【東京都】八王子城の歴史 悲惨な籠城戦の舞台となった関東随一の山城
- 2025/02/14
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渋谷や新宿から40分程度でアクセスでき、手軽な登山スポットとして人気を集めるのが高尾山です。さて、山頂へ立って北の方角を眺めてみると、台形の山が見えると思います。
この山は深沢山といい、かつて北条氏照が築いたという八王子城がありました。現在も当時の遺構が数多く残っており、関東随一の山城だったことがうかがえます。
しかし、氏照の居城となってからわずか数年後、八王子城は豊臣の大軍に攻められて落城しました。なぜ氏照はこの地に城を築こうとしたのか?また要害堅固だった八王子城が、簡単に落ちてしまった理由は何だったのか?その興亡の歴史とともにお伝えしたいと思います。
この山は深沢山といい、かつて北条氏照が築いたという八王子城がありました。現在も当時の遺構が数多く残っており、関東随一の山城だったことがうかがえます。
しかし、氏照の居城となってからわずか数年後、八王子城は豊臣の大軍に攻められて落城しました。なぜ氏照はこの地に城を築こうとしたのか?また要害堅固だった八王子城が、簡単に落ちてしまった理由は何だったのか?その興亡の歴史とともにお伝えしたいと思います。
【目次】
北条氏照が八王子城を築いた理由とは?
北条氏康の第三子として氏照が生まれたのが天文11年(1542)のこと。当時の北条氏は、関東地方で急速に勢力を拡大しつつあり、天文15年(1546)の河越合戦で勝利したことで、古河公方や山内・扇谷上杉氏の一掃に成功しています。そこで氏康は武蔵の完全領有に目を付けました。ただし敵対する在地勢力との闘争を好まなかった氏康は、むしろ吸収することで支配体制を盤石にしようと考えます。
その一環として、武蔵西部で勢力のあった大石氏へ氏照を送り込み、養子として名跡を継がせようとしました。大石氏の本拠が由井城だったことから、氏照は由井源三、あるいは大石源三とも呼ばれています。
その後、氏照は滝山城を本拠として定め、上杉謙信に与して抵抗する三田綱定を攻めるなど周辺一帯を平定し、さらに第二次国府台合戦や関宿合戦などで華々しい活躍を見せました。やがて武蔵西部の差配者として、下野・下総方面の攻略司令官として、その地位を確固たるものにしていきます。
しかし永禄12年(1569)、武田信玄による大規模な関東侵攻が始まりました。上州方面から南下した武田軍は、弟・北条氏邦が籠もる鉢形城を攻撃したあと、氏照がいる滝山城へ猛攻を加えます。二の丸まで攻め込まれて落城寸前となりますが、なぜか武田軍が撤退したことで、辛くも氏照は難を逃れました。
そうした苦い体験から、氏照は要害堅固な城を築く決心を固めたといいます。また滝山城攻めの際、武田の別動隊が小仏峠を越えて侵攻しており、西の安全を確保したかったという向きもあるようです。つまり、敵が小仏峠を通過してしまうと、そこから小田原城までなんの障害もありません。そのため峠を扼する城が必要となったのです。
もし深沢山に城を築けば、南麓の小仏道のみならず、北麓の案下道も抑えられますから、西に対する守りは万全となるでしょう。しかも深沢山は扇状地上の山塊であり、外郭を造りやすいという利点がありました。西だけでなく、北方や東方から向かってくる敵にも対処できるのです。
さらに標高400メートルの独立峰だったため、すこぶる眺望が利くというメリットがありました。東には関東平野が開け、遠く筑波連峰まで見渡せます。また南へ目を向ければ相模湾を一望できますから、その立地を生かす役割が期待できました。
もし小田原城が危機に陥れば、狼煙網を生かしつつ関東各地の軍勢を集結させることが可能となるでしょう。そうした理由から、氏照は深沢山に新しい城を築こうとしたのです。
戦国随一の山城が完成する
氏照が八王子城を築く以前、深沢山周辺に城が存在したことが確認できます。「堀江氏系図」によれば、建武元年(1334)に堀江常実が武蔵に領地を与えられ、深沢山に城を築いたことが記されているそうです。また「五日市大悲願寺過去帳」には、竹林伐採を禁じる制札が出されたとの記述があり、そこには「八王子御根小屋」との表現が確認できます。つまり深沢山一帯には、小仏峠を抑える小規模な要害が存在していたのでしょう。
