かつて天守閣も備わっていた大和支配の要「宇陀松山城(秋山城)」の歴史について

ろひもと理穂
 2022/05/18
上空からみた宇陀松山城跡の本丸
上空からみた宇陀松山城跡の本丸

戦国時代、大和国支配の要となっていたのが奈良県宇陀郡に建てられていた宇陀松山城(うだまつやまじょう)です。

現在は石垣などがわずかに残されているだけですが、近年の発掘によって、かつて天守閣や本丸御殿を備えていたことやその構造が解明されて注目されています。

今回はこの宇陀松山城の歴史についてお伝えしていきます。

以前の名称は秋山城

松山城と呼ばれるようになったのは後年のことで、築城された当時は秋山城と呼ばれていました。大和国宇陀郡の有力国人である秋山氏がこのお城を築いたからです。

標高473mに築城された秋山城からは、南に吉野や大峰、北には大和富士を眺めることができ、城下町を一望できます。

なお、秋山氏は宇陀三将と呼ばれており、芳野氏や沢氏と共に宇陀郡を領有していました。『勢衆四家記』には、和州宇陀三人衆として、伊勢国司の北畠氏に仕えたと記されています。

松永久秀が大和に侵攻してきた際には有力国人の筒井氏に味方して対抗しました。また天正10(1582)年の山崎の合戦では、筒井順慶の家臣として筒井城を守ったことが記されており、天正12(1584)年に蒲生氏郷が南伊勢を統治するようになるとその与力衆となりました。

秋山氏は、天正13(1585)年に長宗我部元親を降した功績によって豊臣秀長が大和や河内など百万石に加増されて大和を支配すると同時に秋山城から退去し、伊賀へ移っています。

秀長は郡山城を拠点としたため、秋山城城主はかなり入れ替わっていたようです。歴代の城主には、伊藤義之、蟄居の身で秀長の下に身を寄せていた加藤光泰、羽田正親などの名が見られます。

天正19(1591)年に秀長が死去。翌年の永禄元(1592)年からは堀秀政の弟で、秀長にも仕えていた多賀秀種が2万石の大名として秋山城の城主となります。秀種は8年間城主を務めており、この期間で大規模な改修工事が行われたことが発掘からわかっています。発掘からは多賀氏の家紋の入った鬼瓦が見つかっています。

秀種は以前に明智光秀に味方したため改易となって、兄の秀政の家臣となった過去がありましたが、慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いにおいても西軍に味方したため改易となってしまいました。こうして短期間にまたもや城主が入れ替わります。

なお、秀種は慶長20(1615)年の大坂の陣において前田氏に味方して武功を挙げ、前田利常に6000石で召し抱えられていますので、味方にはなかなか恵まれなかったものの武将としての力量はかなりのものだったようです。

松山城に改名される

秀種の後、城主となったのが、関ヶ原の戦いで東軍に与し、戦功を上げた福島高晴です。福島正則の弟にあたる高晴は3万石に加増され、初代の宇陀松山藩主となりました。

お城の改修工事は高晴によって継続され、本丸御殿はこの時期に建てられたと考えられています。発掘によってその構造が明らかになってきていますが、本丸の周辺は石垣に沿って多聞櫓が囲んでおり、高石垣や攻略の難しい虎口を配し、瓦葺きであったことなどから近世城郭のお城であったことがうかがえます。

秋山城から松山城に改名されたのもこの時期です。近年の発掘調査において、礎石の発見や石垣、瓦、陶磁器などが出土されており、当時の大規模改修工事の様子が明らかになってきました。

ただし高晴の統治はあまりうまくいっていなかったようで、その専横ぶりを家臣から徳川家康に訴えられることもありました。そのことについては兄・政則の功績を考慮して家康は目をつむっていましたが、高晴は元和元(1615)年の大阪夏の陣で、豊臣方に内通し、密かに大坂城に兵糧を運び込んでいたとの嫌疑をかけられて改易となります。

