府は将軍家茂の警備のために、清河八郎を発起人として浪士隊の参加者を募りました。この浪士隊をもとに、尊攘派を取り締まる目的で生まれたのが、京の新選組と江戸の新徴組です。
新選組については、書物・映画・テレビ番組などでも取り上げられ、ご存知の方も多いことでしょう。しかし、新徴組の名はあまり認知されていないようです。浪士隊が上洛した際、清河八郎の考えに対抗してそのまま京都に居残ったメンバーが旗揚げしたのが壬生浪士組で、後の新選組となります。
新徴組
新徴組は、清河八郎の考えに賛同はできないが、とりあえず江戸に戻ったメンバーで結成された警備組織で江戸幕府によって任命されました。新徴組の取締責任者には、高橋泥舟と山岡鉄舟の2名が就きます。徳川家処分の話が持ち上がった際、勝海舟が官軍側に使者として派遣したのが山岡鉄舟でした。鉄舟は西郷隆盛と交渉を行い、見事にまとめあげたことでも有名ですね。ところが、勝海舟がまず人選として選んだのは、泥舟の方だったそうです。
有能で誠実剛毅な人格の2人は、多くの人から信頼を得ていました。しかし新徴組の中には、幕府の邪魔になるような商家を襲撃したり、ゆすりたかりを働くような者もいたことから、泥舟と鉄舟は責任を取らされることになります。その後、庄内藩酒井家の預かりとなるのですが、再び幕府より江戸市中の警護と海防警備の命令が出て、新徴組としての規律を取り戻したのでした。
明治維新後の中沢琴
幕末期に男性以上の活躍をした中沢琴。その後、激動の時代を生き抜き、昭和2年(1927)10月12日にその生涯を終えています。江戸・明治・大正・昭和という、大きく歴史が動いた時代を生きた剣豪・中沢琴は、まさに天寿を全うしたと言えるでしょう。新徴組での活動が終わった中沢琴は、明治7年(1874)に故郷の群馬県利根郡へ戻ります。30代半ばだった中沢琴の美貌はまだまだ健在で、嫁に欲しいという申込みが後を絶たなかったようです。しかし申し込みがあるたびに、自分を打ち負かしたら嫁に行くとして試合に臨むのですが、ついに彼女に勝てる男性はいなかったようです。結局は生涯独身で過ごしたとか。
剣豪として名を馳せた中沢琴にとって、戦いの場から離れてしまったのは寂しかったことでしょう。結婚をかけての戦いは、剣士として唯一の楽しみだったのかもしれませんね。
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