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【やさしい歴史用語解説】「一向宗」
- 2024/04/19
確かに正解には違いないのですが、実は一向宗には大きく分けて2つの宗派がありました。それぞれに分けて解説したいと思います。
鎌倉時代は新仏教が勃興した時期にあたり、臨済宗や時宗(じしゅう。浄土教の一宗派の鎌倉仏教)といった宗派が起こっています。
そうした中、浄土宗の僧・一向俊聖(いっこう しゅんしょう)を祖とする宗派が一向宗と呼ばれました。「一向が興したから一向宗」とは何とも安易な感じを受けますが、信徒たちは自らを一向宗徒と名乗っていたそうです。
一向は諸国を遊行しながら、踊り念仏や天道念仏を修して道場を設け、生涯最後の地となった近江・蓮華寺を本山と定めました。また、教団は近江だけでなく、尾張や関東、さらには奥羽にまで広がったといいます。
ある程度は全国規模での布教に成功するのですが、江戸時代には幕府の命により、時宗の管轄下に置かれました。なぜなら時宗と一向宗はともに踊念仏を行儀としていたため、同じ宗派として統合されてしまったのです。
さて、もう一つの一向宗が、皆さんもよくご存じの浄土真宗ですね。開祖・親鸞は法然の弟子となった人物ですが、法然が説く浄土往生の教えを継承し、これを高めていくことに力を注ぎました。いわば浄土宗のバージョンアップを図ろうという意味で浄土真宗と名付けたわけです。
ところが親鸞の意に反して、人々は浄土真宗のことを一向宗と称しました。親鸞は常々、「阿弥陀仏一仏に向け」と教えていたこともあり、世間の人々が「あれは一向宗ではないか」と勝手に呼んでいたからです。
また、親鸞の教えの中に「一向専念無量寿仏」というものがありますから、呼び方に関してピント外れでもありません。親鸞も一向宗と呼ばれることに否定はしなかったそうです。
さて、親鸞の死後、曾孫にあたる覚如が大谷本願寺を建立したことで、初めて「本願寺」という呼称が登場します。しかし宗派内の確執もあって、一向宗は各地で信徒を増やしていくものの、さほど目立った活動はできなかったようです。
しかし室町時代に入ると、第八世・蓮如の登場により、信徒は爆発的に増え、教団も強大になっていきました。
「念仏を唱えるだけで極楽へ往生できる」という教義が民衆の支持を得たこともあり、北陸地方を中心に勢力を拡大していきます。さらに教団を守るための武力も兼ね備えるようになり、やがて一向一揆と呼ばれる武闘集団へと変貌を遂げるのです。
とはいえ他宗派との争いも絶えなかったため、一向宗の本山である本願寺はたびたび移転を余儀なくされました。大谷本願寺は延暦寺の宗徒に破壊され、山科本願寺も日蓮宗徒たちによって焼き討ちされています。その結果、要害の地である大坂石山へ本拠を移し、大坂本願寺を落成させました。
ちょうどこの頃から教団の勢力はピークに達し、時として朝廷や幕府に大きな影響力を及ぼしたといいます。
しかし、一向宗に最大の敵が現れました。それが畿内に覇権を打ち立てた織田信長です。足掛け10年に及ぶ石山戦争の結果、各地の一向一揆は根絶やしにされ、手足をもがれた形になった本願寺教団は信長に屈服しました。
その後、江戸時代になると本願寺は分立し、「西本願寺」「東本願寺」という形となって現在に至るのです。
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