高晴は嫡男の福島正晴(500石は与えられ名跡を継ぐことを許されています)らとともに伊勢の山田に移り住みました。その後、赦免されることなく高晴は山田で死去しています。

替わって宇陀松山藩には織田信雄が五万石で入封され、元禄8(1695)年まで織田氏の藩主が続き、その後に廃藩となっていますが、織田氏の統治において拠点として宇陀松山城が使用されることは一度もありませんでした。

というのも高晴が改易になったと同時に宇陀松山城が破却されてしまったためです。ですから実際に松山城と呼ばれていた時期はわずか15年間ほどだったのです。

宇陀松山城の廃城について

高晴の改易時に宇陀松山城の城割(破却)を江戸幕府より命じられたのは従五位下遠江守の官位に就いていた小堀政一(通称は小堀遠州)です(後に近江小室藩に移封され藩主となっています)。

政一は、備中松山城の再建や駿府城の改修、名古屋城の天守の造営など、数々のお城の造営や修築などに秀でた業績を残した人物でしたが、宇陀松山城の廃城に携わった際には、城割人夫の数が不足しているのでどうにかならないかという相談・要望をしており、その直筆の書状が平成9(1997)年、東京で発見されています。

当時の城割がどのようにして行われたのかを知る貴重な資料であることから、長浜歴史博物館にその書状が保管されています。政一は天守閣や本丸、帯郭などすべてを破却しましたが、その際に門や櫓、御殿の解体撤去作業の様子や、石垣や石段、礎石を破壊する作業の様子まで記録していました。

江戸期、明治期、大正期と宇陀松山城が再建または復元されるような動きはありませんでしたが、発掘調査が進むにつれて江戸期初期の近世城郭の重要な遺構であるとして、平成18(2006)年に宇陀松山城跡の名称で、国の史跡に指定されています。

さらに平成23(2011)年には奈良県景観資産に登録され、平成29(2017)年には、続日本百名城にも選定されました。

なお、宇陀松山城には秘密の抜け道があり、天守閣から山麓にある春日神社の石垣の穴に通じていると伝わっています。あくまでも言い伝えで、文献などには記されていません。もしかすると今後の発掘調査でその正体もはっきりするかもしれません。

まとめ

天守閣や本丸御殿があったことは発掘調査で明らかになっていますが、復元はされていません。あくまでも廃城跡の石垣などが残っているだけです。ただし、地元の大宇陀地区の住民にとっては、宇陀松山城は街の象徴であり、お城の街であるという認識を強く持っています。

そんな宇陀松山城跡を散策する際には、旧街道(春日門跡のある道)とまちづくりセンターの裏から登る道の両方を使ってみるのがお勧めです。戦国時代から江戸時代にかけての歴史を感じられるのではないでしょうか。

※参考:略年表
14世紀宇陀三将の秋山氏によって築城される
天正13(1585)年豊臣秀長の大和に入部したため、秋山氏が退去
永禄元(1592)年多賀秀種が城主となる
慶長5年(1600)年秀種が西軍に味方したため改易され、福島高晴が城主となる
元和元(1615)年大坂夏の陣で高晴が豊臣方への内通を疑われ改易。宇陀松山城は小堀遠州によって破却される
平成9(1997)年東京で宇陀松山城の廃城についての書状が発見される
平成18(2006)年指定名称「宇陀松山城跡」として国史跡に指定される
平成23(2011)年奈良県景観資産に登録される
平成29(2017)年続日本百名城に選定される

【主な参考文献】

※この掲載記事に関して、誤字脱字等の修正依頼、ご指摘がありましたらこちらよりご連絡をお願いいたします。

  この記事を書いた人
ろひもと理穂 さん
歴史IFも含めて、歴史全般が大好き。 当サイトでもあらゆるテーマの記事を執 ...

  • このエントリーをはてなブックマークに追加