ちなみに氏照が滝山城にいたとする記録は、天正8年(1580)が最後となっており、先ほどの大悲願寺過去帳をひも解いてみると、このような記録が確認できます。
「天正六年、当国由井領神護寺山ニ於テ三月比ヨリ新城築始ム、横山領ノ古城ヲ移サントスル沙汰ナリ」
(天正6年のこと、由井領にある神護寺山において、この3月から新城の築城が始まった。横山の古城を移すということだ)
深沢山には古くから牛頭山神護寺があり、滝山城は別名を「横山城」とも呼びますから、天正6年(1576)から築城が始まったことがわかるのです。
また、天正10年(1582)に、氏照が家臣へ発した書状には「普請之儀」と記されているため、まだ城は完成せず、普請がまだ続いていたのかも知れません。
そんな八王子城が本拠として機能し始めたのは、天正15年(1587)頃と推測されています。これは氏照の家臣・狩野宗円が発した書状で、小田原城の普請を任された氏照に代わり、宗円が八王子城の留守居をするというもの。おそらく天正15年までには、滝山城から八王子城へ本拠を移していたのでしょう。
さて、ここから八王子城がどのような城だったのかを見ていきます。その縄張りは大きく分けて山麓(太鼓曲輪地区)・山腹(居館地区)・山上(要害地区)に分類され、それぞれで役割が異なっていたようです。
まず山麓の太鼓曲輪は八王子城の外郭線を成し、尾根上に石塁を重ねた曲輪が連続しています。また5カ所にわたって岩盤を削った堀切があり、尾根を完全に遮断していました。
次いで山腹にあたる居館地区は、城主・氏照がいた御主殿があったとされ、山頂の主郭部から200メートルほど下に設けられています。ここには南北約60メートル、東西約110メートルの削平地があり、周囲を石積みで囲ったうえに土塁が積まれていました。また、東北隅には枡形虎口が設けられ、そこから石段を下りて直角に折れると曳橋へ至ります。
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そして山上の要害地区には、詰めの城として多くの曲輪が造成されていました。まず山頂部には本丸があり、その北東には小宮曲輪、南東側には松木曲輪が配置されています。周囲には無数の狭小曲輪や腰曲輪などが散在することで、その堅固ぶりが見て取れるでしょう。さらに尾根沿いには曲輪や削平地が連続しており、典型的な戦国山城の姿を見せています。
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城跡からは礎石建物跡なども発掘されていますが、注目すべきは7万点に及ぶ遺物の膨大さでしょう。そのうち3万点が舶来品となり、青磁や白磁の陶器、さらにはベネチアングラスなども出土しています。また庭園跡なども発掘されており、その文化レベルの高さには驚きを禁じ得ません。
当時の八王子は北条氏の兵站基地としてだけでなく、武蔵西部でも有数の町だったことがうかがえます。周辺には古甲州道を取り込む諏訪宿や横山宿があり、南には霊場として名高い高尾山、また日枝・住吉両神社があることで、たいそうな賑わいを見せていたのでしょう。
こうした領地の繁栄が、氏照に莫大な財力を与えたのかも知れません。八王子のような内陸部でも、これだけの舶来品を入手できたのですから、北条氏の豊かさは想像以上のものだったのでしょう。
豊臣軍来攻に備えて防備を固める
八王子城の築城について、もう一つ注目すべきことがあります。「信長公記」によれば天正8年(1580)のこと、氏照の家臣・間宮綱信が上洛し、織田家との親交を深めるべく信長との謁見を求めました。すると信長は、滝川一益に京都案内を務めさせ、そのあとに「安土へ下ってまいられよ」と声を掛けたといいます。ちょうど安土城が完成して間もない頃ですから、おそらく帰国した綱信はその絢爛豪華さを氏照に報告したことでしょう。その素晴らしさに感銘を受けた氏照は、さっそく安土城の意匠を取り入れさせたと考えられます。
