城が時代やその時々の支配者によってその名を変えるのはよくあることですが、同じ発音でも表記によって意味合いが違ってくるものもあります。その代表格のひとつが「那古野城」でしょう。
同じ「ナゴヤ」と読んでも、尾張徳川家の居城として有名な「名古屋城」とは時代も規模も異なるもので、いわば「原・名古屋城」とも呼べるのが戦国時代の那古野城です。
今回は尾張の歴史に重要な役割を担った、那古野城にフォーカスしてみましょう!
(文=帯刀コロク)
那古野城とは現在の愛知県名古屋市中区に所在した城で、駿河の今川氏が尾張東部を領有していた時期の前線基地のひとつといえます。
当地は今川氏の庶流で、室町幕府奉公衆も務めた家格の那古野氏が支配し、尾張守護として斯波氏が任官された後もそのまま残留していました。
その築城は1521~1528年(大永年間)頃で、今川義元の父にあたる今川氏親の手によるとされています。 名古屋市中心部の熱田台地西北端に造営した柳之丸という要塞がそうで、これが那古野城の原型と考えられています。
16世紀初め頃までの那古野城主は今川氏豊という武将で、正確な系譜は不明ながらも那古野氏の養子となり尾張守護の斯波氏とも姻戚関係を結んだとされています。
この那古野城を奪取し、今川氏の尾張における権益を大きく退けたのが信長の父・織田信秀です。
氏豊から那古野城を奪った時期については大きく1532年(享禄5年)説と1538年(天文7年)説の二つがあり、確実な年代は判明していません。ただし、織田信秀の勝幡城に招かれて公卿の山科言継と飛鳥井雅綱が蹴鞠の指導をしたのが1533年(天文2年)のことであり、このときに今川氏豊も参加していたことが記録されています。
したがってこの記述を正しいものとするならば、信秀が那古野城を手に入れたのは後者であると考えられるでしょう。
信秀は別に築いた古渡城に移転し、やがて那古野城は信長に譲られたとされています。 その信長が1555年(弘治元年)、主家である織田大和守家を滅ぼし、本拠であった清洲城を奪取します。
代わって那古野城には信長の叔父・織田信光や筆頭家老・林秀貞らが留守居などの形で入りますが、やがて廃城となります。 それには信光の不慮の死や秀貞の一時離反、清洲城への拠点機能集中やその後の美濃方面攻略等々、さまざまな理由が考えられます。
那古野城は以降、半世紀ほども無人となりその土地は原野同様に荒れたと考えられます。 しかし1609年(慶長14年)、徳川家康により尾張の拠点として名古屋城築城の決定が下され、再び那古野城跡地が注目されることになります。
それまでは織田氏時代同様、清洲城が政庁機能をもっていましたが、平城であることなどから有事の際の防御力を懸念し、台地上にあった那古野城の立地が再評価されたと考えられています。
これが現在の名古屋城ですが、その規模は那古野城時代からははるかに増大しています。 旧那古野城は現在の名古屋城二之丸あたりであったと推定され、那古野城址の碑が建てられています。
関ヶ原合戦の後、徳川氏の天下となったとはいえいまだ豊臣氏の残党が健在であり、予断を許さない情勢が続いていました。 そんな時代背景において、名古屋城には関西勢に対する防備と牽制、そして万が一戦になった場合は江戸への防衛として最前線基地としての役割が求められたのです。
歴史的に尾張は交通の要衝として栄えると同時に、その権益をめぐって多くの武将たちが鎬を削ってきた土地です。 信長にしても長く凄惨な同じ織田家同士の内紛を制し、ようやく戦国史の表舞台に立ったことを思うとその立地上の重要性がよく理解できます。
徳川氏も御三家の一角として尾張を重視し、その拠点として那古野城址の立地を評価したことは注目に値します。 那古野城としての歴史はさほど長くはありませんでしたが、その戦略的な重要性は後世に継承されたことがよくわかります。
織田信秀が那古野城を奪取した年代には諸説あり詳らかではありませんが、信長に至る一族が同族同士の内紛や周辺の有力大名とのパワーバランスに腐心してきた様子をよく伝えています。
名古屋城に行くことがあれば、そこには旧・那古野城という布石が眠っていることに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
※参考:略年表