青少年期の土方歳三を深掘り! 多摩時代のエピソードから見えてくる歳三の姿

 新選組・土方歳三と言えば、厳しい掟を隊士に課した鬼の副長であり、イケメンとしても知られている。今や幕末を代表する人気者となった土方だが、彼が生まれ、少年時代を過ごした多摩での姿を知る方は少ないのではないだろうか。

 コアな土方ファンならもちろんご存じだろうが、副長としての一面しか知らない方にとって、多摩時代の土方はとても新鮮だと思う。

 そこで今回は、特に多摩で過ごした少年時代そして青年時代を、逸話や彼の俳句を通して、土方歳三という一人の男を見つめる…(いや、本当は私だけにしかわからない土方の一面を見つけたいだけなのだが)とにかく、土方歳三のもう一つの顔を探ってみようと思う。

武州多摩のバラガキ 歳三

 歳三が生まれたのは天保6年(1835)である。現在の東京都多摩市、武蔵国多摩郡石田村の豪農・土方家の四男・末っ子として誕生した。

 父・土方隼人は歳三が生まれる前に亡くなっており、母・恵津も歳三が6歳の時に亡くなっている。父母の愛情を十分に受けられなかった歳三ではあるが、すぐ上の姉の"のぶ"や兄たちには、とてもかわいがってもらっていたようだ。

幼少期の歳三

 土方家の子孫によると、幼いころの歳三は、きわめておとなしく、どちらかと言えば気弱に見えるタイプだったらしい。しかし、村周辺ではお大尽と呼ばれるほど裕福な農家だった土方家のお坊ちゃん・歳三は、子ども同士の中でも自然に大将に祭り上げられていたという。

 だんだんとわんぱくになってきた歳三。環境が人を変えるのだろうか…。

 金剛寺(現・高幡不動:土方家の菩提寺)の住職・川澄勝師によると「金剛寺の山門に上がって、中に巣を作っていた鳩の卵をつかんで、道行く人に投げつけていた」こともあるそうだ。すっかりバラガキだ。

 バラガキとは、多摩地方の方言で「イバラのように所かまわずひっかくことが転じて乱暴者・無鉄砲」という意味がある。成長するにつれ、歳三はバラガキとあだ名されるほどの悪童になっていたのだ。

歳三、丁稚奉公する

 弘化2年(1845)、歳三11歳にして、初めての丁稚奉公に上がった。行く先は上野の伊藤松坂屋呉服店、現在の松坂屋百貨店の前身である。日野の農家の息子が奉公する先としては、エリートコースにあたるのだが、歳三は1年足らずで多摩へ帰って来る。

 末っ子で甘やかされていたのが災いしたのか、もともと辛抱のできないタイプだったのか、歳三は上司である番頭と些細なことでいさかいを起こし、ひとりで多摩の実家へ戻ってきたのだ。その距離なんと九里、約35kmもの道のりである。結局、再び江戸へ行くことはなく、そのまま再び実家暮らしとなった。

歳三、剣術に出会う

 実家へ戻った歳三は、農業の手伝いもそこそこに、近所の子供たちと剣術遊びをしていた。ちょうどこのころ、姉・のぶの夫である佐藤彦五郎が、天然理心流に入門し、自宅近くに道場まで建てていた。熱心に剣術の稽古をする義兄の姿を見て、刺激されたのか、歳三は剣術の稽古を兼ねて、家伝の石田散薬を行商しがてら、近辺の道場で剣術指南を乞うという荒業を考え出した。しかし剣術ばかり夢中になり、肝心の薬は一向に売れないため、兄の嘉六に叱られると、のぶの嫁ぎ先である佐藤家へ避難していたという話もある。歳三はどうも、実家よりも佐藤家の方が居心地が良かったようだ。

2度目の奉公へ

 嘉永4年(1851)、17歳になった歳三は、再び江戸へ奉公に行く。今度は日本橋大伝馬町の呉服屋が奉公先だったらしい。今度こそ、という思いで送り出された歳三だったが、やはり奉公は長続きしない。

 歳三が、年上の女中と問題を起こしたため、暇を出されたという有名なエピソードはこの時の話である。2度の奉公失敗には、さすがの歳三も実家に帰りづらい。すると余計に佐藤家へ入り浸り、天然理心流との接点も増えてきた。

 「立派な武士になって国のために尽くす。その時は、これで矢を作るのだ」と言って、矢竹を歳三が植えたのは、おそらくこのころではなかっただろうか。この矢竹は今も土方歳三資料館に生い茂っている。

青年期の歳三

 新選組副長時代の土方歳三は、目つきも鋭く、冷ややかな人物というイメージだが、多摩に育った青年・歳三は、新選組隊士には想像もつかない愛嬌のある人だった。土方家や歳三の姉の嫁ぎ先である佐藤家の子孫の方々、地元に伝わっている歳三の素顔とは、どのようなものだったのだろうか。

熱い風呂が大好き

 歳三は、熱い風呂が好きで、兄・喜六の長男作助を捕まえて、熱い風呂に放り込み、フタをしたこともあるという。そして

「このくらい熱い湯に入れなければ、えらい人にはなれん」

などと言っていたそうだ。どんな理屈なのかわからないが、作助にすればいい迷惑である。

ふんどし姿で柱に平手打ち

 熱い風呂から出ると、ふんどしのままで、屋敷の大黒柱に張り手をすることもあった。相撲で言う「鉄砲」というやつだ。歳三の張り手で、屋敷が振動するようだったらしいが、その柱、今では土方歳三資料館の入り口に使われていて、歳三ファンを喜ばせている。

好物は沢庵

 歳三は、土方家の親戚にあたる家で作る沢庵漬けが大好物だったようで、家の土産に沢庵漬けひと樽を担いで帰ったこともあったらしい。どれだけ好きなのだ。京の漬物も有名だが、新選組時代に歳三は食べていたのだろうか。いや、「やはり漬物は多摩だ」…とか言ってそう。

男の子の傷は縁起が良い?