そして八王子城の御主殿虎口には大きな石を配し、見事な石段を伴う大手道を完成させました。その様相は安土城のそれと酷似しているそうです。
さて、八王子城の完成から数年後、北条氏が置かれた状況は厳しさを増していきました。それは豊臣政権との関係が大きく変化したからです。
天正14年(1586)、北条氏と同盟を結んでいた徳川家康が豊臣秀吉に臣従しました。しかし秀吉と誼を通じていた佐竹・宇都宮・真田らと敵対していた北条氏は、おいそれと豊臣傘下へ入ることはできません。
従属か?対決か?選択を迫られた北条氏は、来たる将来に備えて、惣国防衛体制の構築へと舵を切るのです。これは小田原城をはじめとする城郭の普請、さらに軍需物資の調達や集積、そして軍事力の確保を進めるものでした。北条氏政・氏直父子は、各郷村の代官や領民たちに動員準備令を発し、有事の際には弓・槍・鉄砲のいずれかを持参することを命じています。
これは八王子城でも実施され、家臣に対して兵糧を城下に集めることや、妻子を人質として差し出すことが定められました。さらに社寺に対して梵鐘の供出を命じており、これは言うまでもなく銃弾を鋳造するためです。
天正17年(1589)10月、沼田城代・猪俣邦憲が名胡桃城を攻め落としました。秀吉はこの時を待っていたかのように北条氏へ宣戦布告し、大軍をもって関東へ進攻することを宣言したのです。
悲惨な結末となった八王子城攻防戦
天正18年(1590)2月、まず先鋒の徳川家康が3万を率いて駿府を発し、続いて3月には秀吉が大坂城を出陣しています。東海道を進む本軍が14万、さらに前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら北国軍が3万という空前の大軍でした。やがて小田原城が包囲される中、山中城、松井田城、玉縄城などが相次いで落ち、続いて江戸城、河越城、松山城が降伏開城しました。こうして関東各地の支城は瞬く間に無力化されていきます。
この頃、八王子城では怒涛のように押し寄せる豊臣軍を前に、必死の防戦準備が進められていました。
城主の氏照は、前年の夏から主力とともに小田原城へ詰めており、八王子城を守るのは城代家老・横地監物らの重臣たちです。そのため城内にいたのは老兵や農兵らに過ぎず、およそ数千が籠もるのみでした。
ここからは江戸時代に編纂された「北条氏照軍記」に沿ってご紹介していきましょう。
6月22日、松山城付近で駐屯していた豊臣軍がいよいよ動き出しました。そして八王子城における戦闘が始まったのは、日付が変わった2時頃のことです。大手からは、大道寺勢・前田勢が火を放ちながら進み、搦め手から上杉勢が果敢に攻め込んできました。
奥御霊谷へ分け入った前田勢は、尾根に登ると山下曲輪目掛けて銃声を浴びせます。城方もこれに応戦し、激しい銃撃戦が展開されました。
「敵味方の打交へる鉄砲の音は百千の雷の大地を震ふ如く。射交す矢は夕立の水端を通るよりも猶繁し」
なかなか劇的な描写ですが、実際にこのような激戦が繰り広げられたのかも知れません。
奮戦する城方ですが、時間の経過とともに数の差で圧倒されてしまいます。ついに曲輪内へ敵の侵入を許してしまい、八王子城は凄惨な白兵戦の舞台と化しました。
城方では近藤助実・金子家重らの諸将が戦死し、大道寺勢が挙げた首級は350に及んだといいます。
こうして難関を突破した豊臣軍は、山上への道を攻め上りました。山頂へ達した前田勢は中山曲輪へ攻め掛け、激戦の末に中山勘解由を討ち取っています。しかし勘解由も奮戦した末、前田勢の青木信照ら30余りを戦死させました。
いっぽう上杉勢は、搦め手側の別道を通って小宮曲輪へ奇襲を仕掛け、城方の狩野宗円を討ち取るという働きを見せています。
こうして山頂の曲輪群が落ち、城代の横地監物が戦死したことで、ついに八王子城は陥落しました。榊原康政の書状によれば、落城の時刻は早朝とされ、およそ4、5時間ほどで攻め落とされたのでしょう。
また御主殿の滝では、城方の妻女たちの多くが身を投げ、その命を絶ったという言い伝えが残ります。
その後の八王子城
