「平滋子(建春門院)」 平清盛の義妹にして後白河天皇の女御。栄華を極めたその生涯とは?

 平安末期、上西門院の女房から後白河院のもとへ入内し、最後には女御(にょうご。天皇の妻の地位の一つ)となった人物がいます。建春門院(けんしゅんもんいん)こと平滋子(たいら の じし/しげこ)です。

 平滋子は堂上平氏に生まれ、上西門院に出仕。後白河院の寵愛を受けて憲仁親王(のちの高倉天皇)を出産しました。義兄・平清盛ら平家一門の後ろ盾を得て、憲仁親王の立太子(皇位継承予定者としての皇太子を決めること)を実現。高倉天皇の即位を実現させています。

 そして滋子は国母として「建春門院(けんしゅんもんいん)」の院号を賜り、女御となります。最勝光院の造営や莫大な荘園の寄進など、その生涯は栄華を極めていました。滋子は何を目指して誰と出会い、どう生きたのでしょうか。平滋子の生涯について見ていきましょう。

堂上平氏の一門と平清盛との関わり

 康治元年(1142)、平滋子は検非違使(警察)兼兵部権大輔(軍政官)・平時信の娘として生を受けました。生母は藤原祐子です。

 滋子の生家は桓武平氏高棟王流の家柄でした。清涼殿への昇殿が許されたため「堂上平氏」と称されています。殿上人(昇殿できる身分)は五位以上が通常ですから、どれほどの名門だったかがわかります。

 堂上平氏は平安前期に公卿(三位以上)も輩出。藤原道長の時代には平惟仲が従二位中納言まで栄達を果たすなど、公卿として国政に関与できる立場を築いています。いわば滋子の生家である堂上平氏は、名門の中級貴族として周囲に認識されていたようです。

 家柄と平氏という点から、滋子自身や周囲には伊勢平氏との繋がりが生まれていました。滋子の乳母となって養育にあたったのは、伊勢平氏・平正盛(清盛の祖父)の娘・若狭局(平政子)です。久安元年(1145)頃には、姉・平時子が平清盛の後室となるなど、結びつきを深めていました。

※参考:平滋子の関係略系図
※参考:平滋子の関係略系図

後白河院に入内、のちに高倉天皇を出産

 やがて滋子は政治権力に近い場所に身を置くことになります。父・時信は鳥羽院に仕える院近臣であり、滋子自身も後白河院の同母姉・上西門院(統子内親王)に女房(=女性使用人)として仕えていました。

 上西門院の御所には、源氏や平家の縁者が出仕。加えて優れた歌人を輩出するサロンとしての空間的意味あいも持ち合わせていました。

 永暦元年(1160)、兄・平時忠が右少弁に叙任。ここから滋子は宮仕えの候名(さぶらいな。宮仕えのときに用いる名)を”小弁(こべん)”と称しています。滋子は上西門院の御所に女房として仕えることで、人脈を築くと同時に文才も磨いていったと考えられます。

 女房としての出仕は、やがて滋子に思いがけない出会いを果たします。後白河院は滋子の類稀な美貌と聡明さに惹かれて寵愛。滋子は後白河院のもとに入内しました。応保元年(1161)4月、院御所となる法住寺殿が完成。滋子は後白河院らと入御して「東の御方」と呼ばれるようになりました。

法住寺 竜宮門(京都府京都市東山区三十三間堂廻り町)
法住寺 竜宮門(京都府京都市東山区三十三間堂廻り町)

のち高倉天皇を出産する

 後宮(天皇の妻)は皇后を頂点として中宮・女御と続きます。滋子は堂上平氏出身ではありますが、身分の低さのため女御にもなれませんでした。しかし滋子は後白河院の寵愛を一身に受けて懐妊。同年に後白河院の第七皇子・憲仁を出産しました。

