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なぜ邪馬台国は歴史から消えたのか

★邪馬台国の女王・卑弥呼のイメージイラスト
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邪馬台国は、なぜ日本の古文書に記載されていないのでしょうか。現存する日本最古の書物、『古事記』・『日本書紀』から諸国の風土記にも一切記述がないのです。8世紀に書かれたというこれらの書物、それより500年前の卑弥呼時代の記憶はなかったのでしょうか。

しかし、7世紀から始まった遣隋使や遣唐使という日本の優秀な留学生たちが、中国の国史で邪馬台国が記述されている、三国志を読まなかったとは思えませんよね。邪馬台国は、歴史から抹殺すべき理由のある国だったのでしょうか。

なぜ歴史書には邪馬台国の記述がない

『古事記』、『日本書紀』、諸国の風土記など、現存する歴史書に「邪馬台国」の記述はありません。これらの歴史書が書かれたのは、だいたい8世紀頃のことです。こうした歴史書が書かれるまではどのように史実を伝えてきたのでしょうか。

5世紀までの日本では、語り部たちによって歴史が語り継がれていました。6世紀に入り、継体天皇の時代に、ようやく紙と文字が近畿方面に流入してきます。そこから紙に歴史が書かれ始めるようになります。

7世紀には聖徳太子や蘇我馬子らによって、律令国家及び中央集権国家体制の形を成して行きました。そして遣隋使や遣唐使といった留学生が中国へ派遣されます。彼らは中国の書物を読むだけにとどまらず、世界で最先端文明を誇る中国から、多くの文物を持ち帰っています。

都で書き溜められた書物の量は、膨大なものになっていたことでしょう。ところが、7世紀末に起こった壬申の乱(672年)において、それらの書物のほとんどが焼失するのです。この時代まで、蘇我氏一族が朝廷の最高権力者として君臨していました。

現存する歴史書の編纂は8世紀に

そして8世紀になって、新たに歴史書が編纂されました。それが、『古事記』・『日本書紀』・諸国の風土記となります。

※寛永版本 古事記、初版(國學院大學古事記学センター蔵。出典:wikipedia)
※寛永版本 古事記、初版(國學院大學古事記学センター蔵。出典:wikipedia)

日本の歴史はこれらの現存する歴史書がなくては何も語れません。ただし、編纂を進めたのが当時の権力者であり、彼らによって監修もされていますので、書物の内容をそのまま信用してしまう訳には行かないでしょう。

8世紀における最高権力者は、藤原氏一族です。壬申の乱によって歴史書を焼失させたのも藤原氏でした。飛鳥時代後期において、朝廷内での権力抗争を勝ち取った一族でもあり、歴史書の内容が藤原氏に都合のいいように書き進められたのは、しょうがないことなのかもしれませんね。

とはいっても歴史に残る書物でもあり、かなり配慮した点も見られます。

その一つは天皇を中心として書かれており、藤原氏はあくまでも家臣という立場をわきまえているようです。そして二つ目は、記紀よりも前に書かれた歴史書から大きくかけ離れた内容にしていないということ。

藤原氏自身の記述は、古くから由緒正しい家柄である、とすること以外にあまり多くのことは書かれていません。政治の表舞台に出たのは7世紀の乙巳の変(いっしのへん、645年)からで、藤原氏の祖となる中臣鎌足から、中大兄皇子の補佐役としての役割になっています。その後、権力を掌握してからは、皇室の最重要ポストに居座り続けることになります。

乙巳の変。蘇我入鹿が中大兄皇子・中臣鎌足らに暗殺され、蘇我氏宗家が滅亡した事件(出典:wikipedia)
乙巳の変。蘇我入鹿が中大兄皇子・中臣鎌足らに暗殺され、蘇我氏宗家が滅亡した事件(出典:wikipedia)

不都合な真実

以前の歴史書と大きくかけ離れた内容になっていないのはなぜでしょうか。

『古事記』・『日本書紀』よりも多くの古い歴史書が焼失したとはいえ、『上宮記』・『国記』・『天皇記』などといった貴重な文献がわずかに残っているために、おそらく極端な歴史歪曲が出来なかったのでしょう。仮に、藤原氏にとって都合の良い記述ばかりにすれば、他の豪族からの反感を買うでしょうし、人心も離れてしまうと考えたと思われます。

遣唐使として多くを学んできたエリートをたくさん従えていたこともあり、十分に考え抜かれた配慮があったのでしょう。飛鳥時代後期から千年以上も皇室の中心にいた豪族の藤原氏が、独裁的な歴史書を作成したとは考えられませんね。『上宮記』などの歴史書よりも古い書物は、後の時代に引用があるのでその存在は確認できますが、それらは全て14世紀頃になって処分されてしまったので、現存はしていません。

歴史から抹殺された邪馬台国

邪馬台国論争から見た場合の、『古事記』・『日本書紀』の特徴です。

特に強く思うのは邪馬台国の記述がないことです。遣隋使や遣唐使たちが中国で三国志を読まなかったはずはありません。それゆえ、邪馬台国の存在を知らなかったはずはないのです。

また、九州勢力が主力であったように書かれています。天照大御神や神武東征のように、天皇の祖先が本当に九州だったのでしょうか。それとも九州勢力に手を焼く近畿勢力が、天皇の祖先を九州として九州豪族の懐柔を画策したのでしょうか。さらに藤原氏の前身となる中臣氏が九州出身だったとも考えられますね。
『古事記』・『日本書紀』では藤原氏は家臣という立場を貫き、自らの出身母体が九州であるということを避けています。

三つ目の特徴は、蘇我氏一族を完全に極悪人としていることです。

このような記載は、明らかに藤原氏一族の正当性を強調するためです。そして継体天皇の孫の子である聖徳太子をスーパースターに仕立て上げる事で天皇家に忖度する一方、聖徳太子と共に大改革を次々と行っていった蘇我氏を極悪人にしたてているのです。乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺し、壬申の乱で蘇我氏一族を滅亡させた藤原氏一族は、極悪人を罰した正義の一族として正当化しています。

これらの事を見ても、藤原氏が邪馬台国の存在を歴史から抹殺しようとした理由は明らかです。九州系の藤原氏は、蘇我氏に対して強い怨念を持っています。それは蘇我氏の出身母体が邪馬台国だったからで、まず歴史から邪馬台国を抹消し、存在の抹消ができない蘇我氏は極悪人として扱ったのです。

邪馬台国が歴史から消された原因は、藤原氏の蘇我氏への遺恨でした。蘇我氏一族を滅亡させた後も、藤原氏の怒りは収まらなかったということなのでしょうか。

『古事記』と『日本書紀』の編纂においても、蘇我氏一族の極悪さを記述するだけでなく、蘇我氏の出身となる邪馬台国を歴史書から抹消することで、藤原氏の恨みも少しは下がったのでしょう。

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  この記事を書いた人
五百井飛鳥 さん
聖徳太子に縁のある一族の末裔とか。ベトナムのホーチミンに移住して早十数年。現在、愛犬コロンと二人ぼっちライフをエンジョイ中。本業だった建築設計から離れ、現在ライター&ガイド業でなんとか生活中。20年ほど前に男性から女性に移行し、そして今は自分という性別で生きてます。ベトナムに来てから自律神経異常もき ...

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