大阪冬の陣(1614年)での激闘は和睦という形で終結した。これは家康による狡猾な密事で成し得たという和睦の舞台裏の話である。
※『名将言行録』より
━━ 慶長19(1614)年 ━━
わかっておるな?秀頼公と淀君だけにお見せするのじゃぞ・・・。
かしこまりました。
大阪冬の陣が終盤を迎えている中、家康は豊臣方との和睦に向け、京極忠高の母と阿茶局(=あちゃのつぼね、家康の側室)を使者として淀君・豊臣秀頼のもとへ向かわせた。
ちなみに京極忠高の父が京極高次であり、その正室が淀君の妹・常高院、側室が京極忠高の母(山田氏)である。
━━━ 大阪城にて━━━━
本日はどのような御用でございましょうか?
実は・・家康公が真田幸村・長宗我部盛親・毛利勝永の3人へ書状をつかわしたところ、それぞれ返書を受け取りました。
真田幸村・長宗我部盛親・毛利勝永の3人は大阪の陣で豊臣方に味方した主力な将である。
そして、京極忠高の母はこの3人の徳川宛ての書状を淀君と豊臣秀頼へ手渡した。
・・・
・・・・・
・・・・・・・
!!! こっ、これは!
母上!!いかがなされたのです?書状をおみせくだされ!!
このような物はにわかには信じられぬ!
・・・この3つの書状をみてみよ。
3人の家康への返書には、それぞれが徳川方に味方する旨の内容が書かれていたのである・・・。
そ、そんな!!
し、しかし・・、この筆跡や花押は彼らのものでございまする。
それはまことか!?
・・・・・はい。
くっ!!
家康公は「この書状は御母子様にお目にかける筋のものではございませぬが、お伝えせねば秀頼公が諸牢人らに捕えられて当方へ差し出されることにもなりかねず、そうなれば双方にとっても好ましくないので、よく御相談なさっていただきたい」と・・・。
また、家康公は「秀頼公も大阪でご自由になり、自分も既に年老いているから駿府へ帰りたい」と。
そして「将軍(秀忠)は年も若く、孫娘の千姫のこともかわいそうなので、是非とも和談になさるように」と申しております。
実はこの交渉で使った3人の返書は家康が事前に作らせた偽の書状であり、3人の花押や手跡をそっくりにし、徳川方に味方することを承諾するような内容に仕立てたのものであった。
しかし、秀頼は書に通じていて3人の花押や手跡を知っていた。このため熟慮することもなく、淀君の意向であっさりと和睦交渉となったのである。