 佐藤家の屋敷普請の際、のぶ・彦五郎夫婦の三歳の息子が、転んで眉間に怪我をしたことがあった。たまたま佐藤家の玄関の間で昼寝をしていた歳三は、急いで子供を抱きかかえ、傷口を見ると「こりゃめでたい!男子の向かい傷だ」といった。

 怪我をして驚き、泣いていただろう子どもを慰めるためだろうか、機転の利く言葉だ。

餅つきでエンターテインメント

 佐藤家では、毎年大みそかに餅つきをしていた。その餅つきには、近藤勇や歳三も参加していたそうだが、まるで稽古のように気合をかけて餅をつく近藤に対し、歳三はふざけたり、おどけたり、わざと失敗したり、時にはちょっとお色気のあるしぐさをしたりと、みんなを楽しませた。しかも餅つきが終わると、何食わぬ顔で黙って餅を食べるので、その様子を見てまた皆が笑ったという。

 人の楽しませ方をよく心得ている人だったのだろう。

おしゃれな歳三

 歳三は、剣術の稽古をする際、赤い面紐を長く垂らしていたらしい。天然理心流と直真影流との非公式の他流試合でも赤い面紐を使っていて、相手側には馬鹿にされていたという話がある。おそらく弱々しく映っていたのだろう。それでも歳三は、赤い面紐を止めない。白皙の美青年だけにおしゃれにはこだわったのだ、きっと。

石田散薬作りを指揮する

 土方家の家伝薬である石田散薬は、牛革草(ぎゅうかくそう)という薬草が原材料なのだが、これを必ず土用の丑の日に刈り取らなければならなかった。多摩川の支流・浅川での刈り取り作業の際に、歳三が村人たちを指揮すると、とても手際良く刈り取れたと伝わっている。

 この時の経験が、新選組を運営、指揮する基本となっていたのかもしれない。若いころから効率よく組織を動かすすべを学んでいたのだろう。

歳三が残した俳句

 土方家では代々俳諧に親しんできた。多摩時代の歳三もよく句を詠んでいたらしく、京へ上る前には、それまで自分が詠んできた句をまとめている。それが今に残る『豊玉発句(ほうぎょくほっく)集』である。

 「豊玉」とは、歳三の雅号で、この発句集には、合計41句の俳句がまとめられている。日常の情景を素直にとらえた句が多く、どれも繊細な優しさがにじみ出ている。

 特に春の句、梅を詠んだ句が多いところから、歳三は春が好きだったのかもしれない。副長のイメージは厳しい寒さの冬だが、本当の歳三は、ほんのりと優しい春なのだろう。

 ここですべての句を紹介することが難しいので、私の好きな句をいくつか紹介しておこう。

人の世の ものとは見へず 梅の花

 梅が満開の景色を見たときそのままの気持ちだろう。とても素直、素直すぎて可愛くなる。初めて歳三が上洛したときは京の都にも梅が咲いていたはずだ。歳三は、京の梅を楽しむことはできたのだろうか。

山門を 見こして見ゆる 春の月

 この山門は、幼いころに、道行く人に卵をぶつけていた山門なのだろうか。歳三は、春の月を愛でるほどに風情のわかる大人になった。

梅の花 一輪咲ても うめはうめ

 歳三の句の中でもよく知られた梅の句である。この句もまさにそのままの情景なのだが、私は少し違った見方をしている。たった一輪でも美しく咲く梅に、歳三は自分の未来の姿を見ていたのではないか。「今はまだなにものでもない自分だが、たった一輪でも梅としてのアイデンティティを強烈に見せつけてくるこの梅のように、凛とした生き方を貫き、いつかは世の中に認めさせてやるのだ。」そんな歳三の心が表現されていると思うのは、深読みしすぎだろうか。

白牡丹 月夜月夜に 染めてほし

 白い牡丹の花を、月の白い光でより一層美しく白く染めて欲しいという意味だろう。歳三の中の気高さと清らかさに対するあこがれが見えるようだ。

菜の花の すだれに登る 朝日かな

 一面に咲いている菜の花の向こうから、朝日が昇ってくる。黄金に輝く朝日と鮮やかな黄色に色づいている菜の花。その景色が浮かぶようだ。多摩川や浅川には今でも菜の花が咲くのだろうか。歳三の見た景色をみてみたい。

あとがき

 土方歳三のエピソードは、新選組時代、戊辰戦争時代にも数々残っている。試衛館時代からの仲間、永倉新八や島田魁、戊辰戦争の頃なら新選組隊士の戦絵姿を残した中島登などの言葉から、土方の姿を探ることができる。奈良・平安時代などに比べると、ほんの150年ほど前の幕末に生きていた土方たち。まだまだ彼らの息づかいが感じられそうだ。これからも、彼ら新選組の残したものを追っていきたい。


【主な参考文献】
  • 菊池明『歴史読本クロニクル? 土方歳三の35年』(新人物往来社、1998年)
  • 『歴史群像 土方歳三』(学研、2004年)
  • 山村竜也『真説 新選組』(学研、2001年)
  • 藤堂利寿『土方歳三 知れば知るほど面白い・人物歴史丸ごとガイド』(学研、2004年)

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  この記事を書いた人
fujihana38 さん
日本史全般に興味がありますが、40数年前に新選組を知ってからは、特に幕末好きです。毎年の大河ドラマを楽しみに、さまざまな本を読みつつ、日本史の知識をアップデートしています。

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