 なお、参考までにこの時代の天皇の妻の呼称と地位について、以下一覧(地位の高い順)としてまとめておきます。

  • 皇后(こうごう):天皇の正妻。同時に2人以上併立しないことが原則。ただし、前帝の皇后が譲位後も皇后と称し、新帝の皇后と併立したり、1人の天皇に2人の皇后が同時に併存したりする例外もあり、こうした場合、職制のうえでは一方を皇后、他方を中宮と称したそうです。
  • 中宮(ちゅうぐう):平安時代は皇后の別称でしたが、滋子の時代には皇后と並立していました。
  • 女御(にょうご):皇后・中宮に次ぎ、更衣の上。
  • 更衣(こうい):地位は女御の下。

 当時の中央政界では、後白河院の院政派と二条天皇の親政派が対立していました。滋子の兄・時忠は憲仁の立太子に向けて動いたため、二条天皇から怒りを買います。結果、時忠は二条天皇によって解官。翌応保2年(1162)には流罪に処されてしまいました。一連の出来事により、憲仁の親王宣下さえ厳しい状況となってしまいます。

 しかし滋子には直接的な圧迫は加えられていません。二条天皇の乳母は滋子の姉・時子であったため、時忠の流罪だけで処分はひと段落した形でした。

憲仁親王の立太子に尽力、「女御」に立てられる

 永万元年(1165)7月には二条天皇が崩御、六条天皇が即位しました。後白河院の院政派が力を取り戻し始めると、同年12月には憲仁に親王宣下が行われています。

 滋子の義兄・平清盛は、六条天皇の後見人でした。清盛の協力を得た滋子は、憲仁親王の立太子を実現すべく策動します。翌仁安元年(1166)10月には、東三条院において憲仁親王の立太子の儀式が執り行われました。このとき、滋子は天皇の生母として従三位に叙位。年が明けて仁安2年(1167)1月には女御となり、家司には平家一門から平宗盛(清盛の三男)らが任じられました。このように滋子の地位向上や憲仁親王の立太子は、平家の協力によって成立したのです。

 滋子は栄達を掴みつつも、神仏への厚い信仰を持っていました。9月には後白河院に伴われて熊野を参詣。滋子は熊野本宮において「胡飲酒」を舞っています。舞の途中で大雨が降りましたが、滋子は少しも驚かずに舞を続けました。滋子の胆力と熱い信仰心を物語る逸話です。

皇太后に立てられる

 やがて滋子の産んだ憲仁親王が政治の表舞台に登場します。仁安3年(1168)2月には、六条天皇が譲位。憲仁親王が践祚(せんそ。皇位につくこと)して、高倉天皇として即位しました。3月には後白河院によって皇太后・藤原呈子に九条院の女院号が付与。滋子は空位となった皇太后に立てられています。

高倉天皇像 (宮内庁蔵『天子摂関御影』より。出典:wikipedia)
高倉天皇像 (宮内庁蔵『天子摂関御影』より。出典:wikipedia)

 やがて滋子の既に亡き両親にも沙汰が降ることとなりました。6月には、高倉天皇によって平時信に正一位左大臣が、藤原祐子に正一位がそれぞれ追贈されています。

 『古今著聞集』によると、滋子は上西門院に仕えて同僚だった女房に心境を尋ねられています。滋子は平然と「前世の行いによるものでなんとも思わない」と答えたと伝わります。

 真実かどうかはともかく、滋子の気丈な性格が伝わるエピソードです。

建春門院の院号を賜る

建春門院の院号を名乗る

 嘉応元年(1169)には、滋子は女院に立てられ、建春門院の院号を宣下されました。

 院司には、兄・時忠や甥の宗盛などが任命されおり、滋子に近い人間で固められています。滋子の家政機関の構成員は、多くが後白河院や上西門院と重複していました。三者はいわば不可分な形で行動していたことがわかります。

 滋子は後白河院の不在時に、除目や政事について奏聞を受ける役目も担当。治天の君の代行的立場も果たしていました。滋子の権勢は「政治において女院の思いの通りにならないことはない」と称されるほどのものでした。

