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伊達政宗が注いだ芸術的情熱…華麗なる「伊達者」の原点、岩出山城時代の12年

  • 2025/12/01
:歴史家
岩出山城跡(宮城県大崎市岩出山字城山)
岩出山城跡(宮城県大崎市岩出山字城山)
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史料上の「伊達者」

 伊達政宗は、「伊達者(だてもの)」という言葉の語源になった人物として知られている。

 政宗が岩出山城(いわでやまじょう・宮城県大崎市岩出山)の城主だった時代、豊臣秀吉の要請により名護屋城(佐賀県唐津市)へと武者行列を率いて向かった。その様子があまりに壮麗であったため、「京童の諺に、伊達者と云い習わし、これよりして、伊達をすると云ふ詞は始まれりと云ふ」(『伊達治家記録』)と伝えられている。

 旗を持つ兵士たちは全身黒づくめの具足をそろえ、鉄砲・弓・槍を携えた歩兵も黒具足に金色の長い陣笠を被っていた。政宗自身は、三日月の前立てで知られる「黒漆五枚胴具足」をまとっていたかもしれない。

 記録によれば、人々はその威容にどよめきを上げたという。

政宗の武者行列イメージ
政宗の武者行列イメージ

岩出山城と政宗の新たな拠点

 この華麗な武者行列を支えたのは、岩出山城を中心に築かれた安定した政権基盤であった。

 天正19年(1591)、政宗はおよそ250年間にわたり大崎氏が治めていた旧領を豊臣秀吉から与えられ、居城を米沢から岩出山へと移した。

 もともとは「岩手沢城」と呼ばれていたが、政宗はこれを「岩出山城」に改名させた。この地は、新たな支配地の中央に位置し、米沢から出羽へ通じる奥州幹線道の要衝でもあった。統治と交通の両面で極めて優れた立地だったのである。

 それにもかかわらず、政宗はこの城に大規模な天守閣や高層櫓を築かなかった。これについては、いずれ仙台方面へ本拠を移すことを見越していたからではないか、という説もある。

岩出山に注いだ政宗の情熱

 とはいえ、政宗が岩出山城を暫定的な居場所、単なる腰掛けとして扱っていたとは言いがたい。

 関ヶ原の戦い後、慶長7年(1602)に仙台城(青葉城)へ移るまでの12年間、政宗は岩出山を拠点とした。12年という年月は、暫定的というにはあまりに長い。

岩出山城跡にある政宗像
岩出山城跡にある政宗像

 政宗は岩出山城下の防衛と灌漑を兼ねた治水事業を進め、「大堰」の整備や河川の開削に多大な労力を費やした。そのうえで水利を整え、新田開発を推し進めて、今日の農業基盤につながる土地利用の礎を築いている。

 仙台は広大な平地と良港を備え、城下町の拡張や人口確保に適した土地だったが、それでも政宗は長く岩出山に留まった。自らの手で整備した地の景観や風土を愛したのかもしれない。

 岩出山は政宗にとって、単なる政治拠点ではなく、一種の「芸術作品」であった。今日まで語り継がれる彼の華麗な武者行列が人々に感嘆を与えたのも、この地を中心とする統治が堅実に機能していたからにほかならない。


【参考文献】
  • 岩出山町史編纂委員会編『岩出山町史』(岩出山町、1970年)
  • 乃至政彦『戦国大変』(JBpress、2023年)

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  この記事を書いた人
ないしまさひこ。歴史家。昭和49年(1974)生まれ。高松市出身、相模原市在住。平将門、上杉謙信など人物の言動および思想のほか、武士の軍事史と少年愛を研究。主な論文に「戦国期における旗本陣立書の成立─[武田信玄旗本陣立書]の構成から─」(『武田氏研究』第53号)。著書に『平将門と天慶の乱』『戦国の陣 ...

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