八王子城の陥落は、小田原城に籠もる北条軍に大きな衝撃を与えました。動揺が深まる中、抵抗か?降伏か?決断を迫られた北条氏直はついに降伏を申し入れます。こうして関東地方を支配した北条氏の時代は、ここに終焉を迎えました。その後、屍で覆われた八王子城跡は、地元の領民たちが恐れる「忌み山」となったようです。人々は鎮魂を込めて、毎年やって来る落城の日には、小豆飯を炊いて仏壇に供えるようになったとか。
ちなみに北条氏照軍記の末尾は、このように締めくくられています。
「今も落城の日になれば、天下晴れても此山斗りかすみ、覆ひ時ならず人馬の馳違ふ音、又は鉄砲矢叫びの声、山谷に響き或は女の泣き叫ぶ声など、愁々として物凄く、里人この日は山に入らず」
現在でも八王子城跡が心霊スポットとして有名なのは、こうした「忌み山伝説」が元になっているのかも知れません。
北条氏の滅亡後、関東へ入った徳川家康は、八王子城下の治安維持を甲州小人組に任せました。これはのちの八王子千人同心の前身です。
また八王子一帯は甲州口を固める重要地域として認識し、直轄領としたうえで新しい町づくりを進めていきました。
まず旧城下を元八王子と位置づけ、かつての横山・諏訪・八幡といった宿場を中心に新たな町が整備されていきます。道をカギ状にして防御性を高め、東に寺町を置くことで重要な防衛拠点としました。
やがて八王子は甲州街道の宿場として、江戸時代を通じて繁栄を続けたといいます。
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おわりに
信長の安土城を参考に築き上げた八王子城は、城主・北条氏照にとって、まさに夢の城だったに違いありません。堅固な城を築き、城下町を整備し、富を呼び込むことで、もしかすると小田原に次ぐ新都市を造りたかったのではないか?そんなふうに思えてくるのです。しかし豊臣の大軍を前に、八王子城は悲壮な最期を遂げました。発掘された礎石は無残に焼けただれ、富の象徴だったベネチアングラスも、その多くは熱で変形していたといいます。凄惨な戦いとともに、そこで大きな火災があったのでしょう。
こうして北条氏の終焉とともに、八王子城の歴史も幕を閉じたのです。
補足:八王子城の略年表
年 | 出来事 |
---|---|
建武元年 (1334) | 堀江常実が武蔵に領地を与えられ、深沢山に城を築く。 |
永禄2年 (1559) | 北条氏照が大石定久の娘を娶り、その名跡を継ぐ。 |
永禄13年 (1569) | 武田信玄による関東侵攻。滝山城が陥落寸前となる。 |
天正6年 (1578) | 氏照、深沢山で新城の築城を始める。 |
天正8年 (1580) | 氏照の家臣・間宮綱信が上洛し、織田信長に謁見。 |
天正14年 (1586) | 北条氏が惣国防衛体制を整備し、軍備を拡大する。 |
天正15年 (1587) | この年までに八王子城が完成する。 |
天正18年 (1590) | 豊臣軍の猛攻によって八王子城が陥落。 |
同年 | 八王子一帯の治安維持のため、250人からなる甲州小人組が派遣される。 |
慶長4年 (1599) | 人員の増加を受けて八王子千人同心が発足する。 |
元禄年間 (1688~1703) | 城跡に八王子権現社が再建される。 |
昭和26年 (1951) | 八王子城跡が国の史跡に指定され、石垣や曳橋などの遺構が復元される。 |
昭和62年 (1986) | 御主殿跡で本格的な発掘調査が始まる。 |
平成2年 (1990) | 開市400年事業に伴い、御主殿虎口の整備が完了する。 |
平成18年 (2006) | 日本100名城に選定される。 |
【主な参考文献】
- 峰岸純夫・齋藤慎一(編)『関東の名城を歩く 南関東編』(吉川弘文館、2011年)
- 黒田基樹・浅倉直美(編)『北条氏康の子供たち』(宮帯出版社、2015年)
- 伊東潤『城を攻める 城を守る』(講談社、2014年)
- 椚國男・吉山寛『高尾山と八王子城』(揺藍社、2009年)
- 八王子市郷土資料館『発掘された八王子城』(1996年)
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