 承安元年(1171)1月、高倉天皇の元服の儀が無事に挙行。10月頃には、清盛の娘・徳子(建礼門院)の高倉天皇への入内が決まったようです。翌承安2年(1172)12月には徳子の入内が果たされ、滋子は着裳の儀において徳子の腰紐を結んでいます。滋子や平家の権勢はまさに絶頂期を迎えていたのです。

最勝光院の完成と行幸

 しかし滋子や平家に対しては、少しずつ不満も高まっていました。承安3年(1173)4月、滋子の寝ていた法住寺殿・茅御所が火災に遭遇。女房・健寿女(『建春門院中納言日記』の作者)らの先導で逃れています。後白河院は今熊野社に参籠中で留守でしたが、滋子を案じてすぐに御所に帰還しました。滋子が周囲の人間から厚く思われていること示す逸話です。

 しかし同年10月には、兄・時忠によって法住寺殿内に滋子が御願した御堂・最勝光院が完成。「天下第一の仏閣」と称されるほどの建築でした。最勝光院には莫大な荘園が寄進され、滋子の威信が広く示されました。一方で諸国には造営のために過重な賦課が課せられ、訴えが相次いでいます。

 承安4年(1174)には、滋子は後白河院と共に安芸国厳島に行幸。平家一門や院近臣からも供奉しています。院や妃が海路遠方へ旅行することは異例なことでした。吉田経房は『吉記』の中で「希代の事か」と批判しています。

崩御

 栄華を極めた滋子の生涯も終わりへと近づいていました。安元2年(1176)、後白河院の五十歳を祝う式典が開催。院や滋子、高倉天皇をはじめ、徳子や平家一門らが勢揃いしています。後白河院と滋子は式典後に摂津国の有馬温泉に御幸するなど、仲睦まじい様子が『百錬抄』にも記録されていました。

 しかし6月、滋子は突如として腫れ物を患って倒れます。後白河院は重子に付き添って懸命に看護し、加持祈祷にも力を尽くして回復を祈りました。7月、滋子は後白河院による看病もむなしく崩御しました。享年三十五。墓所は蓮華王院(三十三間堂)にあります。

 後白河院は、滋子の逝去を大変悲しみ、歌を詠んでいます。

「わすれゆく 人のこころはつらけれど そのをもかけは なをそこひしき」

その後の平家は?

 滋子の崩御によって、平家と院近臣の均衡は崩れていきます。

 元来、平家一門と院近臣らとの間には官職の叙位叙任や知行国、荘園の領有を巡った対立が存在していました。双方の対立関係を回避するため、滋子が調整に当たっていたのです。滋子の死は、対立関係の再燃を顕在化させ、平家と院近臣は衝突に向かって動きはじめていきます。

 安元3年(1177)には、院近臣・西光らによる鹿ヶ谷の陰謀が発覚。平家打倒の密議に参加した西光らは、清盛によって処罰されています。治承3年(1179)、清盛は後白河院を幽閉して院政を停止させました。程なくして徳子が産んだ言仁親王を践祚させて安徳天皇が即位しています。

 しかし平家による中枢権力の掌握は、長くは続きませんでした。治承4年(1180)には、後白河院の第三皇子・以仁王が源頼政らと挙兵。全国の源氏と寺社に平家打倒の令旨を発しています。やがて全国で反平家の狼煙が上がると、平家が徐々に追い詰められていきました。

 元暦2年(1185)には、平家は壇ノ浦で滅亡。滋子の姉・時子は安徳天皇と共に海中に身を投じています。滋子の死からわずか九年のことでした。


【参考文献】

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  この記事を書いた人
コロコロさん さん
歴史ライター。大学・大学院で歴史学を学ぶ。学芸員として実地調査の経験もある。 日本刀と城郭、世界の歴史ついて著書や商業誌で執筆経験あり。

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